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独立国家としての'''[[カメルーン]]の[[歴史]]'''は[[1960年]]に始まる。しかし、人類の祖先の記録は約350万年に幕を開けていた。
== 人類以前 ==
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[[ナイジェリア]]東部からカメルーンの中部から北部にかけての地域は、現在東アフリカ、[[タンガニーカ湖]]の北部、[[ウガンダ]]と[[タンザニア]]の北部、[[ケニア]]の西部付近で話されている東[[バンツー]]諸語の起源地と考えられ、紀元前3000年から同1000年頃にかけて東部バンツー諸語の祖語が話されていたと考えられている。コンゴ及びその周辺でみられる彫刻の図像的らナイジェリアの[[ノク文化]]の担い手と深い関係があると考える研究者や[[モザンビーク]]のシフンパーゼ岩陰を[[標式遺跡]]とし、同岩陰から出土した一群の土器から[[シフンパーゼ複合]]を想定するフィリップソンは、東部バンツー諸語の担い手とシフンパーゼ複合を関連付けようとするがカメルーンからどのように伝播したのかは説明できないでいる。
紀元前1000年紀頃、カメルーンでは村落が形成されるようになる。ヤウンデ近郊のオボボゴ(Obobogo)遺跡は20,
== 国家の形成 ==
カメルーンに興った最初の[[文明]]は、[[5世紀]]に[[チャド湖]]周辺から移住してきた[[ソー族]]の国家である。このとき、カメルーンに[[青銅]]器が伝わった。ソー族の記録は7世紀の[[アラブ人]]地理学者によって記録されている。
7世紀に至ると、[[サハラ砂漠|サハラ]]地域を交易の場とする[[アラブ人]]商人との接触が始ま
== 帝国の影響 ==
[[File:Group of Kanem-Bu warriors.jpg|thumb|360px|[[カネム・ボルヌ帝国]]の戦士。]]
サハラ西南部には[[帝国]]が次々と興った。現在の[[モーリタニア]]南部を中心として[[4世紀]](ないし[[7世紀]])に成立した[[ガーナ王国]]、[[12世紀]]~[[15世紀]]には現在の[[マリ共和国]]を中心とした[[マリ帝国]]、[[1464年]]に現在のマリ、[[モーリタニア]]南部、[[ナイジェリア]]北部、[[ニジェール]]を版図として成立した[[ソンガイ帝国]]、[[1848年]]に成立した[[トゥクロール帝国]]などである。いずれも[[ニジェール川]]流域に位置する。
一方、カメルーン北部が属するアフリカ中央部は帝国の成立に適しておらず、唯一、[[カネム・ボルヌ帝国]]が成立しただけであった。カネム・ボルヌ領域の版図は[[チャド湖]]の南西岸を中心とした半径200~300kmの領域であった。[[9世紀]]に成立し、[[19世紀]](1840年代)に[[騎馬民族]]である[[フルベ人]]に滅ぼされるまで約1000年間、カメルーンに影響を与え続けた。
カメルーン南部の国家成立は遅れており、15世紀に[[コンゴ]]地方から移住してきた[[ドゥアラ人]]や[[バミレケ人]]がようやく村の集団を形成した。
== ポルトガル人との接触 ==
カメルーンの諸民族が[[西ヨーロッパ|西欧]]と最初に接触したのは[[1470年]]である。
[[ポルトガル]]は[[1385年]]に独立後、イスラーム勢力を抑え、領土拡張期に入った。[[1415年]]にはポルトガル王[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]が現在の[[モロッコ]]北部に位置する戦略港である[[セウタ]]攻略を決定、息子である[[エンリケ航海王子]]とともに、奪取に成功した。その後、エンリケ航海王子は海洋貿易に活路を求めた。イスラーム商人の仲介を経ることなく、東方([[インド]])の金や香料を入手するためである。これが[[大航海時代]]の始まりである。最初の探検隊は[[1418年]]に出発した。数次にわたる探検の結果、アフリカ大陸の海岸を飛び石のように南下する。[[1460年]]エンリケの死によって、一時、探検航海が遅延したが、[[1470年]]12月下旬、ついにカメルーンに到達した。このときは交易所などを開くことはせず、探検を継続した。その後、[[1488年]]には[[バルトロメウ・ディアス]]がアフリカ大陸南端の[[喜望峰]]を回り込み、[[1498年]]には[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]がインドに到達、エンリケ航海王子の目標を達成した。サハラ以南のアフリカ探検はポルトガルが先行したため、アフリカ大陸西岸諸国の国名には[[ポルトガル語]]由来のものが残されている。カメルーン(エビ)、[[ガボン]](フードの付いたマント)、[[シエラレオネ]]([[ライオン]]のほえ声)、[[サントメ・プリンシペ]]([[トマス (使徒)|聖トマス]]とアフォンソ王子)などが残る。
