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== 概要 ==
豊臣方は、[[大坂城]]が'''大坂冬の陣'''ののち[[堀]]をすべて埋められてしまったため、夏の陣では[[城]]を出て戦わざるをえない状況になっていた。[[河内国|河内]]方面、[[大和国|大和]]方面および[[紀伊国|紀伊]]方面より大坂城に迫る幕府軍に対し、豊臣軍は紀伊の[[浅野長晟]]への攻撃を決定、[[大野治房]]を主将に、[[塙直之]]、[[岡部則綱]]、[[淡輪重政]]ら兵3,000を送った。また、紀伊および[[和泉国|和泉]]で[[一揆]]を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応するよう画策した。浅野長晟は、国内で一揆の兆候([[紀州一揆]])があったことから出陣を見合わせていたが、[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]、兵5,000を率いて[[和歌山城]]を出発した。先鋒隊は和泉国佐野に着陣した日の夜半、偵察により豊臣軍の先鋒を発見、本陣に報告した。この時豊臣軍の兵数を20,000と誤認しため、浅野勢は少数での迎撃に適した樫井まで退却することにし、[[亀田高綱]]を和泉国安松に殿軍として残した。[[4月29日 (旧暦)|4月29日]][[明け方|夜明け]]、豊臣軍の先鋒塙直之、岡部則綱と亀田高綱の間で戦闘が開始された。亀田は遅滞戦術を展開し、豊臣軍を樫井まで誘引した。樫井では亀田隊に[[浅野知近]]、[[上田重安]]らが加わり豊臣軍と激戦になった。塙と岡部は先鋒を争う形で突出したため後続が追いつかず、やがて岡部は敗走、塙と淡輪は戦死した。戦闘後、浅野勢は一旦紀伊国山口まで撤退した。一揆勢の蜂起を合図に攻めようと考えていた大野治房は、先鋒で戦闘が発生したことに驚き、樫井へ急いだ。しかし、既に浅野勢は撤退した後だったため大坂城に引き返した。和泉の一揆は、大坂城から一揆を指揮するために送られてきた[[大野治長]]の家臣が浅野勢に捕らえられており失敗していた。紀伊の一揆も留守居の熊谷治部、寺沢半兵衛らの計略により鎮圧された。
 
== 参考文献 ==
* 『戦況図録 大坂の陣 別冊歴史読本56[[新人物往来社]]
* 『激闘 大坂の陣 歴史群像シリーズ【戦国】セレクション』[[学研ホールディングス|学研]]
 
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