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[[嘉永]]2年([[1849年]])、幕府より築城の許可を富江藩主・五島盛貫が受領し、第10代藩主・[[五島盛成]]が着工した。[[文久]]3年([[1863年]])、第11代五島藩主・[[五島盛徳|盛徳]]によって、日本で最も新しい城として[[石田城]]が竣工した。
 
[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治2年(1869年)に旧藩主・五島家は[[華族]]に列し、明治17年(1884年)に[[子爵]]となった。盛徳の跡を継いだ[[五島盛主|盛主]]には男子がなかったが、旧[[新発田藩]]主家の[[溝口直溥]]の十六男[[五島盛光|盛光]]を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった[[五島盛輝|盛輝]]は[[昭和]]20年([[1945年]])[[8月9日]]に[[長崎市]]で[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾]]に被爆したことが原因で[[9月2日]]に卒去した。盛輝と夫人の間には子供がいなかったため、当主が長い間不在であったが[[1986年]]に夫人の甥(夫人の妹の子)である[[五島典昭|典昭]]が養子に入り、当主を引き継いでいる<ref>{{Cite news|title=[解藩知県]令和の殿<4>旧福江藩五島家 五島典昭さん 66|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/feature/CO051552/20210814-OYTAT50008/|newspaper=読売新聞|date=2021-08-14|accessdate=2021-09-15}}</ref>
 
== 歴代藩主 ==
;'''五島家'''
外様 1万5000余石→1万2000余石→1万5000余石
#[[五島玄雅|玄雅]]
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第6代当主・[[五島運龍]](瑞鳳公)は、将軍・[[徳川家斉]]の[[側衆]]、[[大番頭役]]、京都二条城在番、[[大坂城番]]、諸国巡見使を歴任した。第7代当主・[[五島盛貫]](将軍・[[徳川家茂]]の[[側衆]])の時代には、実高1万600余石となった。
 
[[慶応]]4年([[1868年]])、福江本藩藩主の五島盛徳が政府に申し出たことにより、第8代当主[[五島盛明]]の代に領地を没収し福江藩に併合され、代わりに蔵米三千石を渡すことになったが、これは福江藩が海防などによる出費が増えるため、収入増を目指したものであった。富江領民は反発し、[[武装蜂起]]して激しく抵抗した(富江騒動)。明治2年に新政府により沙汰が出され、旧領内の1千石のみが認められた。ただしこの1千石の認可は実体の無いものであり、同年中に同じく新政府により代替地として[[寿都町|北海道寿都町]]の地を与えられたが、これも移住などの行動は行っていない。
 
=== 歴代富江領主 ===
;'''五島家'''
[[表高家]][[交代寄合]] 3000石
#[[五島盛清|盛清]]
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#[[五島盛恭|盛恭]] - [[五島盛道]]の四男。室は[[奥田高甫]]娘。
#[[五島運龍|運龍]] - 室は[[京極高文]]娘。後室に[[林忠英]]娘
#[[五島盛貫|盛貫]] - 婿養子<ref group="※">実父は松平維賢?</ref>。[[徳川家茂]]侍役。福江本藩の[[福江城]]の築城許可を取りつける。異国船方在役。
#[[五島盛明|盛明]] - 実父は[[溝口養正]]
#[[五島基民|基民]] - 実父は[[五条為定]]
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この他、[[明治維新]]後に富江領の第8代当主・五島盛明が[[後志国]][[磯谷郡]]の南部を領地としている。
 
== ==
{{Reflist|group="※"}}
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
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* [[八幡和郎]]『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[光文社新書]] [[2004年]] ISBN 978-4334032715
* [[中山良昭]]『江戸300藩 殿様のその後』 [[朝日新書]] [[2007年]] ISBN 978-4022731609
 
== 外部リンク ==
*[http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/242/ (五島)(五島近江守盛運)] - 武鑑全集(人文学オープンデータ共同利用センター)
 
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