「橘家圓喬 (4代目)」の版間の差分

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{{落語家
| 芸名 = 4代目 {{ruby|橘家|たちばなや}} {{ruby|圓喬|えんきょう}}
| 画像ファイル = Mon Okochi Takasaki.jpg
| ふりがな = たちばなや えんきょう
| 画像ファ =
| 画像コメント = 三遊亭圓朝一門定紋「高崎扇」
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 柴田 清五郎
| 別名 =
| 出身地 = {{JPN}}・東京[[武蔵国]][[江戸]]
| 死没地 =
| 生年 = 1865
| 生月 = 1211
| 生日 = 269
| 没年 = 1912
| 没月 = 11
| 没日 = 22
| 師匠 = 初代[[三遊亭圓朝|初代三遊亭圓朝]]
| 弟子 =
| 名跡 = 1. [[三遊亭朝太]]<br />(1872年 - 1878年)<br />2. 2代目[[三遊亭圓好]]<br />(1878年 - 1885年)<br />3. 4代目[[三遊亭圓喬]]<br />(1885年 - 1887年)<br />4. 4代目[[橘家圓喬]]<br />(1887年 - 1912年)
| 出囃子 =
| 活動期間 = 1872年 - 1912年
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| 備考 =
}}
4代目 '''橘家 圓喬'''(たちばなや えんきょう、[[慶応1865年]]元年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]([[1865年慶応]]元年[[1292621日 (旧暦)|9月21日]]) - [[大正1912年]]元年([[1912年大正]]元年)[[11月22日]])は、[[東京]]出身の[[落語家]]。本名::'''柴田 清五郎'''(元は桑原で養子になり柴田になったと思われる。)
 
== 経歴 ==
1865年11月9日本所柳原の生まれ、父は政府の御家人。近所に義理の姉婿であった[[橘家圓太郎#4代目|4代目橘家圓太郎]](「ラッパの圓太郎」)が住んでおり、叔父が[[三遊亭圓朝]]の贔屓客だった関係で幼いころから[[寄席]]の楽屋に出入りするようになり、[[1872年]]に7歳の若さで三遊亭圓朝門下に入門し[[古今亭朝太|三遊亭朝太]]を名乗る。[[1878年]]に二つ目昇進し、[[三遊亭圓好|2代目三遊亭圓好]]に改名。このころから[[三遊亭圓橘#4代目|4代目三遊亭圓橘]]の助言で素噺に転向も周囲の評判が悪く廃業し[[1882年]]には東京を離れ焼き物師を志すために京都を目指したが途中に[[立花家橘之助]]の一座に出会い帯同、3年間[[上方落語|上方]]で修行、[[1885年]]に兵役検査で東京に戻り4代目三遊亭?圓喬となり[[1887年]]ころには改めて4代目橘家圓喬を襲名し、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[瀬戸物町]]の伊勢本で真打昇進披露。[[1903年]]には「第一次[[落語研究会 (落語会)|落語研究会]]」発足に参加。[[1912年]][[11月16日]][[新宿末廣亭]]での最後の高座。その6日後、宿痾の肺病のため死去。日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「[[玄冶店]]の師匠」などで呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、狷介な性格が災いして立ち消えになった。
[[1865年]][[11月9日]](慶応元年9月21日)、本所柳原(現在の[[東京都]][[墨田区]][[江東橋]]近辺)の生まれ、父は江戸幕府の御家人。元の名字は桑原で、養子になり柴田になったと思われる。近所に義理の姉婿であった[[橘家圓太郎#4代目|四代目橘家圓太郎]]が住んでおり、叔父が[[三遊亭圓朝]]の贔屓客だった関係で幼いころから[[寄席]]の楽屋に出入りするようになった。
 
