削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
→‎カタリ派: aimai回避
 
(23人の利用者による、間の40版が非表示)
1行目:
{| class="floatright"
{|align=right style="margin: 0 0 1em 1em;"
|-
|
[[Image:Paris.notre.dame.750pixParis_Notre-Dame,_July_2001.jpg|thumb|center|305px|1163年に建設が始まった[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム]]大聖堂は、中世盛期の建築の好例の一つである。]]
|-
|
13行目:
<gallery>
File:Bonaventura Berlinghieri Francesco.jpg|修道院の黄金時代
File:JoaoKing semJohn terrasigning assinathe cartaGreat Charter (Magna Carta) by English School.jpgpng|[[:en:Magna Carta|マグナ・カルタ]]への署名
</gallery>
|}
[[中世]]において'''中世盛期'''(ちゅうせいせいき)<ref>John H. Mundy, Europe in the High Middle Ages, 1150-1309 Harlow, England, Longman (2000) ISBN 0-582-36987-8</ref>とは、ヨーロッパ史において11, 12, 13世紀を中心とする時代で、[[歴史|歴史上の]][[時代区分]]としては[[中世前期]]の後、[[中世後期]]の前とされる。中世後期は1500年までには終了したと考えるのが慣例である<ref>In Pace, E. A. (1922). The Catholic encyclopedia: An international work of reference on the constitution, doctrine, discipline and history of the Catholic Church. New York: Encyclopedia Press. [httphttps://books.google.comco.jp/books?id=bGdbHI9-8e8C&pg=PA502&redir_esc=y&hl=ja 501]</ref><ref>Thomas, J. S. (1903). The Middle Ages</ref><ref>Shahan, T. J. (1904). The middle ages, sketches and fragments. New York: Benziger Brothers</ref><ref>Strayer, J. R. (1982). [[:en:Dictionary of the Middle Ages|Dictionary of the Middle Ages]]. New York: Scribner</ref>。
 
[[ヨーロッパ史]]における中世盛期に顕著な傾向として、[[中世人口学|大幅な人口増]]が挙げられる。これによって、前時代からは政治的・経済的に大きな変化が生じた。1250年の大幅な人口増によって引き起こされた経済成長は、地域によっては19世紀までは二度と実現されなかったほど大幅なものであった。しかし、うした人口増は、中世後期になるとしばしば発生した[[中世後期の危機|災難]]([[ペスト]]が有名だが、戦争や経済停滞も含まれる)によって抑制されることになった。
 
780年頃以降、[[西ヨーロッパ]]では[[民族移動時代]]が終わりをつげ、政治的・社会的な組織化が促進された。南欧で繁栄したイスラム系諸国は、ヨーロッパにおける科学と哲学の復興をもたらした。ボローニャ、サレルノ、パリ、モデーナには最初の大学が設立された。バイキング達はブリテン諸島やフランスをはじめ各地に定住したが、同時に[[キリスト教徒|キリスト教]]を国教としたノルド人達の諸王国は、故地である[[スカンディナヴィア]]でも発展を続けた。[[マジャル人]]は10世紀頃に侵入を停止し、1000年頃までにはキリスト教国である[[ハンガリー王国]]として、地域の諸大国と同盟を結びつつ、[[中央ヨーロッパ]]におけるその地位を固めた。一過性に例外的事件として[[モンゴルのポーランド侵攻|モンゴルの征服]]はあったが、おおむね異民族の侵入はこの時代に終わったと言えよう。
 
11世紀になると、[[アルプス山脈]]の北方にいたゲルマン人達は新たな土地を求めて入植を始めたが、こうした植民地の中には[[ローマ帝国]]の滅亡後には荒れ地に戻っていた場所もある。ヨーロッパに残っていた広大な[[森林]]や[[湿地]]はこの時代に開墾され耕作地となったが、この変化は[[グレート・クリアランス]]と呼ばれる。また、入植活動は[[フランク王国]]の旧来の国教線を越えて東方の未開地に及び、[[エルベ川]]を超えて東に拡張する過程でドイツ人の居住地は3倍に拡大した。依然として強力な指導力を保っていた[[カトリック教会]]は、[[聖地]]を占領した[[セルジューク・トルコ]]に対する一連の[[十字軍]]遠征を全ヨーロッパに呼びかけ、それにより[[レバント]]に[[十字軍国家]]を建国した。北方では[[北方十字軍|バルト海の植民地化]]が行われ、イベリア半島ではキリスト教諸国軍が[[ムーア人]]を[[レコンキスタ|イベリア半島を奪い取った]]によって駆逐し、[[ノルマン人]]は南イタリアに植民したが、こうした活動は全て、この時代に起きた人口の大幅な増加とその結果としての移住のパターンとして読み解くことが出来る。
 
中世盛期には、知的で精神的な[[芸術作品]]の分野に多くの様式が生まれた。また、この時代には[[エスノセントリズム]]の萌芽が見られるが、これは後に近代ヨーロッパ諸国に見られた[[国民国家]]の思想につながるものである。イタリアでは諸々の[[都市国家]]が興隆し、イベリア半島では[[アンダルス]]の勃興と没落があった。[[アリストテレス]]の著作群が再発見されたことは、[[トマス・アクィナス]]をはじめとする思想家が[[スコラ学]]を発展させるきっかけとなった。建築では、有名な[[ゴシック建築|ゴシック大聖堂]]の多くの建設が、この時代に着工され、あるいは完成されている。中世盛期という時代区分は、[[中世後期の危機]]と呼ばれる14世紀に始まった相次ぐペストの流行や飢饉の発生よって区切られる。
 
