「アレクセイ・イグナショフ」の版間の差分

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|birth_date={{生年月日と年齢|1978|1|18}}
|birth_place={{SSR}}<br />{{BYSSR}}、[[ミンスク]]
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'''アレクセイ・イグナショフ'''('''{{lang-en|Alexey Ignashov'''、}}, [[1978年]][[1月18日]] - )は、[[ベラルーシ]]の[[男性]][[キックボクサー]]。フリー。[[ミンスク]]出身。元[[世界ムエタイ評議会|WMC]]世界[[ヘビー級]]王者。元[[国際競技空手協会|ISKA]]ムエタイ世界ヘビー級王者。リーチ200cm
 
ニックネームは「'''レッド・スコーピオン'''」「'''毒サソリ'''」「'''ベラルーシの赤サソリ'''」。参戦当初は「アーツ2世」「東欧のアーツ」とも言われていた。かつては母国[[ベラルーシ]]の[[チヌックジム]]に所属していた。
 
長身から相手の顔面に繰り出される膝蹴りが得意。この膝は「'''レッド・スコーピオン(赤いサソリ)'''」と表現され、それがそのままイグナショフを表す代名詞となった。2003年以降はパンチを主とするカウンター狙いのファイトスタイルになっている。彼は全くと言っていいほどダウンを喫したことがない。敗れた試合はすべて判定負けか負傷によるドクターストップによるものである
 
2007年頃より活動の拠点を[[ニュージーランド]]に移している<ref>[http://gbring.com/sokuho/news/2010_04/0401_k-1_06.htm 【K-1】バダ・ハリと激突する復活イグナショフ「早く試合が終わってしまうかも」] GBR 2010年4月1日</ref>。
2005年の夏に大学院を卒業し、以後は進路をプロ格闘技一本に絞っている。
 
2007年頃より活動の拠点を[[ニュージーランド]]に移している<ref>[http://gbring.com/sokuho/news/2010_04/0401_k-1_06.htm 【K-1】バダ・ハリと激突する復活イグナショフ「早く試合が終わってしまうかも」] GBR 2010年4月1日</ref>。
 
毎試合の入場曲は、[[Outside]]の「To Forgive But Not Forget」。
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[[2002年]]は[[ビヨン・ブレギー]]に5RKO勝ち、[[ピーター・アーツ]]に判定勝ちするが、GP開幕戦で[[ステファン・レコ]]に判定負けを喫した。
 
[[2003年]]、パリ大会のヨーロッパ・ロシア地域予選で[[パヴェル・マイヤー]]、[[アレクサンダー・ウスティノフ]]、[[シリル・アビディ]]を下し優勝、GPへの切符を手にする。2003年6月、バダ・ハリにKO勝ち。福岡大会では[[ヤン・ノルキヤ|ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ]]をローキックでマットに沈め、[[谷川貞治]]プロデューサーに「今年の優勝候補」、また[[角田信朗]]に「ホーストよりも説得力のあるローキックを出し始めている。」と評価される。続く大阪の開幕戦では[[マイク・ベルナルド]]を2RKOで沈め、関係者やメディアからは、[[ステファン・レコ]]と並び2003年のGP優勝最有力候補と称される。しかし、12月の決勝トーナメントでは[[ピーター・アーツ]]に完封され判定で敗れ、初戦敗退。
 
2003年12月31日、[[K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!]]で[[中邑真輔]]と総合格闘技で対戦。第3Rに膝蹴りで中邑を鼻骨骨折させダウンを奪いレフェリーストップ勝利となった。しかしすぐさま起き上がった中邑からカウントも取らずに即レフェリーストップとなったことに対し、中邑からクレームが付き、後に「無効試合」となった。
 
[[2004年]]5月20日、It's Showtimeで[[セミー・シュルト|セーム・シュルト]]と対戦し、1R左膝蹴りでKO勝ちを収めた。その後、飛行機で日本に直行し5月22日の[[K-1 ROMANEX]]において中邑と[[総合格闘技]]で再戦したが、中邑に前腕チョーク(K-1の公式記録は[[フロントチョーク|ギロチンチョーク]])で一本負け。
 
2004年6月、アーサー・ウィリアムスにローキックでKO勝ち。
 
2004年9月25日、K-1 WORLD GP開幕戦で[[ガオグライ・ゲーンノラシン]]と対戦。延長戦の末、判定負けを喫した。試合後イグナショフは「あと3kg絞るべきだった、相手を過小評価していた。」とコメントしている。
 
[[2005年]]2月13日、[[ビヨン・ブレギー]]戦で、3Rに膝を負傷しKO負けを喫した。この対戦で負った膝の怪我を引き摺ったまま、4月に[[ピーター・グラハム]]と対戦。延長まで縺れるも惜しくも判定負け。続いて、5月には[[内田ノボル]]と対戦。蹴りが使えず判定負けを喫した。そのため、6月に膝の手術を行い、3か月の休養と準備期間を設けた。
 
2005年9月23日、K-1 WORLD GP開幕戦ではワンマッチで前年度王者[[レミー・ボンヤスキー]]と対戦。互いにジャブ、ストレート、ローキック、膝蹴りの繰り出し合いの熱戦となった。試合は延長までもつれるも延長ラウンドの差で惜しくも判定負けとなった。
 
[[2006年]]、[[タイ王国|タイ]]でアパートを借りて、一か月間トレーニングをして再起を図る。5月のK-1 WORLD GP[[オランダ]]大会のEUROPE GP1回戦で[[ピーター・ボンドラチェック]]を右ストレートで下す。しかし、準決勝でリザーバー上がりの[[グーカン・サキ]]に判定負け。この試合、イグナショフは終始サキの攻撃を防御するに止まり、殆ど反撃できなかった。試合後のインタビューで「カウンターを狙いすぎてしまった」と語った。
 
