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'''劉 旦'''(りゅう たん ? - [[紀元前80年]])は、[[前漢]]の皇族。[[燕国|燕]]王(在位30年)。[[諡号]]は'''刺'''(らつ)。長兄は[[劉拠]]、次兄は斉懐(在位30年)[[劉閎]]。同母弟は広陵厲王[[劉胥]]。異母弟は昌邑哀王[[劉髆]]・[[昭帝 (漢)|昭帝]]。子に広陽頃王[[劉建 (広陽王)|劉建]]らがいる
 
== 略要・人物生涯 ==
[[武帝 (漢)|武帝]]の三男。生母の李姫([[李夫人 (漢武帝)|李夫人]]とは別人)は2人の男子を産んだが、武帝の寵愛は薄く憂死した。
=== 概要 ===
[[武帝 (漢)|武帝]]の第三子。生母は李氏([[李広利]]の妹とは別人)。長兄は[[戻太子|劉拠]]・次兄は[[斉]]懐王の[[劉コウ|劉閎]]。[[広陵]]厲王の[[劉胥]]は同母弟で、[[昭帝 (漢)|昭帝]]の異母兄に当たる。子に広陽頃王の[[劉建]]がいる。
 
博学で、天文や狩猟などを好み、遊説の士を好んで招いていた。[[紀元前117年]]([[元狩]]6年)、燕王に封じられる。皇太子劉拠が叛乱を起こして死に、当時彼が武帝の子で最年長だったため、「自分が父君の最年長の子だから、漢の太子になるのは当然である」と考え、父の武帝に自分が長安で警護の任に就くことを求めた。だが武帝は激怒してそれを伝えた使者を獄に下し、燕王が亡命者を匿った罪を理由に燕国の領土のうちの良郷・安次・文安の3県を没収した。武帝は燕王を良く思わず、末子(昭帝)を後継者とした。
=== わがままな皇子 ===
[[紀元前110年]]、皇子の身分で燕王に封じられる。父の武帝の在命中からなにかと弟の劉胥と共に疎まれたという。父が亡くなる半年前に末弟の劉弗陵(昭帝)の皇太子決定に不満を持ち、[[長安]]に急使を出して「自分が父君の最年長の子だから、漢の太子になるのは当然である!」と告訴した。だが父の武帝は激怒して「旦のたわけ者めが!その使者を処刑し、燕の領土の一部を召し取れ!」と厳命し、燕の使者を斬り捨てて、燕の領土の内の良郷・安次・文安の三県を没収した。こうして、武帝は自分の三男の劉旦が漢の後継者ではないことを天下に示したのであった。当然、燕王は僻みっぽく「おのれ、今に見ておれよ。老いた親父よ…」と愚痴を洩らしたという。
 
武帝が崩御して昭帝が即位した時、昭帝は[[諸侯王]]に文書を送った。すると燕王は「この文書の封印は小さい。長安で何か事件があったのではないか」と言い、寵臣を使者として長安の様子を探らせると、皇帝が離宮で崩御され、将軍たちが幼い太子を即位させたのだ、との証言を得た。燕王はますます怪しみ、「孝武皇帝は大きな功績と徳がおありでしたので、全国に[[廟]]を立ててはいかがでしょうか」と上奏し、様子を伺った。すると権力を握る[[大司馬]][[大将軍]]の[[霍光]]は燕王に銭3,000万を贈り、13,000戸を増封して懐柔しようとした。燕王は「私が皇帝になるべきなのだから、そんなものはいらない」と怒り、中山靖王[[劉勝]]の孫の劉長・斉孝王[[劉将閭]]の孫の劉沢らとクーデターを目論んで、政務を執ることを許されたと偽り、軍備を整えはじめた。
=== 皇帝の地位に執着 ===
そして父が崩御すると「なに、親父が亡くなったと?よし急いで都に上って、このわしが後継者だと周りに示すのだ!」と叫んで、父の死に全く悲しむ様子を見せなかったという。だが大臣達の諫言でいったんは思い滞ったという。幼くして帝位を継いだ昭帝は英邁だったが、まだ幼いために兄の存在に不安を持ち、[[大司馬]][[大将軍]]・[[霍光]]と相談したという。また燕王は「わしが皇位に即けれないなら、[[周]]の[[周公旦]]になぞらえて末弟を補佐するのも悪くないし、また周公と同じ名の“'''旦'''”を持つからな。」と異様な意欲を見せた。だが燕王の企みを察した霍光はそれを妨害した。
 
