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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 菊池 義武
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = [[永正]]2年([[1505年]])
| 死没 = [[天文 (元号)|天文]]23年<ref name="戦国人名事典274">{{Harvnb|阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P274|西村|1990|p=274}}</ref>[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1554年]][[12月14日]])
| 改名 = 菊法師丸(幼名)→大友重治→重宗→菊池義宗→義武
| 別名 = 十郎(通称)<br />重治、重宗、義宗、義武、義綱、義国、武宗<ref name="戦国人名事典274"/><br />道誾<ref name="八代日記">{{Citation|和書|editor=熊本中世史研究会|title=[[八代日記]]』 (1980年 |year=1980|publisher=[[青潮社]]}}</ref>(法号)
| 諡号 =
| 神号 =
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}}
 
'''菊池 義武'''(きくち よしたけ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[肥後国|肥後]]の名族[[菊池氏]]の最後(第26代)の当主。[[大友氏]]の出身で、'''大友重治'''ともう。菊池氏一門の[[木野親則]]を曽祖父に持っており、菊池氏の血を引く人物でもある。
 
== 生涯 ==
[[永正]]2年([[1505年]])、[[豊後国]]の[[戦国大名]]・[[大友義長]]の次男<ref name="戦国人名事典274"/>として生まれた。
[[豊後国]]の[[戦国大名]][[大友義長]]の次男<ref name="戦国人名事典274"/>として生まれた。その頃、隣国である肥後の菊池氏では家督を巡って内紛を続けていた。大友義長は最初は当主である[[菊池政隆]]を支持する姿勢を見せていたが、裏で菊池氏の家督を狙う[[阿蘇氏]]出身の[[菊池武経|武経]]を支援、やがて公然と筑後国・肥後国に侵攻して政隆を滅ぼしてしまった。ところが、更にその裏では武経を追い落として菊法師丸(後の義武)を菊池氏の当主にして同氏を乗っ取る工作を進めており、永正7年([[1510年]])には[[相良氏]]に武経排除への協力を求めている<ref name=kimura>木村忠夫「大友氏の豊後支配」(初出:『熊本史学』42号(1973年)/所収:八木直樹 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻 豊後大友氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-122-6)</ref>。
 
この頃、隣国である肥後国の名族・菊池氏では家督を巡って内紛を続けていた。父・義長は表面上は当主・[[永正菊池政隆]]8を支持したが、裏で菊池氏の家督を狙う[[阿蘇氏]]出身の[[菊池武経]]を支援、やがて公然と[[筑後国]]・肥後国に侵攻して政隆を滅ぼした。すると今度は武経を追い落として自身の子・'''菊法師丸'''(後の義武)を菊池氏当主への擁立を画策、永正7年([[15111510年]])に菊池は[[相良氏]]に武経排除への協力を求めている<ref name="kimura">{{Cite journal|和書|author=木村忠夫|title=大友氏の豊後支配|journal=熊本史学|issue=42号|year=1973}}/所収:{{Citation|和書|editor=八木直樹|series=シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻|title=豊後大友氏|publisher=戎光祥出版|year=2014|isbn=978-4-86403-122-6}}</ref>。この家中の権力闘争に嫌気が差し、矢部に逃亡。た武経は永正107年([[15131511年]])、武経は阿蘇氏の家督を弟の[[阿蘇惟豊|惟豊]]から奪還領矢部へ逃亡した。一方、大友これにより義長は菊法師丸を菊池氏の後継者にするように菊池氏の重臣や傘下の国人に公然と働きかけ、菊法師丸に代わって所領の[[安堵]]を約束し始めた。だが、義長は永正15年([[1518年]])に父・義長は病死してしまう<ref name=kimura/>。
 
