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[[Image:HRR 14Jh.jpg|300px|right|thumb|マルシリウスが生きた時代、[[14世紀]]の[[神聖ローマ帝国]]<br />この時代は代表的な[[家門]]の間で皇帝権の争奪がおこなわれていた。図中紫が[[ルクセンブルク家]]の家領。図中オレンジが[[ハプスブルク家]]の家領。図中緑は[[ヴィッテルスバッハ家]]の所領]]
'''パドヴァのマルシリウス'''([[イタリア語|伊]]:Marsilio da Padova、[[ラテン語|羅]]:Marsilius Patavinus、[[英語|英]]:Marsilius of Padua、[[1275年]]あるいは[[1280年]]、[[1290年]]<ref>生年については論争があり、定かではない。</ref> - [[1342年]]あるいは[[1343年]])は、[[中世]][[イタリア]]の[[哲学者]]、[[神学者]]。マルシリウスの主著『平和の擁護者』は、[[人民主権]]理論の先駆であると考えられており、西洋政治思想史におて決定的な役割を担ったとされる。
 
==生涯==
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マイナルディーニ家の出身で、一族は[[裁判官]]や[[公証人]]を輩出している[[家系]]。ボンマッティオ(Bonmatteo)を父として[[パドヴァ]]に生まれた。[[パドヴァ大学]]で[[医学]]を修め、[[1311年]]ごろにはイタリアで医者として活動をした。[[1312年]]ごろに[[パリ]]に遷って[[パリ大学]]で[[哲学]]や医学を学び、[[自然科学]]での名声に基づいて、1312年[[12月]]から[[1313年]][[3月]]の間[[学長]]となった。[[1316年]]にはパドヴァに戻っており、医業に復帰した。その後放浪し、パリで医業に携わる傍ら、[[1324年]]には『平和の擁護者』(“''Defensor pacis''”)を著した。
 
ところで[[1322年]]から単独の[[ローマ王]]となっていた[[バイエルン大公]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]と[[教皇]][[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]の間で[[1323年]]から論争が始まっていた。前者がイタリアに皇帝代理を派遣して[[神聖ローマ皇帝|皇帝]]戴冠を目指したのに対し、後者が異議を唱え、[[1324年]]にはルートヴィヒ4世の[[破門]]とドイツ全土の聖務停止を宣言した。マルシリウスと彼の古い友人である[[ジャンダンのヨハネス]]<ref>[[:en:John of Jandun|Jean de Jandun]](生年不詳 - [[1328年]])は中世[[ベルギー]]の哲学者、神学者。当時[[パリ大学]]教授でアヴェロエス主義者。かつては『平和の擁護者』の共著者ではないかと考えられていたが、現在は否定されている。</ref>はこの論争において、両者共にヨハネス22世に恩義があった<ref>マルシリウスはヨハネス22世によって1316年にパドヴァの教区の聖堂参事会員に任命されており、さらに[[1318年]]にはパドヴァの教区で最初に空席になった聖職禄を授けられている。ヨハネスもパリ近郊[[サンリス]]司教座の聖堂参事会員であった。</ref>にもかかわらず、[[イブン=ルシュド|アヴェロエス]]主義的な立場からルートヴィヒ4世を支持し、その庇護を求めた。
 
===後半生===
[[Image:Ludovico il Bavaro.jpeg|200px|thumb|[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]]]
[[1326年]]に2人がルートヴィヒ4世の宮廷に到着した際、『平和の擁護者』を献上すると、当初ルートヴィヒ4世はその政治理論の大胆さに驚き、[[異端]]ではないかと考えた。しかしすぐにルートヴィヒ4世は考えを改め、2人を宮廷に招き入れ、好意を寄せるようになった。マルシリウスはルートヴィヒ4世の側についたために、ヨハネス22世により[[1327年]][[4月3日]]に破門された。マルシリウスは帝国の方針を擁護する重要な論者となり、ルートヴィヒ4世のイタリア遠征に随行した。イタリアでは[[ミラノ]]で[[ローマ]][[教皇]]を書面で攻撃し、ローマでは[[ローマ皇帝]]は教皇ではなく、人民によって選ばれるとする『平和の擁護者』での主張に基づいて、人民の集会を組織し、彼らによりルートヴィヒ4世は皇帝として宣言された([[1328年]][[1月17日]])。[[4月18日]]にはルートヴィヒ4世によりヨハネス22世の追放が宣言され、[[フランシスコ会|フランチェスコ会]]士[[コルヴァーロ|コルバーラ]]のピエトロを[[ニコラウス5世 (対立教皇)|ニコラウス5世]]として使徒の座へ擁立した<ref>これによりフランチェスコ会は皇帝支持に回った。</ref><ref>このルートヴィヒ4世とヨハネス22世の対立については、[[政教分離の歴史#皇帝との対立、そして「金印勅書]]を参照。</ref>。
この革命劇においてマルシリウスが重要な役割を果たしたことは明らかである。マルシリウスはルートヴィヒ4世によってローマの教皇代理に任命されると、ヨハネス22世を支持する聖職者たちを迫害した。そしてジャンダンのヨハネスが[[フェラーラ]][[司教区]]を得たと同時期に、マルシリウスはおそらく[[ミラノ大司教]]に任命された。
 