{{TOC limit|limit=4}}
 
==時代区分==
{{main|時代区分}}
32 ⟶ 33行目:
「中世盛期」という用語は、中世を三分割したうちの一つで、他の二つは、中世前期と中世後期である。[[レオナルド・ブルーニ]]は[[フィレンツェ人の歴史]](1442年)で三分割した時代区分を初めて用いた歴史家であった<ref name="Hankins">Leonardo Bruni, James Hankins, ''History of the Florentine people'', Volume 1, Books 1–4, (2001), p. xvii.</ref>。[[フラビオ・ビオンド]]は[[ローマ帝国の悪化の歴史の数十年]](1439年-1453年)で同様の枠組みを用いた。三分割はドイツの歴史家[[クリストフ・セラリウス]]が[[古代、中世、新時代に分割した普遍的な歴史]](1683年)を出版して一般化した。
 
=== 時系列 ===
{{see|中世の時系列}}
 
==== 前半 ====
{{節スタブ|1=timelineへの項目追加|date=2014年10月}}
<timeline>
ImageSize = width:800 height:65
61 ⟶ 63行目:
 
</timeline>
;日付
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* 962 &mdash; [[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]、[[神聖ローマ皇帝一覧|神聖ローマ帝国皇帝]]即位
* 1003 &mdash; [[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]死去
* 1018 &mdash; [[第一次ブルガリア帝国]]が[[バシレイオス2世]]の[[東ローマ帝国]]に占領される。
* 1027 &mdash; [[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]、[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の後継として神聖ローマ帝国皇帝に即位
* 1054 &mdash; [[東西教会の分裂]]
* 1066 &mdash; [[ヘイスティングズの戦い]]
* 1066-1067 バイユーのタペストリー
* 1073-1085 &mdash; [[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]
* 1071 &mdash; [[マラズギルトの戦い]]
{{Col-2}}
* 1077 &mdash; [[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の[[カノッサの屈辱]]
* 1086 &mdash; [[ドゥームズデイ・ブック]]
* 1086 &mdash; [[サグラハスの戦い]]
* 1088 &mdash; [[ボローニャ大学]]創立
* 1091 &mdash; [[ルヴニオンの戦い]]
* 1096-1099 &mdash; [[第1回十字軍]]
* 1123 &mdash; [[第1ラテラン公会議]]
* 1139 &mdash; [[第2ラテラン公会議]]
* 1145-1149 &mdash; [[第2回十字軍]]
* 1147 &mdash; [[ヴェンド十字軍]]
* 1150 &mdash; [[パリ大学]]創立
{{Col-end}}
 
'''日付'''
====後半====
{{columns-list|20em|
* 962{{ColonSp}}[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]、[[神聖ローマ皇帝一覧|神聖ローマ帝国皇帝]]即位
* 1003{{ColonSp}}[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]死去
* 1018{{ColonSp}}[[第一次ブルガリア帝国]]が[[バシレイオス2世]]の[[東ローマ帝国]]に占領される。
* 1027{{ColonSp}}[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]、[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の後継として神聖ローマ帝国皇帝に即位
* 1054{{ColonSp}}[[東西教会の分裂]]
* 1066{{ColonSp}}[[ヘイスティングズの戦い]]
* 1066-1067{{ColonSp}}バイユーのタペストリー
* 1073-1085{{ColonSp}}[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]
* 1071{{ColonSp}}[[マラズギルトの戦い]]
* 1077{{ColonSp}}[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の[[カノッサの屈辱]]
* 1086{{ColonSp}}[[ドゥームズデイ・ブック]]
* 1086{{ColonSp}}[[サグラハスの戦い]]
* 1088{{ColonSp}}[[ボローニャ大学]]創立
* 1091{{ColonSp}}[[ルヴニオンの戦い]]
* 1096–1099{{ColonSp}}[[第1回十字軍]]
* 1123{{ColonSp}}[[第1ラテラン公会議]]
* 1139{{ColonSp}}[[第2ラテラン公会議]]
* 1145–1149{{ColonSp}}[[第2回十字軍]]
* 1147{{ColonSp}}[[ヴェンド十字軍]]
* 1150{{ColonSp}}[[パリ大学]]創立
}}
 
==== 後半 ====
{{節スタブ|1=timelineへの項目追加|date=2014年10月}}
<timeline>
ImageSize = width:800 height:65
113 ⟶ 115行目:
 
