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{{Infobox Military Conflict
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|date=1929年
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'''蔣桂戦争'''(しょうけいせんそう)は、[[1929年]]3月から6月までの間に、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]][[国民政府]]内部での[[新広西派]](新桂系)軍閥と[[蔣介石]]の勢力との間で行われた[[内戦]]である。
== 背景 ==
[[1927年]]末の[[寧漢分裂]]中に、新広西派は国民政府内部の主要権力を奪取し、同時に[[汪兆銘]]と蔣介石の排斥に成功した。さらに、[[寧漢戦争]]で[[武漢]]方面の蔣介石配下[[唐生智]]を破り、唐生智の部隊を編入し、[[湖南省 (中華民国)|湖南]][[湖北省 (中華民国)|湖北]]を掌握し、勢力を拡大した。しかし蔣介石はすぐに[[広州張黄事変]]を利用し復帰することに成功し、新広西派の発展は挫折することになった。
[[1928年]]、国民政府は[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始し、蔣介石
国民政府の全国統一の後であっても、四大[[軍閥]]それぞれ数十万の兵を擁し、数省にまたがる地盤に軍を駐留させていた。国民政府は旧軍閥の兵力削減を意図し、蔣介石の主導のもとに、北伐完了後直ちに「[[善後編遣会議]]」を召集した。
この時の新広西派の勢力範囲は[[広西省|広西]]
しかし、蔣介石も第1集団軍所属の部隊20数万を有し、[[江南]]の富裕地帯を支配し、併せて自ら国政と軍の首領に就いていて政治的優勢は明らかだった。
閻錫山率いる第3集団軍も[[山西省 (中華民国)|山西]]
[[1929年]]初めの編遣会議で、四大軍閥は政治的利益を獲得するために、自派の縮小を少なくすることを望んだ。「善後編遣会議」の決議は各軍をできるだけ速やかに師(師団)に縮編し、四派が約10万人前後の兵力を等しく保持するというものであった<ref>国民政府軍の機構再編として、革命軍総司令部を解消し、全国に6個の「編遣区」をおく構想であった。(内田知行『世界歴史大系中国史 5』山川出版社、2002年、159頁)</ref>。各派の善後編遣会議での政治闘争はまた対立の激化を引き起こした。しかし、各派は会議後次々と会議の議決に基づき部隊の整理を開始した。
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蔣桂戦争の直接原因は「湘案(湖南省の事案)」であった。
1928年初め新広西派は国民政府の後に湖南省を支配するため、湖南省政府議長の[[程潜]]を軟禁し、[[何鍵]]
2月21日、新広西派の軍幹部の[[夏威]]、胡宗鐸、葉琪らは首領の李宗仁の同意を得ず、また派内次席の[[白崇禧]]とも協議もないまま、直ちに魯滌平のすべての職を解任することを武漢政治分会名義で中央に発信し、発表した。同日、夏威、葉琪の両名は軍を率いて[[長沙]]に入り、魯滌平の部隊を武装解除した。魯滌平は長沙を離れるよう迫られた。▼
▲2月21日、新広西派の軍幹部の[[夏威]]
李宗仁は国民政府中央の職務に就いていたため、家族とともに南京に住んでいた。李宗仁はこの件を聞き、自身の安全を懸念して、直ちに南京を離れ、[[上海共同租界]]に避難した。蔣介石と李宗仁は直ちに電報での「論戦」を展開し、対立が拡大した。▼
▲李宗仁は国民政府中央の職務に就いていたため、家族とともに南京に住んでいた。李宗仁はこの件を聞き、自身の安全を懸念して、直ちに南京を離れ、[[上海共同租界]]に避難した。蔣介石と李宗仁は直ちに電報での「論戦」を展開し、対立が拡大した。蔣介石は「各地の政治分会は管区内の特定の人員の任免をしてはならない」という中央政治会議の決議に新広西派が違反したとして、軍隊を集め新広西派を攻撃する準備を行った。
