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[[大阪府]]出身。[[地主]]・小畑万治郞の七男として生まれる。[[大阪府立茨木高等学校|茨木中学校]]卒。日本軍において、[[輜重兵]]科として[[陸軍大学校]]に入校し卒業した数少ない将校であった。
 
[[大東亜戦争]]開戦前の[[1941年2]](昭和16年)2月初め以来、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。
 
[[1943年]](昭和18年)3月には[[第15軍 (日本軍)|第15軍]]参謀長時、に着任。第15軍司令部で後の[[インパール作戦]]が起案された際、小畑は[[アラカン山脈|アラカン山系]]のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。この時、小畑は航空偵察で予想進撃路の視察を行い、峻厳な山岳部では[[兵站]]の整備が困難であると認識しており、[[牟田口廉也]]第15軍司令官に作戦の中止を求めたものの、却下された。このため小畑は第15軍下の[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]長[[田中新一]][[中将]]に説得の協力をんだ、田中は[[4月20日]]に開かれた兵団長会同の席上で牟田口に再考を促したが、同時に「小畑が牟田口に直接意見具申すべきで、統率上問題である」と述べる。これがもとで牟田口の逆鱗に触れて5月には参謀長を解任された。
 
関東軍情報部奉天支部長に転じ、その後[[第44軍 (日本軍)|第44軍]]参謀長としてソ連軍の満州侵攻を迎える。シベリアに抑留され、[[1956年]](昭和31年)12月に帰国した。
 
== 年譜 ==
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[[Category:シベリア抑留経験者]]
[[Category:大阪府出身の人物]]
[[Category:陸軍機甲整備学校の教員]]
[[Category:陸軍大学校の教員]]
[[Category:陸軍大学校出身の人物]]
[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]]
[[Category:大阪府立茨木高等学校出身の人物]]
[[Category:1897年生]]