当時のポルトガルはいわゆる植民地獲得ではなく、交易所や商館の建設、貿易拠点を守り、船舶に補給を施す要塞の建設を進めた。これは内陸部に到達するための手段がないこと、内陸部の国家、帝国に対して軍事的に優位に立てなかったことによる。[[マリ帝国]]のような内陸部の国家と独占的な貿易協約を結ぶことで、海岸までの輸送、運搬手段を確保せずに済み、最低限の軍事力で交易を進めることができた。
しかし、ポルトガルの優位は1530年代に早くも崩れ始める。[[フランス]]、[[イギリス]]、[[オランダ]]などの後発国がポルトガルの交易地そばに自国の交易地を開き、圧倒したからである。
== 奴隷貿易の始ま
[[ファイル:Slavetrade2 blownup.jpg|thumb|360px|[[奴隷貿易]]に用いられた[[奴隷船]]の構造。]]
カメルーンが面する[[ギニア湾]]は[[奴隷貿易]]の拠点として知られている。[[1530年代]]になると、組織的な奴隷貿易が始まっていた。奴隷貿易の中心地は現在のコートジボワール([[象牙海岸]])やガーナ([[黄金海岸]])だったが、カメルーンでも進められていた。
奴隷貿易はいわゆる[[大西洋]][[三角貿易]]として始まった。輸出された[[奴隷]]は[[アメリカ大陸]]、特に[[西インド諸島]]に運ばれ、[[サトウキビ]]の[[プランテーション]]農園労働者となった。農園はサトウキビから抽出した糖蜜を[[北アメリカ]][[13植民地|東部13州]]のイギリス植民地に輸出、そして、糖蜜を発酵、蒸留した[[ラム酒]]は[[ギニア湾]]に輸出された。
:*参考ページ:[http://kunta.nomaki.jp/ 黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=]
[[1807年]]の[[イギリス帝国|大英帝国]]内の奴隷貿易禁止、[[1834年]]の[[奴隷制度廃止運動|奴隷制廃止]]に至るまで、カメルーンは奴隷貿易に300年間、苦しんだことになる。イギリスが奴隷貿易を廃止した理由は、人道的な見地からということもあったが、既に奴隷を輸送するよりも、象牙と椰子油を取引する方が利益が上がったという理由もある。
奴隷貿易には思わぬ副産物もあった。当時、アフリカ大陸中央部の熱帯雨林やギニア湾岸、つまりカメルーンの周囲では[[ヤムイモ]]が主食となっていた。ヤムイモの繊維は約5000年前の遺跡からも見つかっている。一方、ポルトガルは、奴隷船で奴隷を維持するために食物を必要としていた。[[ブラジル]]で発見した[[マニオク]]を用いた。[[1670年代]]には広く栽培されるようになった。マニオクはイモであるため栄養繁殖で増えるものの、極めて栽培に適した性質がある。種イモを使うのではなく、30cm以下の枝を耕地に指すだけで根付き、イモを収穫できるからだ。現在でも、中部アフリカの主要作物の収穫量1億トンのうち、6000万トンをマニオクが占める
== アフリカ分割の始まり ==
[[1804年]]、イギリスの[[リチャード・トレビシック]]が史上初の軌道向け[[蒸気機関車]]を開発。[[鉄道]]の時代が始まった。蒸気機関車が登場するまで、大量の物資、人員を長距離輸送するには船舶を使うしかなかった。陸上輸送においても[[運河]]が重視されており、運河に浮かべた輸送船を運河沿いの馬が引くという形態が広く見られた。だが、運河に頼る方法は海岸から急峻な地形が立ち上がる[[アフリカ大陸]]には向かない。
蒸気機関車が発明されることで、1870年代に入り、初めてアフリカ大陸内部への進入が可能になった。アフリカの分割が始まったのである。1870年代の状況は、[[オスマン帝国]]がアフリカ大陸北西部を押さえ、[[フランス領アルジェリア]]や[[ケープ植民地]]を除き、西欧諸国は交易に必要な点と線を確保していたに過ぎなかった。内陸に侵入、確保するためは大量の人員、物資が必要であったからだ。一方、植民地を面として抑えても、どれほどの利益が得られるかは不透明だったからだ。