</timeline>
 
;日付
'''日付'''
{{Col-begin}}
{{columns-list|20em|
{{Col-2}}
* 1155-1190 &mdash; 1155–1190{{ColonSp}}[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]
* 1158 &mdash; {{ColonSp}}[[ハンザ同盟]]創立
* 1167 &mdash; {{ColonSp}}[[オックスフォード大学]]創立
* 1185 &mdash; {{ColonSp}}[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]再興
* 1189-1192 &mdash; 1189–1192{{ColonSp}}[[第3回十字軍]]
* 1200–1204 &mdash; {{ColonSp}}[[第4回十字軍]]
* 1205 &mdash; {{ColonSp}}[[アドリアノールの戦い (1205年)|アドリアノールの戦い]]
* 1209 &mdash; {{ColonSp}}[[ケンブリッジ大学]]創立
* 1209-1229 &mdash; 1209–1229{{ColonSp}}[[アルビジョア十字軍]]
* 1212 &mdash; {{ColonSp}}[[ナバス・デ・トロサの戦い]]
* 1215 &mdash; {{ColonSp}}[[マグナ・カルタ]]
* 1216 &mdash; {{ColonSp}}[[ドミニコ会]]認可
* 1215 &mdash; {{ColonSp}}[[第4ラテラン公会議]]
* 1217–1221 &mdash; {{ColonSp}}[[第5回十字軍]]
* 1218 &mdash; {{ColonSp}}[[サラマンカ大学]]創立
* 1220-1250 &mdash; 1220–1250{{ColonSp}}[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]
* 1222 &mdash; {{ColonSp}}[[パドヴァ大学]]創立
* 1223 &mdash; {{ColonSp}}[[フランシスコ会]]認可
* 1228–1229{{ColonSp}}[[第6回十字軍]]
{{Col-2}}
* 1228–1229 &mdash; 1230{{ColonSp}}[[第6回プロイセン十字軍]]
* 1230{{ColonSp}}[[クロコトニツァの戦い]]
* 1230 &mdash; [[ペルシア十字軍]]
* 1237–1240{{ColonSp}}[[モンゴルのルーシ侵攻]]
* 1230 &mdash; [[クロコトニツァの戦い]]
* 1237-1240 &mdash; 1241–1242{{ColonSp}}[[モンゴルのロッパ侵攻]]
* 1241-1242 &mdash; {{ColonSp}}[[モンゴルのヨルシュタパ侵攻トの戦い]]
* 1241 &mdash; 1242{{ColonSp}}[[ワールシュタット氷上の戦い]]
* 1248–1254{{ColonSp}}[[第7回十字軍]]
* 1242 &mdash; [[氷上の戦い]]
* 1257{{ColonSp}}[[ソルボンヌ大学]]創立
* 1248–1254 &mdash; [[第7回十字軍]]
* 1261{{ColonSp}}[[東ローマ帝国]][[コンスタンティノープル]]再占領
* 1257 &mdash; [[ソルボンヌ大学]]創立
* 1274{{ColonSp}}[[トマス・アクィナス]]死去:'''[[神学大全]]'''出版
* 1261 &mdash; [[東ローマ帝国]][[コンスタンティノープル]]再占領
* 1274 &mdash; 1280{{ColonSp}}[[アルベルス・アクィナマグヌス]]死去:'''[[神学大全]]'''出版
* 1291{{ColonSp}}[[中東]]のヨーロッパ最後の植民地[[アッコ]]、[[アシュラフ・ハリール]]の[[マムルーク]]に占領される。
* 1280 &mdash; [[アルベルトゥス・マグヌス]]死去
* 1299{{ColonSp}}[[オスマン1世]][[オスマン帝国]]建国
* 1291 &mdash; [[中東]]のヨーロッパ最後の植民地[[アッコ]]、[[アシュラフ・ハリール]]の[[マムルーク]]に占領される。
* 1321{{ColonSp}}[[ダンテ・アリギエーリ]]死去
* 1299 &mdash; [[オスマン1世]][[オスマン帝国]]建国
}}
* 1321 &mdash; [[ダンテ・アリギエーリ]]死去
{{Col-end}}
 
==歴史==
{{Human history}}
 
 
===ブリテン諸島===
167行目:
|}
 
{{Main|中世のイングランド|中世のスコットランド|中世のグウィネッド史}}
[[イングランド]]では1066年の[[ノルマン・コンクエスト]]により王国は[[フランス語]]を話す貴族に支配されることになった。[[ノルマン人]]は1169年に武力で[[アイルランド]]に侵攻し、砦は南東部にあったが、間もなく国のほぼ全域に落ち着いた。[[スコットランド]]は後に独立を訴えたが、同様にスコットランドと[[ウェールズ]]は、同じ頃に征服された。
 
中世前期の初め頃、[[ノルマンディー公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]が[[イングランド王国]]の王位を主張した。ウィリアムはイングランド侵攻を開始し、1066年9月28日に[[サセックス]]に上陸した。[[ヘイスティングズの戦い]](1066年10月14日)でイングランド軍は敗れ、ウィリアムは征服者となった。ウィリアムはこの時他に大した敵も殆どなくイングランドの残りを征服することができた。しかし[[ノルマンディー公国]]にイングランド王国を吸収合併する計画はなかった。単なる大公としてウィリアムは[[フィリップ1世 (フランス王)|フィリップ1世]]に忠義を果たす義務があったが、独立したイングランド王国で干渉されずに支配できた。1066年12月25日に[[イングランド君主一覧|イングランド王]]になった。イングランド王国とノルマンディー公国は、1204年まで[[同君連合]]下にあった。ウィリアムから4世代後にはノルマンディー公国の大陸の領土は、[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]に奪われた。[[チャンネル諸島]]などの若干の[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]]の一部は、[[アキタンテーヌ公国]]の殆どとともにイングランド領のままだった。
 
