「カメルーンの歴史」の版間の差分
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== 奴隷貿易の始まり ==
[[ファイル:Slavetrade2 blownup.jpg|thumb|360px|[[奴隷貿易]]に用いられた[[奴隷船]]の構造。]]
カメルーンが面する[[ギニア湾]]は[[奴隷貿易]]の拠点として知られている。[[1530年代]]になると、組織的な奴隷貿易が始まっていた。奴隷貿易の中心地は現在のコートジボワール([[象牙海岸]])やガーナ([[
奴隷貿易はいわゆる[[大西洋]][[三角貿易]]として始まった。輸出された[[奴隷]]は[[アメリカ大陸]]、特に[[西インド諸島]]に運ばれ、[[サトウキビ]]の[[プランテーション]]農園労働者となった。農園はサトウキビから抽出した糖蜜を[[北アメリカ]][[13植民地|東部13州]]のイギリス植民地に輸出、そして、糖蜜を発酵、蒸留した[[ラム酒]]は[[ギニア湾]]に輸出された。
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== 独立以後 ==
[[ファイル:DF-SC-83-08608.jpg|thumb|220px|初代大統領[[アマドゥ・アヒジョ]](任:[[1960年]] - [[1982年]])。北部出身の[[ムスリム]]であった。]]
{{See also|{{仮リンク|カメルーンの現代史|fr|Histoire contemporaine du Cameroun}}}}
フランス領カメルーンの独立後、1960年4月にそれまで植民地政府の首相を務めていた[[アマドゥ・アヒジョ]]が初代大統領に就任した。一方、戦後のイギリス領カメルーンはナイジェリアとの統合かフランス領カメルーンへの合流かを巡って分裂していたが、[[1955年]]に[[ジョン・フォンチャ]]が
旧フランス領の東部と旧イギリス領の西部は合流に際して[[連邦]]制を採用し、大統領には旧フランス領出身のアヒジョが、副大統領には旧イギリス領出身のフォンチャが就任したが、次第にフランス領の勢力が増し、1972年に連邦制は廃止された<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:227-228)]]</ref>。また、独立以前から武装闘争を続けていた[[カメルーン人民同盟]](UPC)は、1971年に指導者[[エルネスト・ウアンディエ]]が処刑されたことを以てその勢力を喪った<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:229)]]</ref>。こうして国内の統制を完成したアヒジョは、以後[[1982年]]に後任に[[ポール・ビヤ]]を指名して辞任するまで大統領の職に留まった。この政権交代は平和的なものであり、アヒジョも与党党首の座にはとどまるなど一定の権力は保持しつづけたが、やがてビヤが権力基盤を固めるとともに両者の関係は険悪化し、[[1983年]]にはアヒジョがクーデターを計画したとしてフランスに追放され、[[1984年]]には国外のアヒジョに死刑判決が下される(アヒジョは国外にいたため実行はされていない)など、ビヤは独裁権力を樹立していった<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p126、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。その後[[1991年]]には[[複数政党制]]が導入されたものの、ビヤは政権の座にとどまりつづけた。
英語圏のカメルーン南西部にある[[北西州 (カメルーン)|北西州]]と[[南西州]]では長年、政治面や経済格差などから差別されていると感じており、1980年代になるとカメルーン英語話者運動(CMA)などの英語園地域の独立を主張する組織が、活発に活動するようになった。特に[[1995年]]に設立された[[南カメルーン国民会議]](SCNC)は独立運動に活発であった。[[1999年]]12月に[[フレデリック・アロブウェデ・エボング]]をリーダーにSCNCのメンバーが[[ブエア]]にあるラジオ局を占拠して英語圏の北西州と南西州からなる「[[南カメルーン連邦共和国]]」の名で「独立宣言」の声明が入ったテープを流す事件があった。その後もSCNCが「南カメルーン連邦共和国」の独立を主張したがカメルーン政府に弾圧されメンバーの何人かは投獄されたり亡命したりした。その怒りは[[2016年]]に再び抗議デモとし
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=
== 関連項目 ==
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