そこで、当初はアフリカ沿岸部の[[民族]]と個別の保護条約を結ぶという形で植民地化が進んでいった。カメルーンにおいては、イギリス、フランス、[[ドイツ]]が交渉を競っていた。1880年の時点で、イギリスとフランスは貿易拠点として重要な黄金海岸を東西に分割していた。西側の[[コートジボワール]]がフランス、東側の[[ガーナ]]がイギリスである。[[ナイジェリア]]の[[ラゴス]]はイギリスとフランスが競合していた。一方、ナイジェリアの東部海岸とカメルーンは空白地帯のまま残されていた。
== ドイツ植民地時代 ==
{{Main|ドイツ保護領カメルーン}}
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 163-051, Kamerun, Weihnachten am Mungo.jpg|thumb|360px|[[ドイツ保護領カメルーン]]に駐留するドイツ兵。]]
[[1871年]]に[[プロイセン王国]]がドイツ諸地域を統一し、[[ドイツ帝国]]が成立すると、それまで海外領土を獲得する能力がなく、アフリカ大陸には一切の拠点を持っていなかったドイツがアフリカ進出を開始した。ドイツの商社代表[[グスタフ・ナハティガル]]はカメルーン南西部に広がる[[ドゥアラ人]]との交渉に成功したが、イギリスは弱小な民族と保護条約を結んだに過ぎなかった。
[[1884年]]には、ドイツ帝国初代宰相の[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]がアフリカ分割を決定付けた[[ベルリン会議_(アフリカ分割)|ベルリン会議]]を主催する。参加国は、[[アメリカ合衆国]]、イギリス、[[イタリア王国]]、[[オーストリア=ハンガリー二重帝国]]、[[オスマン帝国]]、[[オランダ]]、[[スペイン]]、[[スウェーデン]]、フランス、ポルトガル、[[ベルギー]]、[[ロシア帝国]]など13カ国であり、当時の[[列強]]とアフリカに権益を持つ国家すべてを含んでいた。ベルリン会議の原則は、沿岸を占領している国家がその内陸部を所有すること、空白地は会議参加国に通告することで、確保できること、権益地域では他国の通商、航行を保護する権力を持たなければならないことなどである。ベルリン会議の原則を一言で言うと「早いもの勝ち」である。このため、アフリカ分割が急速に進み、第一次世界大戦開始直前の1914年には[[リベリア|リベリア共和国]]と[[エチオピア帝国]]を除くすべての領域が西欧諸国に完全に分割されてしまった。
既にドゥアラに進出していたドイツ商社は1883年に本国政府にカメルーンの領土化を要請したため、ドイツ帝国は[[1884年]][[7月5日]]にカメルーン全土を[[保護領]]化した<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:49-50)]]</ref>。1885年に[[ドゥアラ]]に総督が派遣され、進出に抵抗した諸民族から土地を取得し、地域のイスラーム首長に労を通して間接統治を行った<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:65-68)]]</ref>。当初、[[首都]]は高地で過ごしやすい気候の[[カメルーン山]]麓の標高1000mの[[ブエア]]に置かれていたが、その後[[1888年]]に[[象牙]]貿易の拠点として建設された[[ヤウンデ]]に移った。
ドイツ人の植民地経営は[[農業]]と象牙の[[交易]]に特化しており、農作物として[[アブラヤシ]]、[[カカオ]]、[[バナナ]]、[[ゴム]]など[[商品作物]]を生産する[[プランテーション]]が経営され、現地人は開拓、作付け、収穫に使役された<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:65-67)]]</ref>。また、ドイツ人はカメルーンに上陸した西欧人として初めて体系的な輸送網を構築し、ドイツ資本の[[特許会社]]たる[[北西カメルーン会社]]、[[南カメルーン会社]]によって[[ドゥアラ]]港と補助港湾の整備、約100km北に位置する[[ンコングサンバ]]と、約120km東に位置するヤウンデへの[[鉄道]]敷設、[[橋梁]]の建設などの開発事業が行われた<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:66)]]</ref>。ドゥアラは現在カメルーン最大の都市となり、ヤウンデは首都に昇格している。両鉄道路線とも現在でも主力路線として成立している。