[[アングロサクソンイングランド]]のノルマン・コンクエストの時代に至るまでウェールズはその殆どで独立を保っていた。イングランドでノルマン・コンクエストが起きると、ノルマンの領主の中にウェールズを攻撃し始める者がいた。多くの地域を占領し、イングランドのノルマン王の大君主制を認めたもののかなりの地方の独立を認めながら支配した。長年にわたりこの「[[マーチャー領主]]」はイングランドのノルマン王の大君主制も認めることが珍しくなかった様々なウェールズの王子に率いられたかなりの抵抗運動に向かい合いながらウェールズの多くを占領した。
 
[[財務省 (イギリス)|財務省]]が12世紀に[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]の下で創設され、最初の[[イングランド議会|議会]]が、召集された。1215年、[[ノルマンディー]]を失うと、[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]は[[イングランド君主一覧|イングランド君主]]の権力を制限する[[マグナ・カルタ]]に法律として署名した。
 
[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]は1282年に事実上ウェールズを占領し、1301年に長男[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]のために[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の称号を創設した。[[カウニー城]]や[[ハーレック城]]、[[カーナーヴォン城]]のような広大な[[城]]が証明するように、エドワードの占領は、冷酷で、続く抑圧は、無視できないものであったが、この事件は約700年前の西暦5世紀の[[ケント王国]]の[[ジュート人]]の王国が建国されてから初めて[[ブリタンニア]]の国土を単一の支配者が再統一したものであった。従って前サクソン時代との関わりを再び持つことになったので、このことは中世イングランド史で非常に重要な瞬間であった。この関わり合いは[[ウェールズ神話|ウェールズ伝説]]によりアングロ・ノルマン人などの王国の国民を統一する政治的な目的に悪用された。
 
 
===北ヨーロッパ===
{{Main|スカンディナヴィアのキリスト教化|北方十字軍}}
 
10世紀中葉から11世紀中葉にかけて[[スカンディナヴィア]]王国は[[ヴァイキング]]の侵入に終わりを告げた結果統一されキリスト教化し、ヨーロッパの政治に深く関わることになった。[[デンマーク]]の[[クヌー1世 (マークグランド王)|クヌーズ12世]]は、イングランドと[[ノルウェー]]の両方を支配した([[北海帝国]])。クヌーズ12世が1035年に死去すると、イングランドとノルウェーは、失われた。1130年から1240年に[[ノルウェーの内戦時代|ノルウェーで内戦が荒れ狂った]]。1227年に[[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]が敗れるとともに、この地域のデンマークの支配は、終わりを告げた。一方[[ビルガーイェル・ヤール]]の下で[[スウェーデン]]が[[バルト海]]北部と[[フィンランド]]南部に強力な拠点を築き上げる間に、ノルウェーは[[グリーンランド]]から[[マン島]]にかけての[[大西洋]]の支配地域を拡張した。しかしノルウェーの興隆は、1266年の[[パース条約]]で示されたように同時期に既に衰退を始めた。
 
{{see also|デンマークの歴史|ノルウェーの歴史|スウェーデンの歴史 (800年-1521年)}}
191 ⟶ 190行目:
中世盛期の時代までに現在の境界線ではないけれど[[カロリング帝国]]は[[フランス王国]]と[[ドイツ王国]]の後継国家に分かれ、置き換えられた。ドイツは統合と政治権力が絶頂期に達した[[神聖ローマ帝国]]の旗の下にあった。フランス王国は12世紀から14世紀前半にかけて芸術と文学の発露の時代であった。[[ヴァロワ家]]の興隆とともにイングランド王国との[[百年戦争]]の長引く王朝の危機と破滅的な[[ペスト]]の流行が起きた。
 
1250年にフリードリヒ2世が死ぬと、ドイツ王国は息子の[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]と反対派の[[ウィレム2世 (ホラント伯)|ウィレム2世]]の下に分割された。コンラート4世が死ぬと、国王が全員の承認を得られず王子が保有物をうまく固めようとし独立した支配者にさえなった時代である[[空位期間時代]]となった。1257年を過ぎると、王位はゲルフ党に支援された[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]とホーヘンシュタウフェン党に承認されたが決してドイツの土地に足場を設けなかった[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]の間で争われた。リチャードが1273年に死ぬと、[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]が全員一致で選ばれ空位期間は終了した。
 
13世紀はドイツ王国の土地の管理方法に一般的な構造変革があった時代である。個人の義務の代わりに金銭が益々農業において経済価値を表す共通の手段になった。農奴は益々土地のために年貢を納めるよう要求された。依然として非常に土地に縛り付けられていたが、「財産」の概念は、古代の財産権の形式に置き換わり始めた。領土では(帝国ではなく)権力は益々束ねられた。土地を所有する者は誰でも他の権力から得られる財産権があった。しかしこの時代の財産権に司法権が含まれなかったことは特筆すべきことである。法廷を開くには重々しく伝統的な慣習を当てにするかでなければ規則は慣習法であった。
203 ⟶ 202行目:
|-
|
[[File:SztIstvan 5.jpg|thumb|center|聖[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]].
]]
|}
中世盛期には[[ハンガリー王国]](1000年建国)は中央[[ヨーロッパ]]と[[西ヨーロッパ]]において最も強大な国家であった。国民は聖[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]によりキリスト教化された。同時代の年代記記録者達によれば、王は非常に信仰心が厚く、ラテン語文法に造詣が深く、自国民には厳しいが外国人には寛容な君主であったということである。イシュトヴァーン1世は王国内に残存していた部族社会の風習を一掃し、国人に定住を強制し、また[[キリスト教]]の信仰と倫理観、およびキリスト教的な生活様式を導入し、政治的にはドイツの国家システムをモデルとする中世国家としてのハンガリーの基礎を築いた。
 