大友氏当主はの家督を相続した義長の嫡男で菊法師丸の兄である[[大友義鑑]]が継いだが、義鑑また、肥後に勢力を拡大するために肥後に多大な影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡を[[詫摩氏]]出身の[[菊池武包|武包]]に継がせ、弟・'''重治'''の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。永正17年([[1520年]])に重治は菊池武包から家督を譲られて菊池氏当主となった。重治は[[享禄]]4年([[1531年]])3月9日に[[従四位|従四位下]][[兵衛府|左兵衛佐]]に任じられ(『歴名土代』)、[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])までに義国を経て'''義武'''と名を改めた。この間、義武は兄・義鑑の方針に従って[[城氏]]・[[赤星氏]]・[[隈部氏]]と言った菊池氏庶流の重臣を老中(家老)から外して大友氏から連れてきた重臣と[[鹿子木氏]]や[[田島氏]]などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる<ref name=kimura/>
 
だが、義武は[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])<ref name="戦国人名事典274"/>に[[大内義隆]]や[[相良氏]]と同盟を結んで兄に反抗し独立する。兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、滅び行く菊池氏再興を願ったためか、明確な理由は不明であるが、義武は大友氏当主に未練があり、[[筑後国]]領有という領土的野心もあったことが原因だと思われる。一方、義鑑からすれば、肥後を自分のものとするための道具である筈なのにそれが自らの意思で動き出すことは容認できない事態であった。
永正17年([[1520年]])に武包から家督を譲られて当主となった。重治は享禄4年3月9日に従四位下左兵衛佐に任じられ(『歴名土代』)、[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])までに義国を経て義武と名を改めた。この間、義武は兄・義鑑の方針に従って[[城氏]]・[[赤星氏]]・[[隈部氏]]と言った菊池氏庶流の重臣を老中(家老)から外して大友氏から連れてきた重臣と[[鹿子木氏]]や[[田島氏]]などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる<ref name=kimura/>。
 
兄・義鑑はかつて大友氏から義武の老中に派遣されていたことのある[[山下長就]]をはじめ、[[吉岡長増]]や[[田北親員]]らを派遣して筑後から肥後に向けて進軍させた。だが、[[室町幕府]]の仲裁によって大友義鑑と[[大内義隆]]が和平を結ぶことになると、支援を失った義武の敗北は決定的になった<ref name=kimura/>。義武は[[肥前国]]の高来に亡命し、結局姻戚の[[相良氏]]を頼って落ち延びた<ref name="戦国人名事典274"/>。天文9年([[1540年]])に相良氏や[[宇土氏]]ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した<ref name="戦国人名事典274"/>。一方、大友義鑑は肥後の直接統治を決意し、天文12年([[1543年]])には幕府に働きかけて肥後守護職を獲得した。
だが、義武は[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])<ref name="戦国人名事典274"/>に[[大内義隆]]や[[相良氏]]と同盟を結んで兄に反抗し独立する。兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、滅び行く菊池氏再興を願った為か、明確な理由は不明であるが、義武は大友氏当主に未練があり、[[筑後国]]領有という領土的野心もあったことが原因だと思われる。一方、義鑑からすれば、肥後を自分のものとするための道具である筈なのにそれが自らの意思で動き出すことは容認できない事態であった。
 
天文19年([[1550年]])に兄・義鑑が[[二階崩れの変]]で横死すると、義武は鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び[[隈本城]]を奪還した<ref name="戦国人名事典274"/>。さら、更、二階崩れの変をきっかけに豊後国内は内乱に陥ると予測して相良氏・名和氏・三池氏・溝口氏ら肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した<ref name="戦国人名事典274"/><ref name=kimura/>。しかし甥の[[大友義鎮]](後の宗麟)は直ちに国内の混乱を鎮圧すると、義武を一族から義絶する旨を表明して大軍を派遣、隈本城は落城して義武は[[島原]]に落ち延びた<ref name="戦国人名事典274"/><ref name=kimura/>。義鎮は義武討伐に協力した阿蘇氏との関係を強化し、これまで排除の対象であった城氏・赤星氏・隈部氏を取り立てることで肥後支配の安定を確立させることになる<ref name=kimura/>。
義鑑はかつて大友氏から義武の老中に派遣されていたことのある[[山下長就]]をはじめ、[[吉岡長増]]や[[田北親員]]らを派遣して筑後から肥後に向けて進軍させた。だが、[[室町幕府]]の仲裁によって大友義鑑と[[大内義隆]]が和平を結ぶことになると、支援を失った義武の敗北は決定的になった<ref name=kimura/>。義武は、[[肥前国]]の高来に亡命し、結局姻戚の[[相良氏]]を頼って落ち延びた<ref name="戦国人名事典274"/>。天文9年([[1540年]])に相良氏や[[宇土氏]]ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した<ref name="戦国人名事典274"/>。一方、大友義鑑は肥後の直接統治を決意し、天文12年([[1543年]])には幕府に働きかけて肥後守護職を獲得した。
 
