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|選手写真ファイル名 = J.D. Drew 2011.jpg
|写真サイズ = 280
|写真のコメント = ボストン・レッドソックス
|国籍 = {{USA}}
|出身地 = [[ジョージア州]][[バルドスタ (ジョージア州)|バルドスタ]]
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== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
{{by|1994年}}の[[1994年のMLBドラフト|MLBドラフト]]で[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]から20巡目で指名されるが、契約せず[[フロリダ州立大学]]に進学。
{{by|1997年}}に[[ゴールデンスパイク賞]]を受賞し、大学野球史上初のシーズン30本塁打・30盗塁を記録するなど活躍<ref name="library">{{cite web |url=http://www.baseballlibrary.com/ballplayers/player.php?name=JD_Drew_1975|title=The Ballplayers - JD Drew|language=英語||work=BaseballLibrary.com|accessdate=2008年8月2日}}</ref>。
{{by|
[[独立リーグ]][[ノーザンリーグ]]の[[セントポール・セインツ]]でプレーする。44試合に出場し、打率.318・18本塁打・50打点を記録し、リーグの最優秀新人賞を受賞<ref name="library"/>。
{{by|1999年}}[[8月10日]]にメジャー昇格後初の[[ベテランズ・スタジアム]]でのフィリーズ戦で球場全体から憎悪の視線がドリューへ向けられた<ref name="maj199910"/>。8回にドリューが守備に就いた時にはフィリーズファンが[[乾電池]]を投げ込み、試合が10分間中断となり、球審は「これ以上騒ぎが大きくなれば[[没収試合]]にするぞ」と警告を促した<ref name="maj199910"/>。▼
=== カージナルス時代 ===
{{by|2003年}}オフに[[アトランタ・ブレーブス]]にトレードされ、{{by|2004年}}は自己最高の31本塁打・93打点を記録し、[[6月30日]]から[[7月26日]]にかけて[[ジェフ・ケント]]の25試合連続安打に次ぐこの年リーグ2番目の長さとなる22試合連続安打を記録し<ref>{{cite web |url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m0FCI/is_6_67/ai_n27888583|title=Players with 20-game hitting streaks, one season |language=英語||work=BNET Today |accessdate=2008年8月28日}}</ref>、MVPの投票では6位に入っている。シーズン後の12月にブレーブスの3年総額2500万ドルを上回る金額を提示した[[ロサンゼルス・ドジャース]]と5年5,500万ドルの契約を結んだ<ref>{{cite web |url=http://sports.espn.go.com/mlb/news/story?id=1951346|title=Dodgers move quickly after killing Unit deal|language=英語||work=ESPN.com|accessdate=2008年8月28日}}</ref>。▼
{{by|1998年}}の[[1998年のMLBドラフト|MLBドラフト]]で[[セントルイス・カージナルス]]から1巡目(全体5番目)で指名され、総額850万ドルの4年契約を結び、契約金はドラフト指名選手として史上最高となる300万ドル<ref name="maj199809">「30球団マンスリー・リポート セントルイス・カージナルス 噂の新人と4年総額850万ドルで契約ドリュー外野手が投げかける波紋」『[[月刊メジャー・リーグ]]』1998年9月号、[[ベースボールマガジン]]社、1998年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-9、80頁。</ref>。球団関係者は、[[ロースター (MLB)|ロースター]]の枠が40人に拡大される9月にメジャー昇格を果たす確率が高いと見ており<ref name="maj199809"/>、AA級とAAA級で45試合出場し、9月8日の[[マーク・マグワイア]]がシーズン62本塁打を放ち、シーズン最多本塁打記録した試合でメジャーデビューをしている<ref name="library"/>。
▲{{by|1999年}}
{{by|2006年}}オフにドジャースとの間に残っていた3年3,300万ドルの契約を自ら放棄し退団。[[ボストン・レッドソックス]]と5年7,000万ドルの契約で合意。故障が多いため契約に「肩の古傷の再発で35日以上の故障者リストに入ったり、新たな故障でプレーできなくなったりした場合は、最後の2年間の契約を破棄できる」という条項がある<ref>{{Cite book|和書|author=[[友成那智]]、[[村上雅則]]|year=2008|title=メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008|publisher=[[廣済堂出版]]|pages=49頁|id=ISBN 978-4-331-51300-2}}</ref>。また、契約合意直後の身体検査で右肩に異常が見つかったため、正式な契約締結は遅れた<ref>『月刊[[スラッガー]]』2007年3月号、44ページ</ref>。▼
=== ブレーブス時代 ===
▲{{by|2003年}}オフに[[アトランタ・ブレーブス]]にトレードされ、{{by|2004年}}は自己最高の31本塁打・93打点を記録し、
=== ドジャース時代 ===
2003年シーズン後の12月にブレーブスの3年総額2500万ドルを上回る金額を提示した[[ロサンゼルス・ドジャース]]と5年5,500万ドルの契約を結んだ<ref>{{cite web |url=http://sports.espn.go.com/mlb/news/story?id=1951346|title=Dodgers move quickly after killing Unit deal|language=英語||work=ESPN.com|accessdate=2008年8月28日}}</ref>。
=== レッドソックス時代 ===
▲{{by|2006年}}オフにドジャースとの間に残っていた3年3,300万ドルの契約を自ら放棄し退団。[[ボストン・レッドソックス]]と5年7,000万ドルの契約で合意。故障が多いため契約に「肩の古傷の再発で35日以上の故障者リストに入ったり、新たな故障でプレーできなくなったりした場合は、最後の2年間の契約を破棄できる」という条項がある<ref>{{Cite book|和書|
{{by|2008年}}6月に初の[[プレイヤー・オブ・ザ・マンス|月間MVP]]を受賞し、[[デビッド・オルティーズ]]の離脱の影響を最小限に食い止めた<ref>「2008年後半戦チーム総点検 ボストンレッドソックス 投打の主力が故障離脱も分厚い選手層でカバー」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2008年9月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2008年、雑誌15509-9、37頁</ref>。初選出となった[[2008年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]では7回に同点2ランを放つなど4打数2安打2打点の活躍を見せMVPに輝いた。
{{by|2009年}}は、打率.279・24本塁打・68打点という成績を記録。
{{by|2010年}}は、2年連続で20本以上の本塁打を放ったが、チャンスでの弱さが目立ち、本塁打22本中16本がソロだった<ref name=senshumeikan2011>{{Cite book|和書|author=友成那智、村上雅則|year=2011|title=メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2011|publisher=廣済堂出版|
{{by|2011年}}、5年契約を満了しFAとなり、引退した。
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