燕王は[[紀元前88年]]([[後元]]元年)、「今の皇帝は武帝の子ではない」と言い、狩猟を名目に軍事演習を行い、謀反を起こそうとした。しかし、[[青州 (山東省)|青州]][[刺史]]の[[雋不疑]]が事前に察知して、劉長らを逮捕して峻烈に取り調べた。叛乱の首謀者として嫌疑は燕王にもかかったが、皇帝の兄ということで皇帝の命令により咎めはなく、劉長・劉沢らだけを処刑した。
=== 第一次クーデター ===
霍光の行為に激怒した燕王は[[紀元前88年]]、伯父の[[中山]]靖王の[[劉勝]]の孫である臨邑亭侯・[[劉長 (中山)|劉長]](劉勝の庶長子・[[劉沢 (中山)|劉沢]]の嗣子)らと結託して、狩猟の名目の理由で兵を集めて謀反を起こそうとした。だが、[[青州]][[刺史]]の[[雋不疑]]が事前に察知して、劉長らを逮捕して峻烈に取り調べて、これを[[処刑]]したという。但し、黒幕の燕王は皇帝の兄ということで、特別な処置でお咎めは無かったという。この功績で、雋不疑は京兆尹(都知事)に累進したが、彼は不幸にも間もなく重病となって辞任し郷里に帰ったという。
 
歳月は流れて[[紀元前80年]]([[元鳳]]元年)、左将軍の[[上官桀]]は霍光と仲違いして燕王に近づいて来た。また、燕王の同母姉の鄂邑公主(武帝の娘)は蓋侯王充(武帝の叔父兄の[[王信]]の末子)の妻で末弟の昭帝を育していた。だがその鄂邑公主が[[河間郡|河間]]の人である丁外人と浮気をして、彼女はその情夫の丁外人を列侯にすべく霍光に申請し頼んでいた。だが霍光は「あなた様は陛下の姉君で承諾かも養育係でもあります。それがどうでしょう、自らを弁えずその“情夫”を列侯に封じるとはんたることです?恥をお知りなさいませ!」と申請を却下さればかりではなく、彼女を厳重に注意しのである。大いに気分を害した鄂邑公主は霍光に敵愾心を見せて、上官桀・[[上官安]]([[驃騎将軍]])父子に近づいた。また霍光に不満を持った[[御史大夫]]の[[桑弘羊]]を誘い、燕王の下に集結して、霍光に対するクーデターの準備をした。燕王も「わは「姦臣(霍光を指す)がクーデターを起こそうとているので、私帝位に即長安を警護いた暁にはしましょう」と上奏し君達を要職上官桀らは霍光が休暇で不在の隙就けて、共皇帝漢王朝を繁栄見せ、裁可させようぞ!」大いに喜んだというした。だが霍光昭帝その予想があること偽り熟知見抜き、裁可ようとしなかっ。そために企みは失敗て、蓋た。鄂邑公主に冷遇された侍女の父の[[燕倉]]が叛乱計画買収通報、彼の証言から、直ちに燕王一味を逮捕した。こうして、姉の蓋公主は賜死、上官父子・桑弘羊・丁外人らは処刑された。燕王は失敗を知ると印綬で首を吊り自殺した。また、燕王の正室以下の女性たちも、20名あまりが殉死した。燕国の領土は皇帝の直轄地となり、燕王の嫡子は特に許されて庶人とされた。
=== 第二次クーデターと燕王の最期 ===
歳月は流れて[[紀元前80年]]、左将軍の[[上官桀]]は霍光と仲違いして燕王に近づいて来た。また、燕王の同母姉の蓋公主(武帝の娘)は蓋侯の王充(武帝の叔父の王信の末子)の妻で末弟の昭帝を補育していた。だがその蓋公主が[[河間]]の人である丁外人と浮気をして、彼女はその情夫の丁外人を列侯にすべく霍光に申請した。だが霍光は「あなた様は陛下の姉君でしかも養育係でもあります。それがどうでしょう、自らを弁えずその“情夫”を列侯に封じるとはなんたることですか?恥をお知りなさいませ!」と申請を却下されたばかりではなく、彼女を厳重に注意したのである。大いに気分を害した蓋公主は霍光に敵愾心を見せて、上官桀・[[上官安]](驃騎将軍)父子に近づいた。また霍光に不満を持った[[御史大夫]]の[[桑弘羊]]を誘い、燕王の下に集結して、霍光に対するクーデターの準備をした。燕王も「わしが帝位に即いた暁には、君達を要職に就けて、共に漢王朝を繁栄させようぞ!」と大いに喜んだという。だが霍光はその予想があることを熟知した。そして、蓋公主に冷遇された侍女の父の燕倉を買収して、彼の証言から、直ちに燕王一味を逮捕した。こうして、
燕王と姉の蓋公主には死を賜り、上官父子・桑弘羊・丁外人らは処刑された。また、燕王の正室以下の女性達も、悲惨な殉死を遂げたという。燕の領土は漢の直轄地となり、燕王の諸子達は庶人に落とされたという。
 