また『帝権委譲論』(“''De translatione Imperii Romani''”)<ref>これは[[ランドルフォ・コロンナ]]の『帝権委譲論』(“''De translatione Imperii Romani''”)を継承し、再構成した著作。</ref>において、神聖ローマ皇帝の独占的な支配権を正当化し、特に[[チロル]]伯女[[マルガレーテ (チ・フォン・ティロル女伯)|マルガレーテ・マウルタッシュ]]と[[ボヘミア]]王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]の次男・[[モラヴィア]][[辺境伯]][[ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク|ヨハン・ハインリヒ]]を離婚させるルートヴィヒ4世の介入を擁護した(後にルートヴィヒ4世は長男の[[ブランデンブルク辺境伯]][[ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]とマルガレーテを結婚させた)。
 
マルシリウスの晩年については記録に乏しく、はっきりしたことはわからないが、[[1343年]][[4月10日]]に教皇[[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]がマルシリウスを死者として扱っていることから、それ以前に死去したと推察される。
 
==思想==
マルシリウスの理論は教会と世俗の一体的な社会を想定しているという意味で中世的であるが、人民主権理論、絶対主義的な国民国家理論の先駆として高く評価されている。とくに研究としては中世思想の代表ともいうべきトマス主義との鋭い対立を想定する傾向にある。しかし一方で歴史的背景、思想的淵源を考慮して彼の思想を正確に読み直そうとする傾向も強まっている。
 
===アヴェロエス主義===
[[画像:Ibn Rushd & Thomas Aquinas.png|250px|thumb|[[イブン=ルシュド|アヴェロエス]](左)と[[トマス・アクィナス]](右)]]
中世における[[アリストテレス]]受容において、[[トマス主義]]と[[アヴェロエス主義]]という2つの立場が存在した。13世紀以降アリストテレスの注釈者としてアヴェロエス、すなわちイブン=ルシュドが大きな影響力を振るったのであるが、とくにキリスト教の[[信仰]]に対立するようなアヴェロエスの解釈について、神学者の間で危機意識が生じていた。当時アヴェロエスの解釈を全面的に受け入れて、信仰と[[理性]]の分離を唱えた人々をアヴェロエス主義者という。一方で[[トマス・アクィナス]]はアヴェロエス主義をアリストテレスの歪曲的な理解であるとして斥け、信仰は理性を超えている上に理性の根拠であるとし、「哲学は神学の婢」と呼んだ。
 
マルシリウスは彼の友人ジャンダンのヨハネスとともに明らかにアヴェロエス主義の思想的系譜に属しており、理性と信仰の分離を唱えている。彼によれば経験によって到達しうる確実性と単純に信じ込むことの間には関連性が認められないという。したがって信仰を哲学などの知的理解にとって必要不可欠とするトマス主義的な考えには否定的であった。信仰が理性を超えているからこそ、両者は分離されるべきと唱えたのである。
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===政治思想===
『平和の擁護者』で展開されるマルシリウスの政治思想はアリストテレス的であり<ref>ただしアリストテレスに反して社会を人間にとって自然なものであるとする考えは斥けている。</ref>、社会の自律性を論じた。彼は国家が完全な[[共同体]]であり、したがって[[キリスト教]]や教皇が政治に介入することはこのような共同体にとって不和と争いの元になるだけで害悪であるという。したがって国家内での一元的支配の実現こそが彼の理想であり、そういう権力を支える手段が法である。ここからマルシリウスが[[絶対王政|絶対主義]]的な国家主権理論を唱えているとする解釈が成り立つ。
 
=== 皇帝権の擁護 ===
また法の権威と根拠は人民の制定に求められること、すなわち人民による立法を唱えている。したがって法によって強制力を行使する支配者は人民に対して責任を負っている。彼によれば、法はあくまで強制力を伴う実定法であり、自然法や神法などは実定法秩序によって強制力を付加されない限り、厳密な意味で法ではない<ref>ただし『平和の擁護者小論』(“''Defensor minor''”)では、実定法が自然法や神法に違反する場合は、後者が優先されると述べている(『中世思想原典集成』18、p.502)。</ref>。
神聖ローマ皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]が皇帝代理を[[イタリア半島|イタリア]]に派遣し皇帝戴冠を目指すと、[[アヴィニョン]]の[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]教皇は教皇への服従を求めたが、ルートヴィヒ4世が応じないので[[破門]]した。また教皇は清貧論争で教皇と対立し、数名を異端として処刑された[[フランシスコ会]]聖霊派はルートヴィヒ4世のもとへ逃亡した<ref>小田内隆 『異端者たちの中世ヨーロッパ』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2010年p249-250</ref>。
 