[[1911年]]に勃発した[[第二次モロッコ事件]]の解決に際して[[フランス領赤道アフリカ]]の一部を併合し、その支配を完成した[[ドイツ保護領カメルーン]]は現在のカメルーン共和国の領域の約二倍に及んだ<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:63)]]</ref>。主に東方、南方に広がり、その境界は現在の[[コンゴ民主共和国]](旧ザイール)に相当する[[ベルギー領コンゴ]]に達していた。
== ドイツ保護領カメルーンの分割 ==
{{Main|アフリカ戦線 (第一次世界大戦)}}
[[ファイル:Cameroon boundary changes.PNG|thumb|520px|1901年から1972年までのカメルーンの領域の変遷<br/>オレンジ:ドイツ領<br/>赤:イギリス領<br/>青:フランス領]]
[[1914年]][[7月28日]]に[[オーストリア・ハンガリー帝国]]が[[セルビア]]に宣戦すると、ヨーロッパ全体を巻き込む[[第一次世界大戦]]が始まった。8月にはドイツ、イギリスが参戦、9月には[[マルヌ会戦]]において[[ドイツ軍]]と[[フランス軍]]が交戦している。ドイツに対し、イギリスとフランスは[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として共同戦線を張っており、攻撃はドイツの植民地にも及んだ([[アフリカ戦線 (第一次世界大戦)|アフリカ戦線]])。イギリス軍は西の植民地[[ナイジェリア]]から、フランス軍は南の植民地[[ガボン]]と西の植民地[[フランス領赤道アフリカ]](現在の[[チャド]]と[[中央アフリカ共和国]])から攻撃をかけた。輸送の問題があったため、戦闘は1914年から1916年まで続いた。戦闘には南東に位置する[[ベルギー]]([[ベルギー領コンゴ]]、現在の[[コンゴ民主共和国]])も参加、ヤウンデは[[ベルギー軍]]が占領している。
1918年11月11日に[[中央同盟国]]の中枢だったドイツとオーストリアは降伏し、第一次世界大戦は終結した。フランス軍はドイツ保護領カメルーンの約4/5を占領、イギリス軍はナイジェリアとの国境沿いに残りの1/5を確保した。1919年1月18日よりアメリカ合衆国、イギリス、フランスを中心とする連合国が、[[パリ講和会議]]を開催したが、ドイツ植民地については結論が出なかった。最終的にはヴェルサイユ条約に従って[[国際連盟]]の[[委任統治]]制度が適用され、[[1922年]]7月に旧ドイツ保護領カメルーンはイギリス領とフランス領に分割された<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:73)]]</ref>。フランス領カメルーン成立に際して、フランスが1911年の第二次モロッコ事件の際にドイツに割譲した領域をフランス領赤道アフリカに再併合したことを除き、両植民地の領域はほぼ第一次世界大戦の占領地域に沿っていた<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:72-74)]]</ref>。
=== イギリス領カメルーン ===
{{Main|イギリス領カメルーン}}
第一次世界大戦終結時点でのイギリスの植民地政策は、極端に表現すると[[イギリス領インド帝国]]一国のみに集中して投資を行い、他の拠点は防衛や海上輸送の中継地として確保するというものであった。これはアメリカ合衆国独立などを経て、全世界に分散して投資すると防衛面で不利になるだけでなく、投資の回収も不可能になってしまうとの判断によるものでる。イギリスのアフリカ植民地政策は、[[1869年]][[11月17日]]に開通した[[スエズ運河]]が最重要拠点となった。交通の要衝[[エジプト]]と[[紅海]]沿岸のほかは、[[南部アフリカ]]の鉱物資源を死守すれば良いと考えていたため、カメルーンを自国領として確保したのちも、ドイツのような投資、開発は一切進めなかった。
