「パドヴァのマルシリウス」の版間の差分

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マイナルディーニ家の出身で、一族は[[裁判官]]や[[公証人]]を輩出している[[家系]]。ボンマッティオ(Bonmatteo)を父として[[パドヴァ]]に生まれた。[[パドヴァ大学]]で[[医学]]を修め、[[1311年]]ごろにはイタリアで医者として活動をした。[[1312年]]ごろに[[パリ]]に遷って[[パリ大学]]で[[哲学]]や医学を学び、[[自然科学]]での名声に基づいて、1312年[[12月]]から[[1313年]][[3月]]の間[[学長]]となった。[[1316年]]にはパドヴァに戻っており、医業に復帰した。その後放浪し、パリで医業に携わる傍ら、[[1324年]]には『平和の擁護者』(“''Defensor pacis''”)を著した。
 
ところで[[1322年]]から単独の[[ローマ王]]となっていた[[バイエルン大公]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]と[[教皇]][[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]の間で[[1323年]]から論争が始まっていた。前者がイタリアに皇帝代理を派遣して[[神聖ローマ皇帝|皇帝]]戴冠を目指したのに対し、後者が異議を唱え、[[1324年]]にはルートヴィヒ4世の[[破門]]とドイツ全土の聖務停止を宣言した。マルシリウスと彼の古い友人である[[ジャンダンのヨハネス]]<ref>[[:en:John of Jandun|Jean de Jandun]](生年不詳 - [[1328年]])は中世[[ベルギー]]の哲学者、神学者。当時[[パリ大学]]教授でアヴェロエス主義者。かつては『平和の擁護者』の共著者ではないかと考えられていたが、現在は否定されている。</ref>はこの論争において、両者共にヨハネス22世に恩義があった<ref>マルシリウスはヨハネス22世によって1316年にパドヴァの教区の聖堂参事会員に任命されており、さらに[[1318年]]にはパドヴァの教区で最初に空席になった聖職禄を授けられている。ヨハネスもパリ近郊[[サンリス]]司教座の聖堂参事会員であった。</ref>にもかかわらず、[[イブン=ルシュド|アヴェロエス]]主義的な立場からルートヴィヒ4世を支持し、その庇護を求めた。
 
===後半生===
[[Image:Ludovico il Bavaro.jpeg|200px|thumb|[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]]]
[[1326年]]に2人がルートヴィヒ4世の宮廷に到着した際、『平和の擁護者』を献上すると、当初ルートヴィヒ4世はその政治理論の大胆さに驚き、[[異端]]ではないかと考えた。しかしすぐにルートヴィヒ4世は考えを改め、2人を宮廷に招き入れ、好意を寄せるようになった。マルシリウスはルートヴィヒ4世の側についたために、ヨハネス22世により[[1327年]][[4月3日]]に破門された。マルシリウスは帝国の方針を擁護する重要な論者となり、ルートヴィヒ4世のイタリア遠征に随行した。イタリアでは[[ミラノ]]で[[ローマ]][[教皇]]を書面で攻撃し、ローマでは[[ローマ皇帝]]は教皇ではなく、人民によって選ばれるとする『平和の擁護者』での主張に基づいて、人民の集会を組織し、彼らによりルートヴィヒ4世は皇帝として宣言された([[1328年]][[1月17日]])。[[4月18日]]にはルートヴィヒ4世によりヨハネス22世の追放が宣言され、[[フランシスコ会|フランチェスコ会]]士[[コルヴァーロ|コルバーラ]]のピエトロを[[ニコラウス5世 (対立教皇)|ニコラウス5世]]として使徒の座へ擁立した<ref>これによりフランチェスコ会は皇帝支持に回った。</ref><ref>このルートヴィヒ4世とヨハネス22世の対立については、[[政教分離の歴史#皇帝との対立、そして「金印勅書]]を参照。</ref>。
この革命劇においてマルシリウスが重要な役割を果たしたことは明らかである。マルシリウスはルートヴィヒ4世によってローマの教皇代理に任命されると、ヨハネス22世を支持する聖職者たちを迫害した。そしてジャンダンのヨハネスが[[フェラーラ]]の[[司教区]]を得たと同時期に、マルシリウスはおそらく[[ミラノ大司教]]に任命された。
 
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マルシリウスは『平和の擁護者』([[1324年]])などで教皇首位権および世俗社会に対する教会の介入を批判し、皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]と教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]の間の論争において皇帝を擁護する論陣を張り、『帝権委譲論』(“De translatione Imperii Romani”)で皇帝の権力を正当化し、[[絶対主義]]的な国家理論を唱えた。
 
=== 法思想 ===
また法の権威と根拠は人民の制定に求められること、すなわち人民による立法を唱えている。したがって法によって強制力を行使する支配者は人民に対して責任を負っている。彼は、強制力を持つ[[実定法]]こそが真の[[法 (法学)|法]]とした。これにたいして[[自然法]]や[[神法]]などは実定法秩序によって強制力を付加されない限り、厳密な意味で法ではない。ただし『平和の擁護者小論』(“''Defensor minor''”)では、実定法が自然法や神法に違反する場合は、後者が優先されると述べている<ref>『中世思想原典集成』18、p.502</ref>。
 
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{{社会哲学と政治哲学}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まるしりうす はとうあ}}
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