相良氏当主の[[相良晴広]]は、[[薩摩国]]の[[島津忠良]]に義武と義鎮の和睦周旋を依頼するなど努めたものの講和は成らなかった。また、義武は天文23年(1554([[1554]])に剃髪して[[日向国]]か薩摩に亡命しようとするも果たせなかった<ref name="戦国人名事典274"/>。同年11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗り豊後へ向かうが、その途上[[直入郡]]木原で義鎮の家臣[[立花道雪]]とその配下の[[由布惟信]]、[[安東家忠]]、[[安東連忠]]、[[小野信幸]]の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた<ref name="戦国人名事典274"/>。享年50<ref name="戦国人名事典274"/>。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実共に滅亡した。
天文19年([[1550年]])に義鑑が[[二階崩れの変]]で横死すると、鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び[[隈本城]]を奪還した<ref name="戦国人名事典274"/>。さらに、二階崩れの変をきっかけに豊後国内は内乱に陥ると予測して相良氏・名和氏・三池氏・溝口氏ら肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した<ref name="戦国人名事典274"/><ref name=kimura/>。しかし甥の[[大友義鎮]](後の宗麟)は直ちに国内の混乱を鎮圧すると、義武を一族から義絶する旨を表明して大軍を派遣、隈本城は落城して[[島原]]に落ち延びた<ref name="戦国人名事典274"/><ref name=kimura/>。義鎮は義武討伐に協力した阿蘇氏との関係を強化し、これまで排除の対象であった城氏・赤星氏・隈部氏を取り立てることで肥後支配の安定を確立させることになる<ref name=kimura/>。
 
相良氏当主の[[相良晴広]]は、[[薩摩国]]の[[島津忠良]]に、義武と義鎮の和睦周旋を依頼するなど努めたものの講和は成らなかった。また、義武は天文23年(1554年)に剃髪して[[日向国]]か薩摩に亡命しようとするも果たせなかった<ref name="戦国人名事典274"/>。同年11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗り豊後へ向かうが、その途上[[直入郡]]木原で義鎮の家臣[[立花道雪]]とその配下[[安東家忠]]、[[小野信幸]]の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた<ref name="戦国人名事典274"/>。享年50<ref name="戦国人名事典274"/>。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実共に滅亡した。
 
== 人物 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite bookCitation|和書|editoreditor1-last=[[阿部|editor1-first=]]|otherseditor2-last=西村|editor2-first=圭子|editor1-link=阿部猛|editor2-link=西村圭子|title=戦国人名事典|edition=コンパクト|publisher=[[新人物往来社]]|dateyear=1990|month=9|isbn=4-404-01752-9}}
 
{{肥後菊池氏歴代当主|第26代|1520年 - 1554年}}
 
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[[Category:守護大名]]
[[Category:戦国大名]]
[[Category:菊池氏|よしたけ]]
[[Category:大友氏|よしたけ]]
[[Category:守護大名]]
[[Category:戦国大名]]
[[Category:肥後国の人物]]
[[Category:自殺切腹した人物]]
[[Category:1505年生]]
[[Category:1554年没]]