イギリスの民間部門は[[イギリス軍]]が第一次世界大戦中にドイツから接収したドイツ人プランテーションの経営に参加しなかったため、1924年以後元ドイツ人所有のプランテーションがドイツ人によって買い戻された<ref name="oda1986.74-75">[[#小田(1986)|小田(1986:74-75)]]</ref>。また、イギリスは西カメルーンを分割してその北部を[[ナイジェリア植民地]]に併合した<ref name="oda1986.74-75"/>。このことが遠因となり、1961年のイギリス領独立時に北部の諸州がナイジェリアへ帰属することになる。
=== フランス領カメルーン ===
{{Main|フランス領カメルーン}}
フランスはアフリカ西部の大部分を自国の影響下に置くことに成功し、総面積ではイギリスに次ぐ[[フランス植民地帝国]]を築き上げた。フランスはイギリスに対して植民地獲得で遅れていたため、フランスはようやく獲得したアフリカ西部を、イギリスが[[インド]]を重要視していたのと同じく重視していた。このため、ドイツ人以上に投資、開発を進め、1920年代より現地住民の[[強制労働]]を軸に主に[[道路]]敷設、[[プランテーション]]の拡大、商品作物と[[木材]]の生産などの開発事業を行った<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:75-76)]]</ref>。[[1930年代]]に入ると、植民地状況から自治を求めるカメルーン人の[[民族主義]]運動が進み、[[1937年]]にフランスの首都[[パリ]]で[[カメルーン人同盟]]が、[[1938年]]に[[フランス領カメルーン青年団]]が結成された<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:100-101)]]</ref>。
[[1939年]][[9月1日]]に[[ナチス・ドイツ]]が[[ポーランド]]へ侵攻し、[[第二次世界大戦]]が勃発した後、[[1940年]]5月に[[電撃戦]]によってドイツがフランス東部を制圧、6月10日にはフランス政府が首都パリを放棄し、6月21日に[[フィリップ・ペタン|ペタン元帥]]を首班とする[[ヴィシー政権]]がドイツに降伏した。ヴィシー政権はドイツから自治を認められており、フランスの海外領土はそのままヴィシー政権の管理下に置かれた。駐留する総督と軍もヴィシー政権を支持していた。これは保守的な政策を唱えたヴィシー政権の政策が古い植民地に受け入れやすかったこと、[[1940年]][[7月3日]]に[[イギリス海軍]]がヴィシー政権下のフランス艦隊を攻撃、破壊したことなどに原因がある。一方、[[ロンドン]]に逃れた[[シャルル・ド・ゴール|ド=ゴール]]は、師団長の身分ながら[[自由フランス]]を結成する。ド=ゴールは植民地の資源と人材に注目し、ヨーロッパではなく、アフリカでの戦闘を望んだ。[[1940年]][[9月23日]]、まずはアフリカ大陸最西端に位置する[[セネガル]]の首都[[ダカール]]を[[ダカール沖海戦|イギリス軍と自由フランスが共同で奪回する作戦]]を実行したが、計画が事前にヴィシー政権に漏れていたため失敗に終わった。
このように、降伏後のフランスはペタン率いるヴィシー政権とド=ゴール率いる自由フランスに分裂したが、[[リシャール・ブリュノ]]総督を始めとするカメルーンの[[フランス]]人の多くはヴィシー政権の政策を評価していなかった<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:107-108)]]</ref>。[[1940年]][[10月8日]]にはド=ゴールがドゥアラ港に上陸、さらにチャド、コンゴを訪問し、フランス領カメルーンにて自由フランスの支持基盤を固めた<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:108)]]</ref>。ド=ゴールは現地の諸民族の協力を得ることに成功し、[[自由フランス軍]]の勢力を結集、10月27日には重要拠点の[[ガボン]]を攻略している。[[1944年]]にはフランス領赤道アフリカの[[ブラザヴィル]]で[[ブラザヴィル会議]]が開催され、フランス本国と一体不可分の枠組みの中でアフリカ植民地に一定の自由を認める[[ブラザヴィル宣言]]が発令された<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:108-112)]]</ref>。以上のように、フランスのアフリカ植民地は自由フランスの勝利に貢献したのであった。