イシュトヴァーン1世に続く君主達は、聖[[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー1世]]のように、[[ローマ]]教会と密接な関係を保つことを常としたが、ハンガリー王国内に安住の地を求めて避難してきた異教徒達に対しても寛容な態度をとった。例えば13世紀にハンガリー王国に逃げてきた[[クマン人]]はこの例であるが、こうした態度が何人かの教皇の不興を買ったのも事実である。[[クロアチア]]との同君連合の形成および群小国家の併合により、ハンガリーは[[バルカン半島]]と[[カルパティア]]地方全域にその影響を及ぼす小帝国になった。[[ハンガリー]]王室は、中世においてカトリック教会から最も多くの聖人を輩出した王家であった。
 
===ポーランドとリトアニア===
{{main|中世のポーランド}}960年頃に[[ミェシュコ1世]]が神聖ローマ皇帝[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]からポーランド公の称号を与えられ、[[ピャスト朝]]を創始した。ミェシェンコの子[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]の代には父の勢力をさらに拡大し、強大な国家となった。1138年に[[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世]]が没すると後継者争いによってポーランドは分裂してしまう。分裂状態は約200年続き、[[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]によって統一された。
{{main|中世のポーランド}}
 
 
===南ヨーロッパ===
230 ⟶ 228行目:
]]
|}
中世盛期はスラヴ系の[[キエフ大公国]]の栄枯盛衰と[[{{仮リンク|スト朝のポーランド史|label=ポーランドの出現]]|en|History of Poland during the Piast dynasty}}があった時代である。後に[[東ヨーロッパ]]の多くの国が侵略され、略奪され、占領され、属国となったので、13世紀の[[モンゴルの占領|モンゴル侵攻]]がこの地域に大きな影響を与えた。
 
この時代の前半(1025年-1185年)に[[東ローマ帝国]]は[[ドナウ川]]の南のバルカン半島を支配し、[[コムネノス王朝]]皇帝の下で繁栄の復活と都会化があったが、この地域の支配は、1185年に[[ブルガリア]]の反乱が成功裡に終わるとともに終わりをつげ、これ以降[[マケドニア]]や[[トラキア]]の幾つかの地域や[[モエシア]]の[[ブルガリア人]]、トラキアやマケドニアの殆どの地域、北西部の[[セルビア人]]などの地域は、[[ギリシャ]]のビザンティン帝国の間で分割された。東と西の教会は、11世紀に正式に分裂し、12世紀に時折協力関係の時代があったにもかかわらず、1204年、[[第4回十字軍]]が[[コンスタンティノープル]]を占領する裏切り行為を行った。このことは東ローマ帝国に深刻な打撃を与え、権力は遂には15世紀に[[オスマン帝国]]に奪われた。しかし[[ラテン帝国]]の権力は、十字軍が[[アドリアノープルの戦い (1205年)|アドリアノープルの戦い]]で[[ブルガリア皇帝一覧|ブルガリア皇帝]][[カロヤン・アセン|カロヤン]]により敗走すると、短命であった。
 
 
===気候と農業===
241 ⟶ 240行目:
{{Human history}}
===騎士道の興隆===
重騎士([[ナイト]])という身分が11世紀にはヨーロッパ全域で普通となり、[[馬上槍試合]]が考案されたのもこの頃である。馬や鎧といった重装備を準備する初期投資は簡単なものではなかったが、農奴層にとって騎士になることは自由民になるひとつの手段であった。12世紀になると、[[クリュニー修道]]の修道僧達が神学的に正当な戦争という概念を提唱し、[[テンプル騎士団]]に代表される[[修道騎士団]]の創設を鼓吹した。貴族階級の身分の世襲はこの頃に始まったが、13世紀のドイツでは、貴族の肩書きほど輝かしいものではないとはいえ、騎士の身分もこの頃に世襲されるようになり、この風潮は他国へも広まっていった。
 
==宗教==
====教会====
1054年の[[東西教会の分裂]]は、正式にキリスト教会を二つに分けた。大分裂は長らく政治的・教義的差異や神学論争により一層傷付けられてきた東西の関係から齎された。顕著な例は、聖体拝領には発酵したパンを用いるべきか発酵していないパンを用いるべきかということと、五大[[総主教]]座(五本山・ペンターキー)においてローマ教皇の主張する普遍的な権限である首位権や[[コンスタンティノープル総主教]]の地位の問題はどうあるべきかということであった。[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]と[[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ミハイル1世]]は、4人の[[総主教]]にまで教皇の権威は及ぶかという論争の最後に互いを[[破門|破門した]]。
{|align=right style="width: 222px; margin: 0 0 1em 1em;"
|-
!style="color: #black; background-color: #f8eaba; font-size: 100%;" align="center" |[[東西教会の分裂]]
|-
----
{{color box|#f47a0d}} カトリック教会<br />
{{color box|#3998ea}} 東方正教会
]]
|}
1054年の[[東西教会の分裂]]は、正式にキリスト教会を二つに分けた。大分裂は長らく政治的・教義的差異や神学論争により一層傷付けられてきた東西の関係から齎された。顕著な例は、聖体拝領には発酵したパンを用いるべきか発酵していないパンを用いるべきか、普遍的な権限に対する教皇の主張、ペンターチーに関係するコンスタンティノープルの場所という問題であった。[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]と[[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ミハイル1世]]は、4人の[[総主教]]に教皇の権威は及ぶかという論争の最後に互いを[[破門|破門した]]。
 
