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{{Portal|文学}}
'''晁 補之'''(ちょう ほし、[[1053年]] - [[1110年]])は、[[中国]][[北宋]]時代の中国の文章家[[]]は無咎、帰子と号する。[[蘇軾済州 (山東省)|済州]][[蘇轍巨野県|鉅野県]]兄弟に学び、の出身。[[秦観本貫]]は[[澶州]][[清豊県]]。[[蘇軾]]の門下となり、[[黄庭堅]]・[[秦観]]・[[張耒]]とともに「蘇門四学士」と称された。高祖父は晁迪。曾祖父は晁宗簡。祖父は晁仲偃。父は晁端友。弟は晁将之。族兄弟(晁迪の弟の晁迥の玄孫)は[[晁説之]]・[[晁謙之]]・[[晁詠之]]・[[晁載之]]・[[晁沖之]]([[晁公武]]の父)など
 
== 生涯 ==
[[File:晁補之.jpg|thumb|200px|晁補之]]
済州鉅野([[山東省]][[巨野県]])の出身。聡明で記憶力がよく、文章がうまいところから[[王安国]]にその才能を認められる。17歳の時に父の晁端友に連れられ[[杭州]]に行き、[[銭塘県|銭塘]]の風物を詩に詠じ、蘇軾に見いだされ広く知られるようになる。郷試・会試ともに第一位で、[[元豊 (宋)|元豊]]2年([[1079年]])に進士となる。[[神宗 (宋)|神宗]][[大名府|北京]][[国子監]]教授となる。[[祐]]元年([[1086年]])に[[太学|太学正]]・著作佐郎となる。[[紹聖]]元年([[1094年]])に[[州]]知州となり、『神宗実録』を編修したが、間違った記述をしたという理由で応天府(現在の[[宋州 (河南省)|応天府]][[商丘市]])通判、ついで毫州([[安徽省亳州]]亳県)の通判に左遷され、[[哲宗 (宋)|哲宗]]の代の[[元符]]2年([[1099年]])にはさらに監処州([[浙江省処州]][[麗水市]])に赴任する途中、喪([[丁憂]])に服し、監[[信州([[ (江西省)|信州]][[上饒市]])の酒税となる。[[徽宗]]の代時期に召されて吏部外郎・礼部員外郎中・国子編修実録検討官を拝命する。ついで[[蒲州 (山西省)|河中府]][[湖州 (浙江省)|湖州]][[密州]][[陳]]をへて、鴻慶宮の主管提挙になる。[[大観 (宋)|大観]]4間の末(1110年)知達[[泗]]州となり、まもなく没する。[[任城区|任城県]]呂村に葬られた。[[南宋]]の[[高宗 (宋)|高宗]]の代の[[建炎]]4年([[1130年]])、直学士を贈られた。
 
== 著作 ==
[[陶淵明]]の人となりを慕い、故郷に帰園を作り帰子と称する。弟の[[晁謙之]]が編んだ『肋集』が残されている。楚の詞論にもっとも通じ、[[屈原]]と[[宋玉]]以来の賦を集め『変離騒』などの書を編纂した。
 
== 参考文献 ==
*『[[宋史]]』巻444
 
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{{デフォルトソートDEFAULTSORT:ちよう ほし}}
[[Category:北宋の人物]]
[[Category:中国の文人]]
[[Category:11世紀中国の詩人]]
[[Category:12世紀中国の詩人]]
[[Category:菏沢出身の人物]]
[[Category:1053年生]]