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{{出典の明記|date=2012年12月}}
{{フランスの歴史}}
[[ファイル:Royal Coat of Arms of Valois France.svg|thumb|ヴァロワ朝の紋章]]
'''ヴァロワ朝'''(ヴァロワちょう、{{lang-fr
[[1328年]]に[[カペー朝]]が断絶したため、[[カペー家]]の支流で[[ヴァロワ]]を所領とする[[ヴァロワ家]]から[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]が即位してヴァロワ朝が始まった。初期には[[1339年]]に勃発した[[百年戦争]]に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。[[1491年]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の代に[[アンヌ・ド・ブルターニュ|ブルターニュ
== 歴史 ==
[[ファイル:FrancisIFrance.jpg|thumb|left|フランソワ1世]]▼
=== 成立と百年戦争 ===
[[カペー朝]]第10代[[フランス君主一覧|国王]][[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の子の[[シャルル
ところが、当時の[[イングランド
名将[[エドワード黒太子]]率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世
そのような中で[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の時代に現れた[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、[[1453年]]
=== イタリア
フランスを事実上統一したヴァロワ朝は、[[イタリア]]へと領土的野心を向け、[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は[[1494年]]に[[イタリア戦争]]を開始する。[[1498年]]、
[[1515年]]に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫である[[ヴァロワ=アングレーム家]]の従兄[[シャルル・ドルレアン (アングレーム伯)|アングレーム伯シャルル]]の
その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たした[[スペイン]]と対立し、後にはスペインと[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[ハプスブルク家]]によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、[[1589年]]に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者[[ジャック・クレマン]]によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、[[ブルボン朝]]に代わった。
== 歴代国王 ==
=== ヴァロワ家 ===
# [[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]([[1328年]] - [[1350年]])▼
# [[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]([[1515年]] - [[1547年]]) 以下5代[[ヴァロワ=アングレーム家]]▼
=== ヴァロワ=オルレアン家 ===
# [[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]([[1547年]] - [[1559年]])▼
# [[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]([[1560年]] - [[1574年]])▼
=== ヴァロワ=アングレーム家 ===
# [[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]([[1574年]] - [[1589年]]) [[ポーランド国王|ポーランド王]]兼[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]([[1573年]] - [[1575年]])▼
▲
=== 系図 ===
{{フランス王室ヴァロワ朝}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ヴァロワ家]]
* [[フランス君主一覧]]
* [[ブルゴーニュ公国]]
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