分裂後はキリスト教は西ヨーロッパの[[カトリック教会]]と東方の[[正教会]]で表された。教会は教義上、神学上、言語学上、政治的、地理的な線で分かれ、根本的な不和は、互いが相手を異端に陥ったと非難し分裂を始めたことで決して癒されることはなかった。十字軍、1182年のラテン帝国の虐殺、1204年のコンスタンティノープル占領と略奪、総大司教の詐欺行為は、和解を一層困難なものにした。このことにはそれまでの宗教芸術品を多くぶんどったりコンスタンティノープル図書館の破壊がある。
 
分裂後のキリスト教は西方の[[カトリック教会]]と東方の[[正教会]]との二つの教会でまとめられる。それぞれの教会は教義上、神学上、言語学上、政治的、地理的な線で分かれ、根本的な不和の原因は互いが相手を異端に陥ったと非難し分裂を始めたことであり、決して癒されることはなかった。1095年に始まる十字軍の派遣、1182年の東ローマ帝国でのラテン系住民の虐殺、1204年の第四回十字軍によるコンスタンティノープル占領と略奪、総主教への背信行為は、和解を一層困難なものにした。これらの衝突に加え十字軍兵士らが東ローマ帝国の聖遺物を始めとする宗教芸術品の多くを戦利品として持ち帰り、コンスタンティノープル図書館の破壊したことも挙げられる。
 
===十字軍===
284 ⟶ 273行目:
bar:Crusade color:era
from:1095 till:1099 shift:(60,-5) text:[[第1回十字軍|First]]
from:1147 till:1149 shift:(60,-5) text:[[第2回十字軍|Second ]]
from:1187 till:1192 shift:(60,-5) text:[[第3回十字軍|Third ]]
from:1202 till:1204 shift:(60,-5) text:[[第4回十字軍|Fourth ]]
from:1217 till:1221 shift:(60,-5) text:[[第5回十字軍|Fifth ]]
from:1228 till:1229 shift:(60,-5) text:[[第6回十字軍|Sixth ]]
from:1248 till:1254 shift:(60,-5) text:[[第7回十字軍|Seventh ]]
from:1270 till:1270 shift:(60,0) text:[[第8回十字軍|Eighth ]]
from:1271 till:1272 shift:(60,-10) text:[[第9回十字軍|Ninth]]
</timeline>
299 ⟶ 288行目:
| title=Philip de Novare: ''Les Gestes des Ciprois'', The Crusade of Frederick II, 1228–29 | work=Medieval Sourcebook | publisher=Fordham University
| accessdate=2008-02-08 }}—"Gregory IX had in fact excommunicated Frederick before he left Sicily the second time"</ref>。[[第7回十字軍]]、[[第8回十字軍]]、[[第9回十字軍]]は、[[第9回十字軍]]が[[中東]]で十字軍の終わりを迎えて、[[マムルーク]]と[[ハフス朝]]の勝利で終わった<ref>The Gospel in All Lands By Methodist Episcopal Church Missionary Society, Missionary Society, Methodist Episcopal Church, pg. 262</ref>。
 
 
====騎士修道会====
306 ⟶ 294行目:
[[テンプル騎士団]]は敵意を持つ地元民や山賊からキリスト教巡礼者を守るのを手伝うために[[第1回十字軍]]が終わると創設されたキリスト教軍事組織であった。この騎士団は金融業に深く関わっていて、1307年、[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ恐怖王]](''Philippe le Bel'')は騎士団全員をフランスで逮捕し、異端の疑いで告発し解散させた。1314年に密かに[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]により赦免された。
 
[[聖ヨハネ騎士団]]は元々貧しい人や病人、聖地への傷ついた[[巡礼]]のために活動するために1080年に[[エルサレム]]で創設された[[キリスト教]]組織であった。エルサレムが[[第1回十字軍]]に奪取されると、聖地の管理と防衛にあたる組織に変化した[[修道会]]や[[騎士修道会]]になった。聖地が結局イスラーム教徒に奪取されると、活動の場を[[ロドス島]]に、後に[[マルタ]]に移した。
 
[[ドイツ騎士団]]は聖地へのキリスト教巡礼者を援助し病人や怪我人のために[[ウトラメール]]で病院を運営するために[[アッコ]]市で1190年に編成された[[ドイツ]]騎士団であった。イスラーム教徒が聖地を奪取すると、騎士団は1211年にトランシルヴァニアに移動し、後に破門されると、バルト海のキリスト教化を目指して異教徒のいるプロシアを侵略した。騎士団にとっての主要な異教徒[[リトアニア大公国]]がキリスト教に[[リトアニアのキリスト教化|改宗する]]前後に騎士団は既に[[ノブゴロド公国|ノブゴロド]]や[[ポーランド王国|ポーランド]]のような他のキリスト教国を攻撃していた。無視できなくなったドイツ騎士団の影響力は、1410年にポーランド・リトアニア・ロシア連合軍に破滅的な大敗を喫した[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]]で粉砕された。タンネンベルクの戦いの後、騎士団は衰退し、1809年に正式に騎士団は解散した。全部で10回の十字軍が行われた。
313 ⟶ 301行目:
{{main|スコラ学}}
 