しかし数年後、霍光は燕王の劉旦に剌王の[[諡号]]を送り、その嗣子であった劉建を燕王から改称して新たに広陽王に封じた。この広陽王家は、頃王劉建の子の穆王[[劉舜]]・思王[[劉璜 (広陽王)|劉璜]]父子の代を経て、劉璜の子の広陽王[[劉嘉 (新)|劉嘉]]は、[[新]]の[[王莽]]の簒奪の際に王莽即位を暗示する証拠を献上した功績によって、廃位されずに扶美侯と王氏の姓を下賜された。[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の[[曹叡]]の臨終に立ち会い、補佐の人選を行った[[劉放]]は、劉旦の末裔にあたる。
この事変は霍光らの重臣が以前から燕王らの野心を砕すために、先制を取って彼等を葬ったのが真相のようである。それが正史の勝者側の記述のカモフラージュのために「天子のために、燕王一味を一網打尽した」とあるようである。
 
=== 劉旦の孫のその後 ===
*広陽頃王 [[劉建 (広陽王)|劉建]]
*安定戻侯 [[劉賢 (安定侯)|劉賢]]
*新昌節侯 [[劉慶 (前漢)|劉慶]]
 
{{DEFAULTSORT:りゆう たん}}
だが数年後、霍光は燕王の劉旦に「'''刺王'''」の[[諡号]]を送り、その太子であった劉建を燕王から改称して新たに「広陽王」に封じたという(劉建は「'''頃王'''」の諡号を送られた)。この広陽王家は、頃王の子の穆王の劉舜・思王の劉璜父子の代を経て、その子の順王の劉嘉の代に[[新]]の[[王莽]]によって、漢の宗室系の爵位が全て廃されるまで在続したのである。やがて、劉嘉は王莽から漢の旧皇族として、'''扶美侯'''に降格されたという。なお、分家の西郷侯は広陽頃王の庶子である西郷頃侯・[[劉谷]]を始祖とし、その子[[劉景]]・[[劉宏]]父子まで続いている。なお、[[魏 (三国)|魏]]の[[侍中]]の[[劉放]]はその末裔である。
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[[Category:紀元前80年没|りゆうたん2世紀生]]
== 宗室 ==
[[Category:劉氏|たん紀元前80年没]]
=== 子 ===
*広陽頃王・[[劉建]]
*安定戻侯・[[劉賢 (燕)|劉賢]]
*新昌節侯・[[劉慶]]
 
 
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