[[1872年]]に7歳で[[三遊亭圓朝]]門下に入門し[[古今亭朝太|三遊亭朝太]]を名乗る。[[1878年]]に二ツ目昇進し、[[三遊亭圓好|二代目三遊亭圓好]]に改名。このころから[[三遊亭圓橘#3代目|四代目三遊亭圓橘]]の助言で[[素噺]]に転向するが、周囲の評判が悪く廃業。[[1882年]]には東京を離れ、焼き物師を志し京都を目指した。
気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、[[橘家圓蔵 (4代目)|4代目橘家圓蔵]]が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはア。ありゃ[[落語|噺(はなし)]]じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。
 
途中に[[立花家橘之助 (初代)|初代立花家橘之助]]の一座に出会い帯同し、3年間[[上方落語|上方]]で修行した。[[1885年]]に兵役検査で東京に戻り「四代目三遊亭圓喬」となる。[[1887年]]ころ、「'''四代目橘家圓喬'''」を襲名し、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[瀬戸物町]]の伊勢本で真打昇進披露。[[1903年]]には「[[落語研究会 (落語会)|第一次落語研究会]]」発足に参加した。
だが、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたり、[[三遊亭圓生 (5代目)|5代目三遊亭圓生]]が前座のころ、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました。」と一礼したという。また[[三遊亭右女助|初代三遊亭右女助]](後の[[古今亭今輔 (4代目)|4代目古今亭今輔]])が大阪からきたばかりで、馴染みがなく困っていたところを、圓喬は右女助の高座の前で引っ込む際に「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。」との口上を毎晩言って助けるなど人情味の厚い一面もあった。
 
[[1912年]][[11月16日]]、[[新宿末廣亭]]での高座が最後の高座となる。その6日後、宿痾の肺病のため死去。墓所は豊島区[[法明寺 (豊島区)|法明寺]]。[[辞世の句]]は『筆持って月と話すや冬の宵』。
 
== 芸歴 ==
「[[鰍沢]]」「[[三軒長屋]]」「[[牡丹灯籠]]」「柳の馬場」「[[真景累ヶ淵]]」「[[たらちね]]」「安中草三郎」などを得意とする。後世に大きな影響を与えた名人であり、「魚売人」「二人癖」など20種類ほどの[[SPレコード]]を遺している。
* [[1872年]] - [[三遊亭圓朝]]門下に入門、「[[古今亭朝太|朝太]]」を名乗る。
* [[1878年]] - 二ツ目昇進、「[[三遊亭圓好|圓好]]」に改名。
* [[1882年]] - 廃業し大阪へ向かう。[[立花家橘之助 (初代)|初代立花家橘之助]]一座にて3年間[[上方落語|上方]]で修行した。
* [[1885年]] - 東京に戻り「四代目三遊亭圓喬」となる。
* [[1887年]]祭り「'''四代目橘家圓喬'''」を襲名。
* [[1903年]] - 「[[落語研究会 (落語会)|第一次落語研究会]]」発足に参加。
 
== 人物 ==
弟子に[[蜃気楼龍玉#2代目|2代目蜃気楼龍玉]]、[[橘家小圓喬]](立岩栄吉、[[三遊亭圓生 (4代目)|4代目三遊亭圓生]]の実子)、[[三遊亭圓好|4代目三遊亭圓好]](中田音吉)、[[三遊亭金朝|3代目三遊亭金朝]]、[[橘家林喬]](林林蔵)、[[柳家喬之助|橘家喬之助]](畑中ます、「チンクシャ」の喬之助)、橘家岩喬(瀬川栄助、後の[[柳亭左龍 (3代目)|3代目柳亭左龍]])、橘家東喬(小林捨吉、後の[[金原亭馬生 (9代目)|9代目金原亭馬生]])、[[橘家喬雀]](小林兼次郎、後の[[三遊亭遊朝]])、橘家喬雀(郷嘉七)、橘家喬生(中田徳太郎、後の[[立川志らく|朝寝坊志らく]]、[[三遊亭圓之助#初代|初代三遊亭圓之助]]の実子)、橘家喬太(山内正次郎、後の[[三遊亭圓丈]])、橘家三木助([[上方]]の[[桂仁左衛門]]門下から東京に出て[[桂三木助 (2代目)|2代目桂三木助]])、橘家右圓喬(後の[[柳家三語楼|初代柳家三語楼]])、橘家喬松(後の[[土橋亭里う馬 (9代目)|9代目土橋亭里う馬]])などがいた。
日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「[[玄冶店]]の師匠」などで呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、[[狷介]]な性格が災いして立ち消えになった。
 
