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[[File:Xu Xi - Snowy Bamboo.jpg|thumb|300px200px|雪竹図 [[上海博物館]]所]]
'''徐熙'''(じょ き、[[886年]]-? - [[975年]]{{Efn|生没年)とは、中国版Wikiによる。}})[[五代十国]]時代]]の[[南唐]][[画家]]。[[前蜀]]・[[後蜀 (十国)|後蜀]]の[[黄筌]]とともに[[花鳥画]]の二大流派の徐氏体を創始した
 
==概略 来歴 ==
陵(現在の[[江西省]][[南昌市]][[進賢県]])、一説には金陵(現在の[[江蘇省]][[南京市]])の人ともいう。江寧の名族で代々南唐に仕える<ref name="#1">{{Cite book|和書|author=瀧遼一|year=1992|title=縮刷 東洋歴史大辞典 中巻|publisher=臨川書店|pagespage=P.401}}</ref>。高雅で穏やかな性格で、生涯官職には就かず平民として生きた。田園と自然の野趣を持っており写生を善くし花鳥魚果の名人といわれていた。南唐の君主であった[[李煜]]が徐の名画を多く蓄え、後に[[北|宋]]に降伏したさいにその秘蔵の画をすべて贈呈した<ref>{{Cite book|和書|author=内藤湖南|authorlink=内藤湖南|year=2002|title=支那絵画史|publisher=筑摩書房|page=94|series=[[ちくま学芸文庫|pages=P.94]]}}</ref>。宋の[[太宗 (宋)|太宗]]は徐熙の画について「花果の妙、吾れ独り熙あるを知るのみ」といって賛美した。
 
徐熙の画風は水墨を主体として淡彩を加え、粗放な筆致のうちに写意的表現を特色とした。この手法は徐氏体と称されて黄筌の黄氏体とともに""花鳥画""の二大源流を成した。北宋の『図画見聞誌』には黄筌の画法の富貴にたいし、「野逸」と評される<ref>{{Cite book|和書|author=内藤湖南|year=2002|title=支那絵画史|publisher=筑摩書房|page=94|series=ちくま学芸文庫|pages=P.94}}</ref>。「野逸」の一格を創出したことから、崇嗣・熙画派と呼ばれた。崇矩によって大成さ熙画派は「徐家野逸」とも呼ばれ、崇嗣は墨線を用いない没骨中国絵流派のひとつで、「黄家富貴」の院体画風創始突破した人物されで出現し<ref>{{Cite book|和書|author=。花鳥画の題材と藤湖南|year=2002|title=支那絵容、表現方法の多様化に貢献し、後世に極めて大きな影響を与えた。この派の画法は黄筌とは異なっており、美術|publisher=ちくま学芸文庫|pages=P.96}}</ref>において「徐熙異体」と称されている
 
多くの作品は太い筆と濃墨で制作し、色彩を少し施し筆跡は隠さず「落墨花」と呼ばれる<ref>{{Cite|和書|title=中国絵画の源流|author=王凱|date=2014-06|year=2014|edition=第1刷|publisher=秀作社出版株式会社|page=85-86|isbn=9784882655428}}</ref>。彼の「落墨」ほ、即ち「用墨用筆」であり、花卉の全体部分を勾勒しながら同時に染める。最後色彩を施し、枝、葉、ずい、がくの生態に立体感を与える。徐熙自身は「落墨の際、賦色と暈淡は細かい」と言っている。孫の徐崇嗣・徐崇矩によって大成され、崇嗣は墨線を用いない没骨画を創始した人物とされた<ref>{{Cite book|和書|author=内藤湖南|year=2002|title=支那絵画史|publisher=筑摩書房|page=96|series=ちくま学芸文庫}}</ref>。後の張仲、王若水、明代の沈周、陳道復(陳淳)、文徴明、徐渭らにより発展させられ、水墨写意花鳥画を定着された。徐熙は即ち「筆墨の遊び」という画法を駆使して当時すでに成熟されていた山水画の水墨の技法を花鳥画に融合させた。
日本では[[村田珠光]]が徐熙の鷺の画を所有し、[[茶会]]に使っていたとされる。その画は後に蒔絵師の[[源三郎]]に伝わったのを[[新井白石]]が見たと記録されている{{Efn|新井白石『退私録』より。}}<ref>{{Cite book|和書|author=飯島虚心ほか|year=1925|title=蒔絵師傳・塗師傳 下|publisher=吉川弘文館|pages=38p}}</ref>。
 
日本では[[村田珠光]]が徐熙の描いた鷺の絵を[[足利義政]]より賜って所持しており、さらにそれが奈良の商家松屋(通称「塗師屋(ぬしや)源三郎」)の所蔵となったが、幕末に松屋から流出して後は行方不明となっている<ref>{{Cite book|和書|title=新版茶道大辞典|year=2010|publisher=淡交社|page=480|chapter=鷺絵}}</ref>。
==参考文献==
*邵博・撰『聞見後録』
*張丑・撰『清河書畫舫』
*董逌・撰『廣川畫跋』
*趙希鵠・撰『洞天清録集』
*[[沈括]]・撰『[[夢渓筆談]]』<ref>{{Cite book|和書|author=瀧遼一|year=1992|title=縮刷 東洋歴史大辞典 中巻|publisher=臨川書店|pages=P.401}}</ref>
 
==注釈==
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
 
== 脚注 ==
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<references/>
 
[[Category:中国の画家]][[Category:886年生]][[Category:975年没]]
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2022年9月}}
* 邵博  『聞見後録』
* 張丑  『清河書畫舫』
* 董逌  『廣川畫跋』
* 趙希鵠  『洞天清録集』
* [[沈括]] 撰 『[[夢渓筆談]]』
* 金井紫雲 編「徐凞筆 蓮鳧鷺図双幅(内一図玻璃版)」『芸術資料』第1期第6冊、[[芸艸堂]]、1936年(昭和11年)、口絵(コマ番号0006.jp2)、インターネット公開、{{Doi|10.11501/1906500}}。
* 金井紫雲 編「徐凞筆 雪中柳鷺図(靑地家旧蔵)」『芸術資料』第2期第4冊、芸艸堂、1937年(昭和12年)、口絵(コマ番号0012.jp2)、インターネット公開、{{Doi|10.11501/1906532}}。
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しよ き}}
[[Category:10世紀中国の画家]]
[[Category:南唐]]
[[Category:五代十国の人物]]
[[Category:975年没]]