マルシリウスは『平和の擁護者』([[1324年]])などで教皇首位権および世俗社会に対する教会の介入を批判し、皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]と教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]の間の論争において皇帝を擁護する論陣を張り、『帝権委譲論』(“De translatione Imperii Romani”)で皇帝の権力を正当化し、[[絶対主義]]的な国家理論を唱えた。
信仰に関しては内面の問題であるとマルシリウスは論じ、信仰の組織である教会は信徒の全体であり、教皇権は便宜上歴史的に設定された人為的な制度にすぎないとし、すべての聖職者は平等であるべきで、公会議により教会法が立法されるべきであるとして[[公会議主義]]を唱えた。
 
=== 法思想 ===
マルシリウスの理論は教会と世俗の一体的な社会を想定しているという意味で中世的であるが、人民主権理論、絶対主義的な国民国家理論の先駆として高く評価されている。とくに研究としては中世思想の代表ともいうべきトマス主義との鋭い対立を想定する傾向にある。しかし一方で歴史的背景、思想的淵源を考慮して彼の思想を正確に読み直そうとする傾向も強まっている。
また法の権威と根拠は人民の制定に求められること、すなわち人民による立法を唱えている。したがって法によって強制力を行使する支配者は人民に対して責任を負っている。彼によれば法はあくまで強制力を伴う持つ[[実定法であり、]]こそが真の[[法 (法学)|法]]とした。これにたいして[[自然法]][[神法]]などは実定法秩序によって強制力を付加されない限り、厳密な意味で法ではない<ref>ただし『平和の擁護者小論』(“''Defensor minor''”)では、実定法が自然法や神法に違反する場合は、後者が優先されると述べている<ref>『中世思想原典集成』18、p.502)。502</ref>。
 
実定法には、次のような性格が明瞭である。
# 法の対象は外的な行為に対してであって、信仰などの内面に関わらない
# 神の法は窮極的な原因であるが、世俗の法には直接的に関わらない
# 国家における正義および利益の実現を目的とする
# 支配者の安全、統治の継続に資する
 
 
=== 公会議主義 ===
信仰に関しては内面の問題であるとマルシリウスは論じ、信仰の組織である教会はキリスト教信徒体の共同体であり、教皇権はキリスト教自体に根拠を持たない便宜上歴史的に設定された人為的な制度にすぎないとし、本来すべての聖職者は平等であるべきで、[[公会議]]により[[教会法]]が立法されるべきであるとし[[公会議主義]]を唱えの有力な根拠となった。
 
==参考文献==
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{{社会哲学と政治哲学}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まるしりうす はとうあ}}
[[Category:イタリアの哲学者]]
[[Category:イタリアの神学者]]
[[Category:イタリアの医師]]
[[Category:中世哲学]]
[[Category:中世ヨーロッパの哲学者]]
[[Category:イタリアのカトリック教会の人物信者]]
[[Category:キリスリック会の神学者]]
[[Category:パドヴァ14世紀の学者]]
[[Category:カトリック教会に破門された人物]]
[[Category:中世イタリアの人物]]
 
[[Category:パドヴァ出身の人物]]
[[ar:مارسيليوس من بادوا]]
[[Category:13世紀イタリアの人物]]
[[ca:Marsili de Pàdua]]
[[Category:14世紀イタリアの人物]]
[[cs:Marsilius z Padovy]]
[[Category:13世紀生]]
[[de:Marsilius von Padua]]
[[Category:1340年代没]]
[[en:Marsilius of Padua]]
[[es:Marsilio de Padua]]
[[fi:Marsilius Padovalainen]]
[[fr:Marsile de Padoue]]
[[it:Marsilio da Padova]]
[[ko:파도바의 마르실리우스]]
[[la:Marsilius Patavinus]]
[[ml:പാദുവായിലെ മാർസിലിയസ്]]
[[nl:Marsilius van Padua]]
[[pl:Marsyliusz z Padwy]]
[[ru:Марсилий Падуанский]]
[[sk:Marsilius z Padovy]]
[[sl:Marsilij iz Padove]]
[[sv:Marsilius av Padua]]
[[uk:Марсілій Падуанський]]
[[yo:Marsilius of Padua]]