気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、[[橘家圓蔵 (4代目)|4代目橘家圓蔵]]が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川(=[[北品川]]に住んでいた圓蔵のこと)のはア。ありゃ[[落語|噺(はなし)]]じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。
== 6代目圓生が分析した圓朝との比較 ==
 
話術の巧さは、師匠圓朝を凌いだと言われている。[[剣豪]][[榊原鍵吉]](撃剣興行で演芸界にも馴染みがあった)は「'''圓朝は研いだ[[正宗]]、'''(圓喬の兄弟子の)'''[[三遊亭圓馬#2代目|二代目圓馬]]は研がない正宗、圓喬は[[村正]]'''」と評した。[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]は「芸の品格のあるなしではないか。」圓喬の技術は完璧すぎて「あまりに欠点のない、兎の毛でついたほどのすきもないというのはかえって妙味が少ない。」と、その評を分析している。[[日本画]]家[[鏑木清方]]は「とにかく圓朝はうまかった。圓喬もうまかったが巧さが違う。」と証言している。これについても圓生は「圓朝は自然の品位であり、地であったが、圓喬はそれを装っていた。」と分析している。
だが、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたり、[[三遊亭圓生 (5代目)|5代目三遊亭圓生]]が前座のころ、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました。」と一礼したという。また[[三遊亭右女助|初代三遊亭右女助]](後の[[古今亭今輔 (4代目)|4目古今三遊今輔右女助]]が大阪からきたばかりで、馴染みがなく困っていたところを、圓喬は右女助の高座の前で引っ込む際に「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。」との口上を毎晩言って助けるなど人情味の厚い一面もあった。
 
== 芸風 ==
 
話術の巧さは、師匠圓朝を凌いだと言われている。
 
* [[撃剣興行]]で演芸界にも馴染みがあった[[剣豪]][[榊原鍵吉]]は「'''圓朝は研いだ[[正宗]]、'''(圓喬の兄弟子の)'''[[三遊亭圓馬#2代目|二代目圓馬]]は研がない正宗、圓喬は[[村正]]'''」と評した。
** [[三遊亭圓生 (6代目)|六代目三遊亭圓生]]は「芸の品格のあるなしではないか。」圓喬の技術は完璧すぎて「あまりに欠点のない、兎の毛でついたほどのすきもないというのはかえって妙味が少ない。」と、その評を分析している。
* [[日本画]]家[[鏑木清方]]は「とにかく圓朝はうまかった。圓喬もうまかったが巧さが違う。」と証言している。
** 圓生は「圓朝は自然の品位であり、地であったが、圓喬はそれを装っていた。」と分析している。
=== 演目 ===
* 「[[鰍沢]]」
* 「[[三軒長屋]]」
* 「[[牡丹灯籠]]」
* 「柳の馬場」
* 「[[真景累ヶ淵]]」
* 「[[たらちね (落語)]]」
* 「安中草三郎」
 
「[[鰍沢]]」「[[三軒長屋]]」「[[牡丹灯籠]]」「柳の馬場」「[[真景累ヶ淵]]」「[[たらちね]]」「安中草三郎」などを得意とする。後世に大きな影響を与えた名人であり、「魚売人」「二人癖」など20種類ほどの[[SPレコード]]を遺している。
 
== 弟子 ==
* [[蜃気楼龍玉#2代目|二代目蜃気楼龍玉]] - [[三遊亭小圓朝#2代目|二代目三遊亭小圓朝]]門下から移籍
* [[橘家小圓喬]]
* [[三遊亭圓好|四代目三遊亭圓好]]
* [[橘家林喬]] - [[談洲楼燕枝 (初代)|初代談洲楼燕枝]]門下から移籍
* [[橘家喬雀]](郷嘉七)
* [[三遊亭圓丈]]
* [[桂三木助 (2代目)|橘家三木助]] - [[桂仁左衛門]]門下から移籍
 
