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'''エルンスト・ネイズヴェスヌイ'''({{lang-ru|Эрнст Иосифович Неизвестный}}; [[1925年]][[4月9日]]-)は[[ソビエト連邦|ソ連]]生まれの[[ユダヤ人]]彫刻家。ソビエト芸術界に批判的であったため、[[スイス]]に亡命した。現在は[[ニューヨーク]]在住。▼
[[Image:Vladimir Putin 6 October 2000-2.jpg|thumb|right|250px| [[2000年]][[10月]]]]
▲'''エルンスト・ネイズヴェスヌイ'''({{lang-ru|Эрнст Иосифович Неизвестный}}
== 経歴 ==
祖父は商人、父は[[白軍]]兵士の家系に生まれる。[[第二次世界大戦]]中の17歳のときに[[赤軍]]に参加。ネイズヴェスヌイは前線に向かう途中で、自分の彼女を強姦した赤軍兵士を殺害した罪で銃殺刑を宣告された。2ヶ月間銃殺を待ち、その後懲罰大隊への配属に替えられた。終戦直前に戦闘で瀕死の重傷を負い、母親の元に死亡宣告が届いたほどであったが、なんとか戦争を生き延びることに成功する。
戦後の[[1947年]]に[[リガ]]の芸術アカデミーに入学する。その後、[[モスクワ]]の[[スリコフ美術学院]]、続いて[[モスクワ大学]]に学ぶ。ネイズヴェスヌイの彫刻は、多くが人体をモデルとし、力強さをあらわすことを得意とした。[[ブロンズ]]を素材とすることを好んだが、ソ連国内の物質事情など資材の制約もあり、[[コンクリート]]を材料とした作品を多く生み出した。1955年[[モスクワ芸術連盟]](MOSH)彫刻部門のメンバーになる。
1962年、[[マネージ広場]]での展覧会で、その作風を[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]第一書記
その後、アメリカに移り住み、[[ニューヨーク]]を中心に世界中で活動してきた。1996年6月12日には、[[ロシア]]の[[マガダン州]][[マガダン]]に[[強制収容所]]で亡くなった人たちをいたむ慰霊碑「[[悲しみのマスク]]」を公開し、これは高さが15メートル、容積が56立方メートルの巨大な彫刻である<ref>[https://jp.rbth.com/travel/2014/05/16/48311 マガダンの重い過去(Russian Beyond)]</ref>。
その後、アメリカに移り住み、現在はニューヨークで活動している。現在のロシア政府とは、2000年に[[ウラジミール・プーチン|プーチン大統領]]から直接表彰を受けるなど、良好な関係を維持している。▼
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{{DEFAULTSORT:ねいずべすぬい}}▼
[[Category:芸術家]]▼
[[Category:1925年生]]▼
==脚注==
{{Reflist}}
==外部リンク==
* [http://www.enstudio.com Studio of Ernst Neizvestny website]
{{Normdaten}}
[[Category:スイスの彫刻家]]
[[Category:ユダヤ系ロシア人]]
[[Category:ユダヤ系スイス人]]
[[Category:ロシア系スイス人]]
[[Category:ソビエト連邦の亡命者]]
[[Category:モスクワ大学出身の人物]]
[[Category:第二次世界大戦期のソビエト連邦の軍人]]
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