2006年8月12日、K-1 WORLD GPラスベガス大会の世界最終予選1回戦で[[イマニー・リー]]を相手に僅差の判定勝ちを収めた。しかし足の怪我により準決勝を辞退。
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2008年10月5日、TOUGH IS NOT ENOUGHにて[[ビヨン・ブレギー]]と対戦し、ダウンを奪い判定勝ち。
 
[[2010年]]4月3日、[[K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMA]]のメインイベントで[[バダ・ハリ]]と対戦し、判定負け。2005年9月23日以来、4年7か月ぶりの日本での試合となった。なお、[[アルコール使用障害]]によりK-1から遠ざかっていたことが明かされた<ref>[http://www.k-1.co.jp/jp/news/2010/0329_wgp_02.html 無くして気づく事がある。赤蠍がKの想いを語る] K-1公式サイト 2010年3月29日{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref><ref>[http://www.k-1.co.jp/jp/news/2010/0401_wgp_04.html 赤サソリ「バダもシュルトも倒せる」と毒を吐く] K-1公式サイト 2010年4月1日</ref>。
 
2010年5月21日、K-1ヨーロッパ予選トーナメントに出場。1回戦で[[ミンダウガス・サカラウスカス]]にKO勝ち、準決勝で[[フレディ・ケマイヨ]]に3-0の判定勝ちを収めるも、怪我のため決勝を棄権した。代わりに決勝を戦ったケマイヨがWORLD GP開幕戦出場を決めた<ref>[http://www.k-1.co.jp/jp/event/2010/0521_wgp/index.html K-1 WORLD GP 2010 IN BUCHAREST -EAST EUROPE GP-] K-1公式サイト</ref>。
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* 敗北を喫した[[ガオグライ・ゲーンノラシン]]戦後のインタビューでは、記者に敗因を聞かれ、「太ってしまったんだもの」と答えた過去もあったが、「厳しい時期の自分を支えてくれるファンの皆さんには心から感謝したい」、「苦しいときでも応援してくれるのが本当のファンだと思う」、「これ以上ファンをがっかりさせられない」と、ファンに対する感謝の思いを語るという、新たな一面を見せ始めている。
* 「日本で好きな場所、物は?」という質問に対して「日本の女の子」と答えたことがあった。
* アーネスト・ホーストはイグナショフのK-1デビュー当時、自分をKOしたフランシスコ・フィリォを引き合いに出し「フィリォでも勝てないかも」と発言するほどイグナショフを高く評価していた。
 
== 戦績 ==
 
=== キックボクシング ===
{{Kickboxing recordbox
|total=97
|wins=7986
|KOwins=41
|decwins=3843
|otherwins=0
|losses=1822
|KOloss=2
|decloss=15
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{{Fight-start}}
{{Fight-header}}
{{Fight-cont|×| バレンティン・ボーディアヌ| 3R終了 判定| Zhara Fight Show| 2018年5月30日}}
{{Fight-cont|○| [[ゼバット・ポーツラック]]| 3R終了 判定| Bellator Kickboxing 9| 2018年4月6日}}
{{Fight-cont|×| [[バダハリ]]| 3R終了 判定| Legend 2: Invasion| 2013年11月9日}}
{{Fight-cont|○| [[ロマン・クレイブル]]| 3R終了 判定| Ring of Honor| 2011年2月5日}}
{{Fight-cont|×| [[トーマス・ハロン]]| 3R終了 判定1-4| IT'S SHOWTIME ATHENS| 2010年12月11日}}
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{{Fight-cont|○| [[ロン・スパークス]]| 2R 2:50 KO(右ハイキック)| K-1 ColliZion 2009 Final Elimination| 2009年10月24日}}
{{Fight-cont|×| [[セミー・シュルト|セーム・シュルト]]| 3R終了 判定0-3| Ultimate Glory 11: A Decade of Fights| 2009年10月17日}}
{{Fight-cont|×| [[フレディ・ケマイヨ]]| 4R 2:00終了時 TKO(ドクターストップ:脛負傷)| Gala International Multi-boxes à Coubertin| 2009年6月26日}}
{{Fight-cont|×| [[ロマン・クレイブル|ローマン・クレイブル]]| 延長R終了 判定| K-1 ColliZion 2009 Mlada Boleslav| 2009年5月16日}}
{{Fight-cont|○| [[ゼバット・ポーツラック|ジャバット・ポトラック]]| 延長R終了 判定| K-1 Rules Tournament 2009 in Budapest| 2009年2月28日}}
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* [[国際競技空手協会|ISKA]]ムエタイ世界ヘビー級王座
* K-1 WORLD GP 2000 ヨーロッパ&ロシア地区D 予選トーナメント 優勝
* K-1 WORLD GP 2001 予選トーナメントin NAGOYA 優勝
 
* K-1 WORLD GP 2003 in PARIS 優勝
・K-1WORLDGP2001ベスト4
 
* K-1 WORLD GP 2003予選トーナメント in PARIS 優勝
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.ignashov.com アレクセイ・イグナショフ公式サイト(英語)]{{リンク切れ|date=2023年4月}}<!-- Wayback Machineでは有効なsnapshoはない-->
* [{{Wayback|url=http://www.k-1.infoco.jp/htmljp/profile_jpfighter/view_a_ignashovplayer.htmlphp?index=ignashov |title=K-1 選手データ] |date=20100629114856}}
* [http://www.boutreview.com/fightsspiral/ALEXEY_IGNASHOV.html バウトレビュー 選手データ]
* {{SHERDOG}}