=== 色物 ===
* [[橘家喬之助]](清元)
 
=== 移籍 ===
* [[三遊亭金朝#3代目|橘家圓慶]] - [[三遊亭圓遊#初代|初代三遊亭圓遊]]門下へ移籍
* [[柳亭左龍 (3代目)|橘家岩喬]] - [[三遊亭小圓朝#2代目|二代目三遊亭小圓朝]]門下へ移籍
* [[金原亭馬生 (9代目)|橘家東喬]] - [[金原亭馬生 (5代目)|五代目金原亭馬生]]門下へ移籍
* [[三遊亭遊朝#お茶兼の遊朝|橘家花圓喬]] - [[三遊亭小圓朝#2代目|二代目三遊亭小圓朝]]門下へ移籍
* [[朝寝坊志らく|六代目橘家小圓太]] - [[三遊亭圓馬#3代目|三代目三遊亭圓馬]]門下へ移籍
* [[柳家三語楼#初代|橘家右圓喬]] - [[談洲楼燕枝 (2代目)|二代目談洲楼燕枝]]門下へ移籍
 
=== 廃業 ===
* [[土橋亭里う馬 (9代目)|橘家喬松]] - [[橘家圓蔵 (4代目)|四代目橘家圓蔵]]門下で復帰
 
== エピソード ==
とある真夏の暑いさなか、団扇や扇子が波を打つ寄席の中で、圓喬が真冬の噺「[[鰍沢]]」をかけ、寒さの描写を演じているうちに、団扇や扇子の動きがピタリと止んだという。話芸の極致として語り継がれている逸話である。
 
[[古今亭志ん生 (5代目)|五代目古今亭志ん生]]は圓喬の弟子であると生涯自称していた。
上方落語の[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]はこの逸話を自らの噺のマクラで紹介し、その後で「弟子の[[桂ざこば (2代目)|2代目桂ざこば]]が真夏に『[[不動坊]]』という真冬の噺をかけていたら、お客さんが上着を着たり、まくり上げていた袖を下ろしたりしたので『こいつも名人になったな』と感心していたが、あとで聞いたら会場のクーラーが効き過ぎていた」というオチをつけて定番のギャグにしていた時期があった。
 
晩年、高座に上がって、湯飲みは湯気を吸って喉を潤すだけで、茶は飲まなかった。
肺病なのでその湯飲みは他人には使わせなかったが、「名人にあやかりたい」とそれを
下げた志ん生と含む前座が中身を飲んでいた<ref>[[小島貞二]]『志ん生の忘れもの』(1999年、うなぎ書房)126-127頁</ref>。
 
== 橘家圓喬が登場する作品 ==
* [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]([[2019年]]、[[NHK大河ドラマ]]) - 演:[[松尾スズキ]]
 
==出典==
* 三遊亭圓生,1999,『新版 寄席育ち』[[青蛙房]],ISBN 4790501051
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
*[{{NDLDC|891230}} 橘家円喬口演『菊模様延命袋』(金松堂、1892年)] - 国立国会図書館デジタルコレクション
*[{{NDLDC|891411}} 橘屋円喬口演『流の白滝 : 毒殺事件』(日吉堂、1893年)] - 国立国会図書館デジタルコレクション
*[{{NDLDC|891400}} 橘屋円喬口演『月に叫谷間の鶯』(朗月堂、1896年)] - 国立国会図書館デジタルコレクション
*[{{NDLDC|891136}} 橘家円喬口演『円喬落語会』(三芳屋書店・松陽堂書店、1908年)] - 国立国会図書館デジタルコレクション
*[{{NDLDC|891137}} 橘家円喬口演『円喬落語集』(三芳屋書店・松陽堂書店、1910年)] - 国立国会図書館デジタルコレクション
 
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[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:1865年生]]