第二次世界大戦の終結後、1946年にフランス領カメルーンは国際連盟委任統治領であった経緯から新たに創設された[[国際連合]]の[[信託統治領]]となったが、フランスの実質的な支配は継続された<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:116)]]</ref>。第二次世界大戦後のカメルーン人の法的地位は戦前よりも改善され、[[1947年]]から[[1953年]]までに312億[[CFAフラン]]が投資されるなど、[[インフラストラクチュア]]の整備を主軸とした開発政策が進んだ<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:117)]]</ref>。しかしながら、[[脱植民地化]]時代を迎えていたカメルーン諸民族の独立への希求は高まり、1948年にバミレケ人が中心となって[[カメルーン人民同盟]](UPC)が結成され、植民地支配からの脱却を綱領とするカメルーン最初の[[政党]]となった<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:123)]]</ref>。UPCは[[フランス共産党]]と共同しながら独立運動を進めたが、[[1955年]]5月に勃発した[[暴動]]によってUPCとその傘下の大衆運動は非合法化され、以後UPCは[[ゲリラ]]闘争を開始した<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:125)]]</ref>。
カメルーン人民同盟の武装闘争に刺激を受けた[[アンドレ・ムビダ]]と[[アマドゥ・アヒジョ]]は[[カメルーン民主ブロック]]を結成し、1956年12月の選挙を経て、1957年5月にムビダを首相、アヒジョを副首相とした政府が成立し、[[1958年]]2月には失脚したムビダに替わってアヒジョが首相に就任した<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:129)]]</ref>。アヒジョ首相の下で独立に向けた準備が進み、[[1959年]]に国連がフランスの信託統治の終了を決定、[[1960年]][[1月1日]]にはカメルーン共和国がフランスから独立した<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:135)]]</ref>。
== 独立以後 ==
[[ファイル:DF-SC-83-08608.jpg|thumb|220px|初代大統領[[アマドゥ・アヒジョ]](任:[[1960年]] - [[1982年]])。北部出身の[[ムスリム]]であった。]]
{{See also|{{仮リンク|カメルーンの現代史|fr|Histoire contemporaine du Cameroun}}}}
フランス領カメルーンの独立後、1960年4月にそれまで植民地政府の首相を務めていた[[アマドゥ・アヒジョ]]が初代大統領に就任した。一方、戦後のイギリス領カメルーンはナイジェリアとの統合かフランス領カメルーンへの合流かを巡って分裂していたが、[[1955年]]に[[ジョン・フォンチャ]]が[[エマニュエル・M・L・エンデレイ]]がナイジェリアとの統合を主張するカメルーン民族協議会を結成したが、1959年1月の選挙ではフランス領カメルーンとの統合派のフォンチャが勝利した。両者は対話による解決を図り、[[1961年]]にイギリス領カメルーンの北部はナイジェリアへ、南部は旧フランス領カメルーンへと分かれることになった。南部は[[1961年]][[10月1日]]に旧フランス領に合流した。
