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{{Otheruses|[[紀元前305年]]の[[ディアドコイ戦争]]中のロドス島での戦争|[[1522年]]の[[オスマン帝国]]の戦争|ロドス包囲戦 (1522年)}}
{{Battlebox
|battle_name=ロドス包囲戦
|campaign=ディアドコイ戦争
|image=
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|conflict=[[ディアドコイ戦争]]
|date=[[紀元前305年]]-[[紀元前304年]]
|place=[[ロドス島]]
|result=ロドス側の勝利(アンティゴノス朝の戦略的勝利)
|combatant1=[[アンティゴノス朝]]
|combatant2=[[ロドス島]]<br>[[プトレマイオス朝]]
|commander1=[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]]
|commander2=アレス
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|casualties1=1,300
|casualties2=5,400
|}}
'''ロドス包囲戦'''(―(ロドスほういせん)は[[ディアドコイ戦争]]における[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]]と[[ロドス島]]との間で[[紀元前305年]]-[[紀元前304年]]に戦われた[[包囲戦]]である。
 
'''ロードス包囲戦'''(―ほういせん)は[[ディアドコイ戦争]]における[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]]と[[ロードス島]]との間で[[紀元前305年]]-[[紀元前304年]]に戦われた[[包囲戦]]である。
 
== 背景 ==
当時[[ドス島]]は強力な海軍を有する商業国家であった。[[ドス島]]は[[ディアドコイ]]とは[[中立]]関係を維持していたが、ディアドコイの一人でエジプトを統治する[[プトレマイオス1世]]とは密接な関係を持っていた。プトレマイオスと[[敵対]]するデメトリオスはロドスがその[[海軍力]]をプトレマイオスに提供するのを懸念していた。
 
当時ロードス島は強力な海軍を有する商業国家であった。ロードス島は[[ディアドコイ]]とは[[中立]]関係を維持していたが、ディアドコイの一人でエジプトを統治する[[プトレマイオス1世]]とは密接な関係を持っていた。プトレマイオスと敵対するデメトリオスはロードスがその[[海軍力]]をプトレマイオスに提供するのを懸念していた。
 
== 包囲 ==
そこでデメトリオスは[[艦隊]]200隻と補助船150隻、そして多くの[[海賊]]船を率い、[[ドス島]]を包囲した。また、彼の艦隊には略奪の利益を見越して1000隻以上の商船が付いて来た。
 
デメトリオスが[[バリスタ (兵器)|バリスタ ]] や[[カタパルト (投石機)| カタパルト]]を何段にも装備した[[攻城塔[[]]の{{仮リンク|ヘレポリス]](helepolis)|en|Helepolis}} (helepolis) を建てるなど両軍共に様々な兵器を使って戦い、壮絶な攻防戦を繰り広げた。ロドス側はデメトリオスに対しよく防戦し、彼は攻囲を諦めざるを得なかった。
そこでデメトリオスは[[艦隊]]200隻と補助船150隻、そして多くの[[海賊]]船を率い、ロードス島を包囲した。また、彼の艦隊には略奪の利益を見越して1000隻以上の商船が付いて来た。
 
紀元前304年に戦いの長期化を望まないデメトリオスの父[[アンティゴノス1世]]とプトレマイオスとの妥協の産物として両者は講和条約を結んだ。この講和条約によりロドス島はデメトリオスとプトレマイオスとの戦争における中立を約した。これによってロドス島の海軍力をプトレマイオスに使わせまいとするアンティゴノス・デメトリオス父子の目的は一応は達せられた。また、デメトリオスは最終的にロドス征服こそ果たせなかったものの、その過程で他の都市を多く包囲、陥落させたため、ポリオルケルテス (攻城者) と呼ばれるようになった。
デメトリオスが[[バリスタ (兵器)|バリスタ ]] や[[カタパルト (投石機)| カタパルト]]を何段にも装備した攻城塔[[ヘレポリス]](helepolis)を建てるなど両軍共に様々な兵器を使って戦い、壮絶な攻防戦を繰り広げた。ロードス側はデメトリオスに対しよく防戦し、彼は攻囲を諦めざるを得なかった。
 
紀元前304年に戦いの長期化を望まないデメトリオスの父[[アンティゴノス1世]]とプトレマイオスとの妥協の産物として両者は講和条約を結んだ。この講和条約によりロードス島はデメトリオスとプトレマイオスとの戦争における中立を約した。これによってロードス島の海軍力をプトレマイオスに使わせまいとするアンティゴノス・デメトリオス父子の目的は一応は達せられた。また、デメトリオスは最終的にロードス征服こそ果たせなかったものの、その過程で他の都市を多く包囲、陥落させたため、ポリオルケルテス (攻城者) と呼ばれるようになった。
 
== その後 ==
撤退の際にデメトリオスが置き去った兵器をロドスは売り払い、その利益を元にデメトリオスを退けた記念として今日では[[ロドス島の巨像]]として知られる[[太陽神]][[ヘリオス]]の像を作った。一方、東地中海の[[制海権]]で優位を保つことに成功したアンティゴノス・デメトリオス父子は次なる矛先をディアドコイの一人で、ギリシア・マケドニアに割拠する[[カッサンドロス]]に向けた。カッサンドロスはプトレマイオスはじめとする他のディアドコイと対[[アンティゴノス同盟]]を結んで対抗し、ディアドコイ戦争最大の会戦[[イプソスの戦い]]に至るのである。
 
撤退の際にデメトリオスが置き去った兵器をロードスは売り払い、その利益を元にデメトリオスを退けた記念として今日では[[ロードス島の巨像]]として知られる[[太陽神]][[ヘリオス]]の像を作った。一方、東地中海の制海権で優位を保つことに成功したアンティゴノス・デメトリオス父子は次なる矛先をディアドコイの一人で、ギリシア・マケドニアに割拠する[[カッサンドロス]]に向けた。カッサンドロスはプトレマイオスはじめとする他のディアドコイと対アンティゴノス同盟を結んで対抗し、ディアドコイ戦争最大の会戦[[イプソスの戦い]]に至るのである。
 
 
{{DEFAULTSORT:ろとすとうほういせん}}
[[Category:紀元前4世紀の戦闘]]
[[Category:マケドニア王国の戦闘]]
[[Category:ディアドコイ戦争]]
[[Category:ロドス島]]
 
[[Category:包囲戦]]
[[de:Belagerung von Rhodos (305–304 v. Chr.)]]
[[Category:紀元前305年]]
[[en:Siege of Rhodes]]
[[Category:デメトリオス1世 (マケドニア王)]]
[[es:Sitio de Rodas]]
[[fi:Rodoksen piiritys]]
[[fr:Siège de Rhodes]]
[[th:การล้อมเมืองโรดส์]]