新しい[[キリスト教]]式学習方式は、初めは中世のユダヤ哲学やイスラーム教哲学([[モーシェ・ベン=マイモーン]]や[[イブン・スィーナー]]、[[イブン・ルシュド]]) を通じて間接的に、それから[[東ローマ帝国]]や[[イスラーム教]]の図書館から取り戻した[[アリストテレス]]自身の著作を通じて[[アリストテレス]]の著作の再発見から[[アンセルムス]](1033年–1109年)が影響されたものであり、影響を与えた人で最も有名なのが、[[アルベルトゥス・マグヌス]]や[[ボナヴェントゥラ]]、[[ピエール・アベラール]]であった。スコラ学は[[経験論]]を信条とし、世俗の研究、理性、論理を通じてローマカトリックの教義を支援した。[[キリスト教神秘主義]]や[[二元論]]におけるプラトンやアウグスティヌスの信条、世界を本質的に悪と見る見方に反対した。[[スコラ学]]で最も有名なのは、[[プラトン主義]]や[[アウグスティヌス]]からアリストテレス主義に移行させた[[トマス・アクィナス]]であった(後に「[[教会博士]]」と言われた)。アクィナスは[[心]]が神の閃光を通じて形象や思想を考え認める能力を与えられた'''[[タブラ・ラーサ]]'''(「空白状態」)の誕生にあると書くことで[[心の哲学]]を発展させた。他に有名なスコラ学者に[[ロスケリヌス]]やアベラール、[[ペトルス・ロンバルドゥス]]がいた。この時代の主要な問題の一つは、[[普遍論争]]であった。スコラ学の主流の様々な面の有名な反対派に[[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス]]や[[オッカムのウィリアム]]、[[ペトルス・ダミアニ]]、[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]、[[サンヴィクトル学派]]の学者たちがいた。{{Ref|スコラ学}}
 
===修道院の黄金期===
323 ⟶ 311行目:
13世紀には[[托鉢修道会]]の興隆が見られた。托鉢修道会は生計のために人々の施しに直接頼る修道会である。原則として時間とエネルギーの全てを宗教活動に費やすためにイエス・キリストが辿った道を真似る最も純粋な生活方法であったと信じて個人的にせよ集団にせよ(集団貧困参照)財産を持たない。
 
[[フランシスコ会]](「小さき兄修道士」、英語では一般に''Grey Friars''として知られている)は1209年に創設された。聖フランシスコが聞いた説教により12使徒の貧困生活に完全に自らを捧げることにした感銘を与えた。緩やかな服をまとい、裸足で、福音的訓示の後は杖を持たず、悔い改めの説教を始めた。間もなく活動で得た全てを寄付した有名な市民''Bernardo di Quintavalle''や一年で11人に達したと言われる仲間が加わった。
 
[[カルメル会]](カルメルの聖処女マリアの隠修士、英語では一般に''White Friars''として知られる)は1206年から1214年にかけて創設された。1190年代以前のカルメル山の隠修士に関する記録はないが、カルメル会の伝統は、古代イスラエルの預言者の一門を継承したカルメル山の隠修士のコミュニティーに修道会の起源を重ね合わせている。この時期までにある一団がカルメル山のエリジャの井戸に集まった。この男達は巡礼や十字軍兵士としてヨーロッパからパレスチナに行った男達で、そこがエリジャの伝統的な家であるために一部カルメル山を選んだ。基礎は聖処女マリアに捧げられたと考えられている。
 
[[ドミニコ会]](伝道師説教者修道会、英語では一般に''Black Friars''と呼ばれる)は1215年に創設された。アルビジョア十字軍の後で聖ドミニコは都市の萌え出る住民の宗教問題に耳を傾けるベネディクト会のような古い型の托鉢修道会の献身や組織だった教育を行うが托鉢修道会や世俗の僧侶より柔軟な組織を持つ新しい型の修道会を創設しようとした。ドミニコの新しい修道会は、日常の言葉で説教するよう訓練された説教修道会であった。男子修道院が行った広大な農地で暮らすよりも、新しい修道士は、説得力のある説法で自らを「売り込み」、物乞いで生き残ろうとすることになる。
 
[[聖アウグスチノ修道会]](聖アウグスティヌスの隠修士、一般にアウグチノ修道士と呼ばれている)は1256年に創設された。[[アウグスティヌス]]に因んで名付けられ、この修道士は黙想と1212使徒的な聖職者の合わさった宗教上の生活を実践し、[[聖アウグスティヌスの決まりごと修道規則]]に従っている。
 