旧フランス領の東部と旧イギリス領の西部は合流に際して[[連邦]]制を採用し、大統領には旧フランス領出身のアヒジョが、副大統領には旧イギリス領出身のフォンチャが就任したが、次第にフランス領の勢力が増し、1972年に連邦制は廃止された<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:227-228)]]</ref>。また、独立以前から武装闘争を続けていた[[カメルーン人民同盟]](UPC)は、1971年に指導者[[エルネスト・ウアンディエ]]が処刑されたことを以てその勢力を喪った<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:229)]]</ref>。こうして国内の統制を完成したアヒジョは、以後[[1982年]]に後任に[[ポール・ビヤ]]を指名して辞任するまで大統領の職に留まった。この政権交代は平和的なものであり、アヒジョも与党党首の座にはとどまるなど一定の権力は保持しつづけたが、やがてビヤが権力基盤を固めるとともに両者の関係は険悪化し、[[1983年]]にはアヒジョがクーデターを計画したとしてフランスに追放され、[[1984年]]には国外のアヒジョに死刑判決が下される(アヒジョは国外にいたため実行はされていない)など、ビヤは独裁権力を樹立していった<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p126、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。その後[[1991年]]には[[複数政党制]]が導入されたものの、ビヤは政権の座にとどまりつづけた。
英語圏のカメルーン南西部にある[[北西州 (カメルーン)|北西州]]と[[南西州]]では長年、政治面や経済格差などから差別されていると感じており、1980年代になるとカメルーン英語話者運動(CMA)などの英語園地域の独立を主張する組織が、活発に活動するようになった。特に[[1995年]]に設立された[[南カメルーン国民会議]](SCNC)は独立運動に活発であった。[[1999年]]12月に[[フレデリック・アロブウェデ・エボング]]をリーダーにSCNCのメンバーが[[ブエア]]にあるラジオ局を占拠して英語圏の北西州と南西州からなる「[[南カメルーン連邦共和国]]」の名で「独立宣言」の声明が入ったテープを流す事件があった。その後もSCNCが「南カメルーン連邦共和国」の独立を主張したがカメルーン政府に弾圧されメンバーの何人かは投獄されたり亡命したりした。その怒りは[[2016年]]に再び抗議デモとして爆発。だが政府は譲歩を拒否した。独立派のSCNCが「アンバゾニア」として北西州と南西州の英語圏の独立を再び宣言し、武装闘争を始め、政府が鎮圧に動いた後、2017年末に暴動が激化した<ref>{{cite web|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3179376|title=カメルーン英語圏独立派、治安部隊員ら180人超殺害 政府が報告書|publisher=AFP|date=2018-06-21|accessdate=2018-07-21}}</ref>。
== 脚註 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 註釈 ===
{{Reflist|group="註釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=小田英郎|authorlink=小田英郎 |translator= |editor= |others= |chapter= |title=アフリカ現代史III――中部アフリカ|series=世界現代史15 |edition=初版 |date=1986年3月30日 |publisher=[[山川出版社]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-634-42150-X |volume= |page= |pages= |url= |ref=小田(1986)}}
== 関連項目 ==
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* [[アフリカ史]]
{{アフリカの題材|歴史|mode=4}}
{{DEFAULTSORT:かめるうんのれきし}}
[[Category:カメルーン|*れきし]]
[[Category:カメルーンの歴史|*]]
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