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{{基礎情報 君主
'''アブドゥルムウミン'''({{lang-ar|‏عبد المؤمن بن علي もしくは عبد المومن الــكـومي}}, [[ティフィナグ文字]]: ⵄⴰⴱⴷ ⵍⵎⵓⵎⵏ ⵍⴳⵓⵎⵉ [[1094年]]? - [[1163年]])
| 人名 = アブドゥルムウミン
は、[[12世紀]]に北アフリカで建国された[[ムワッヒド朝]]の創始者。[[ベルベル人]]のザナータ族の出身<ref name="horupu">リトル「アブドゥル・ムーミン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、156-157頁</ref>。
| 各国語表記 = عبد المؤمن بن علي
| 君主号 = [[ムワッヒド朝]]初代[[アミール]]([[カリフ]])
| 画像 = Abdalmumin ben ali nedroma statue.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = [[アルジェリア]]の[[トレムセン]]にあるアブドゥルムウミンの像
| 在位 = [[1130年]] - [[1163年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
アブドゥルムウミン・イブン・アリー・アルクミ
| 出生日 = [[1094年]]頃
| 生地 = [[File:Flag of Morocco 1073 1147.svg|border|25px]] [[ムラービト朝]]、[[ネドロマ]]
| 死亡日 = [[1163年]][[12月]](69歳)
| 没地 = [[File:Flag of Almohad Dynasty.svg|border|25px]] [[ムワッヒド朝]]、[[サレ]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = ティンメル
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 =
| 配偶者2 =
| 子女 = ムハンマド<br>[[アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ムワッヒド朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = アリ・イブン・マクルフ・アルクミ
| 母親 =
| 宗教 = [[イスラム教]][[スンナ派]]
| サイン =
}}
'''アブドゥルムウミン'''({{lang-ar|‏عبدعبد المؤمن بن علي もしくは عبد المومن الــكـومي}}, [[ティフィナグ文字]]: ⵄⴰⴱⴷ ⵍⵎⵓⵎⵏ ⵍⴳⵓⵎⵉ [[1094年]]? - [[1163年]][[12月]])
は、[[12世紀]]に北アフリカで建国された[[ムワッヒド朝]]の創始者であり初代[[アミール]]([[カリフ]])。[[ベルベル人]]のザナータ族の出身<ref name="horupu">リトル「アブドゥル・ムーミン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、156-157頁</ref>。
 
12世紀初頭のモロッコで起きた宗教運動に参加し、[[北アフリカ]]の[[モロッコ]]から[[チュニジア]]にかけての地域と[[イベリア半島]]にまたがる国家を建設した<ref>私市正年「西アラブ世界の展開」『西アジア史 I アラブ』収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)、232-233頁</ref>。彼の時代に、[[マグリブ]]の政治的統一が達成された<ref name="sa56">サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、56頁</ref>。
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[[1094年]]ごろ、[[トレムセン]]と[[地中海]]沿岸の中間に位置するネドロマ([[:en:Nedroma|en]])の陶工の家に生まれる<ref>那谷『紀行 モロッコ史』、150頁</ref>。若年時は故郷のトレムセンでイスラームの学問を修めた。
 
[[1117年]]ごろに[[ベジャイア]]に遊学し<ref name="horupu"/>、ベジャイア近郊のマッラーラで[[ムワッヒド運動]]の指導者である[[イブン・トゥーマルト]]と対面する<ref name="mae385386">前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、385-386頁</ref><ref>那谷『紀行 モロッコ史』、152頁</ref>。この時から、彼の門弟となって行動を共にするようになった。このアブドゥルムウミンとトゥーマルトの出会いは、神秘的な伝説によって脚色されている<ref name="mae385386"/><ref name="sa29">サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、29頁</ref>。
 
=== ムラービト朝との戦い ===
トゥーマルトらムワッヒド派は、[[マーリク学派]]を公認し、奢侈的な空気が支配するモロッコの[[ムラービト朝]]を攻撃の対象とした<ref name="horupu"/>。ムワッヒド派による批判は神学の分野を超えたものであり、ムラービト朝の宮廷ではトゥーマルトたちを排除する意見も出ていた<ref name="sa29"/>。かくしてトゥーマルトはムラービト朝の首都[[マラケシュ]]を離れて[[アトラス山脈]]に移動し、アブドゥルムウミンは彼に付添った。[[1122年]]にムワッヒド派はキクの戦いでムラービト軍に勝利するが、ムラービト朝からの圧力はより強くなり、[[1123年]]に{{仮リンク|ティンメル|en|Tinmel}}に移動した。
 
「10人」を意味するアシャラ(ashara)、あるいは「共同体の人々」を意味するアフル・アル・ジャマーア(Ahl al-Djamā'a)の名前で呼ばれる顧問会議の構成員となり、軍の指揮権を委ねられた<ref name="#1">サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、37-38頁</ref>。
 
[[1125年]]にトゥーマルトが軍隊を編成した時、アブドゥルムウミンが軍の総司令官に選ばれた<ref>那谷『紀行 モロッコ史』、153頁</ref>。山岳地に潜伏していたムワッヒド派は平原部に押し寄せ、弱体化したムラービト軍を打ち破る。マラケシュを包囲するが陥落には至らず、アル・ブハイラの戦いでマラケシュ救援に現れた騎兵隊にムワッヒド軍は敗北し、トゥーマルトの後継者と目されていたアル・バシールが戦死する<ref>サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、37-38頁<name="#1"/ref>。アブドゥルムウミンも負傷し、敗残兵を率いてティンメルに退却した。1130年8月<ref>前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、386頁</ref>(もしくは[[1128年]]<ref>サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、38,43-44頁</ref>)、おそらくはマラケシュ包囲中の負傷が原因でトゥーマルトは没する<ref name="nata154">那谷『紀行 モロッコ史』、154頁</ref>。
 
=== 王朝の成立 ===
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== 参考文献 ==
* 那谷敏郎『紀行 モロッコ史』(新潮選書, [[新潮社]], 1984年)
* 前嶋信次『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』([[講談社学術文庫]], [[講談社]], 2002年3月)
* D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(林邦夫訳, [[刀水書房]], 1996年4月)
* ドナルド.P.リトル「アブドゥル・ムーミン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, [[ほるぷ出版]], 1980年12月)
* O.サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録(D.T.ニアヌ編, [[同朋舎出版]], 1992年3月)
 
{{先代次代|[[ムワッヒド朝]]初代[[モロッコの君主一覧|アミール]]|1130年 - 1163年|-|[[アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世]]}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あふとうるむうみん}}
[[Category:ムワッヒド朝の君主]]
[[Category:12世紀の軍人]]
[[Category:12世紀アフリカの君主]]
[[Category:12世紀ヨーロッパの君主]]
[[Category:12世紀スペインの人物]]
[[Category:12世紀ポルトガルの人物]]
[[Category:アルジェリアの歴史]]
[[Category:1094年生]]