3月、広州政治分会主席で、新広西派の政治的盟友の[[李済深]]は蔣介石と新広西派間の対立を調停するため、南京に北上した。しかし、李済深は蔣介石に勾留され、粤系(西南派、粤軍、広東軍ともいう)軍幹部[[陳済棠]]、[[陳銘枢]]は投降したため粤桂政治連盟は分解した。▼
▲3月、広州政治分会主席で、新広西派の政治的盟友の[[李済深]]は蔣介石と新広西派間の対立を調停するため、南京に北上した。しかし、李済深は蔣介石に勾留され、粤系
3月21日、李宗仁、白崇禧、李済深のすべての職務の解任と新広西派の武力討伐準備を、国民政府は声明で発表した。馮玉祥、閻錫山の両派は中立を保ち形勢を見守る姿勢をとったため、新広西派は不利な状況に陥った。▼
▲3月21日、李宗仁
== 作戦の経過 ==
蔣介石と新広西派との対立が激化した後、河北に駐屯していた新広西派の部隊は白崇禧が指揮をとっていた。白崇禧の当初の計画では、第36軍をもって[[保定市|保定]]
李宗仁
3月末、蔣介石は劉峙
同じ頃、李宗仁
4月11日、国民政府は「新広西派軍隊に告げる書」を発布し、新広西派の「罪悪」を列挙し、併せて新広西派軍の兵士に抵抗の放棄を呼びかけた。新広西派の兵士の心情は緩み、胡宗鐸
蔣介石は直ちに部隊を集め広西侵攻の準備をし、あわせて李宗仁、白崇禧に下野して出国することを勧告し、黄紹竑には広西でそのまま留まるのを認めた。ただし、李明瑞
5月5日、新広西派は「護党救国軍」の成立を宣言し、蔣介石討伐を発表した。同時に出撃を明らかにし、まず広東を攻略し、広東の収入を奪って経済を支え、同時に軍事的勝利をもって政治的劣勢を転換させた。5月15日、北方の馮玉祥は新広西派と合同して蔣介石を討つことを宣言し、蔣介石進攻のため出兵した。しかし、馮玉祥の配下の[[石友三]]は[[韓復榘]]とともに馮玉祥への追随を放棄し、蔣介石に帰順した。このため馮玉祥の作戦は失敗することとなった。
5月中、新広西派の部隊は二手に分かれて広東に進攻し、広東派(粤系、粤軍)を破り、広州城下まで前進した。蔣介石は湖南派(湘系、湘軍)、貴州派(黔系、黔軍)、雲南派(滇系、滇軍)等の部隊を集め広西に進攻し、新広西派を牽制した。新広西派と広東派は白泥地区(広東省[[深圳市]])で決戦を展開し、新広西派は敗れて、新広西派の広東進攻作戦は失敗に終わった。また、北方の盟友馮玉祥の失敗を知り、新広西派は広西に退却を迫られた。しかし同時に桂林
蔣介石はすぐに、李明瑞
6月27日、李明瑞所属の部隊は南寧に攻め入ったので、李宗仁
== 結果と影響 ==
3か月間の蔣桂戦争は蔣介石の勝利で終わった。「寧漢戦争」と「第2次北伐」から絶えず勢力を拡張してきた新広西派にとって深刻な打撃を受けることとなった。新広西派は、根拠地の広西を含め、すべての地盤を失ってしまった。保有していた軍事力も損失しほとんど尽きてしまった。新広西派の3人の首領李宗仁
新広西派の敗北は、馮玉祥、閻錫山の両派と蔣介石の間の対立を激化させた。そして、その後反蔣各派連合の「中原大戦」を引き起こした。▼
李明瑞、兪作柏、楊騰輝の3人が広西省政府主席になった後、彼らは政治的にはもともと左派系であったので、広西に共産党の活動を引き入れた。このため、わずか2か月後には、蔣介石は広西に出兵進攻し、李、兪らを追放した。広西の政局は混乱に陥ることになった。李宗仁、白崇禧、黄紹竑はこの機会に乗じ、広西への影響力を再び回復した。しかし、李、兪らの左派系政治の状況は中国共産党が広西へ浸透することとなり、広西に共産党の根拠地ができることとなった。▼
▲李明瑞
== 脚注 ==
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[[Category:中華民国の戦争 (1912年-1949年)]]
[[Category:新広西派|*]]
[[Category:アジアの内戦]]
[[Category:20世紀の戦争]]
[[Category:1929年3月]]
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[[Category:1929年5月]]
[[Category:1929年6月]]
[[Category:蔣介石]]
[[Category:李宗仁]]
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