===異端運動===
348 ⟶ 336行目:
]]
|}
[[カタリ派]]は[[グノーシス主義]]の集団による運動であった。カタリ派は'''アルビジャン'''とも呼ばれた。当時の[[カトリック教会]]から[[異端]]の烙印を押されたこの運動は、10世紀中葉頃に始まった。[[西ヨーロッパ]]の至る所に存在したが、本拠地は[[ラングドック]]と南[[フランス]]の周辺地域にあった。[[モンセギュール (アリエージュ県)|モンセギュール]]要塞はカタリ派の最後の砦の一つであった。1244年にモンセギュールが陥落すると、生き残ったカタリ派は、[[ケリビュ]]のアラゴンとの国境の別の山頂要塞に集結した。
 
'''カタリ派'''は「純粋な」を意味する[[ギリシャ語]]の''katharos''が語源であるとするのが最も有力である。初めて記録された用法の一つが、1181年にケルンから異端について「Hos nostra Germania catharos appellat」を書いた[[エクベルト・フォンシェーナウ]]であった。この名称は12世紀末から始まり、1181年に年代史家[[ジョフリーロワ・デュ・ブルイユ]]により用いられた。この名称は南部の都市[[アルビ]](古代のアルビガ)に関連している。中心が[[トゥールーズ]]や近郊の地域にあったために、この名称は殆ど正確ではない。[[カタリ派]]はフランス南部やイタリア北部、[[神聖ローマ帝国]]南西部で強かった。[[ボスニア教会]]として知られる[[ボゴミル派]]は、[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|ボスニア]]で強く、ボスニア国王に支援された公的な宗教であった。
 
カタリ派の[[二元論|二元論者]]は、歴史的な事件は良い力と悪い力のせめぎ合いの結果であり悪い方が世界を支配するが[[禁欲主義]]や善い行いを通して支配されたり敗北することが可能だと信じた。
 
[[アルビジョア十字軍]]はラングドックのカタリ派の異端を除くためにカトリック教会が音頭をとった20年にわたる軍事行動であった。実践的なカタリ派の数に重大な減少が見られなかったがオクシタニアの再編成にはつながり、フランス王の支配下に持ち込みアラゴンの影響による別個の地域文化と高度化を減らしながら、十字軍はフランスを中心にして行われ、即座に政治的な主導権を獲得した。カタリ派に戻ろうとする[[ティウス3世]]の試みが殆ど成功せず教皇の使節カステルノのピエールが殺害されると、武器を取ろうとするフランス貴族にカタリ派の異端の土地を提供しようと申し出ながら、イティウス3世はラングドックに対する十字軍を提案した。暴力はカタルーと文化的言語的に近い関係のフランスが土地を取得することになった。アルビジョア十字軍はドミニコ修道会や中世の宗教裁判の双方の創設と制度化に役割も果たした。シモン4世・ド・モンフォールのシモン4世は、第4回十字軍に参加したフランス貴族で、アルビジョア十字軍の有名な指導者であった。1218年にトゥールーズ包囲戦で死亡した。
 
====ワルドー派====
[[リヨン]]の[[ピターヴァルド|ピエール・ヴァルドー]]は、裕福な商人だったが、1173年頃に霊感を受け、全財産をなげうって[[説教者]]となった。あらゆる宗教上の慣行は聖書に基づくべきだと考え、[[ヴァルド派]]を開いた。ワルドーは1179年の[[第3ラテラン公会議]]で、説教する権利を剥奪されたが、これに従わず1184年に破門されるまで自由に説教を続けた。キリストの言葉に従って生きていないとしてキリスト教聖職者達を批判し、[[贖宥状]]の売買や、[[聖人暦]]による聖人崇敬の慣行を否定した。
 
==貿易と商業==
363 ⟶ 351行目:
 
13世紀後半、[[マルコ・ポーロ]]という[[ヴェネツィア]]の探検家が、[[中国]]に向けて[[シルクロード]]を旅した最初のヨーロッパ人の一人になった。マルコ・ポーロが'''[[東方見聞録]]'''で自身の旅を著すと、[[西洋|西洋人]]は極東について知ることとなった。[[ウィリアム・ルブルック]]や[[プラノ・カルピニ]]、[[アンドレ・ド・ロンジュモー]], [[オドリック・ポルデノネ]]、[[ジョヴァンニ・デ・マリノッリ]]、[[ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ]]のような東方への数多くの[[キリスト教]]使節や[[ニッコロ・デ・コンティ]]のような旅行者が続いた。
 
 
==科学と知識==
379 ⟶ 366行目:
 
[[Image:WorldShips1460.jpg|thumb|[[フラ・マウロの世界図]]による1460年の世界の船]]
様々な船が、中世盛期に用いられた。[[コグ船]]はロングシップから進化した(あるいは少なくとも影響を受けた)と考えられる意匠であり、12世紀までに広く用いられた。建造には鎧張りの方法も用いた。[[キャラベル船]]は[[アンダルス|イスラーム教のイベリア]]で発明された船で、13世紀から地中海で用いられた<ref name="Hobson">John M. Hobson (2004), ''The Eastern Origins of Western Civilisation'', p. 141, [[:en:Cambridge University Press|Cambridge University Press]], ISBN 0521547245.</ref>。[[ロングシップ]]や[[コグ船]]とは違うが、建造にあたって[[カルベル造船法]]を用いた。[[スクエアリグ]]横帆を備えたキャラベル・レドンダ(''Caravela Redonda'')や[[と縦帆(ラティーン]]セイル)を備えたキャラベル・ラティーナ(''Caravela Latina'')になり得があった。
 
===発明と技術===
413 ⟶ 400行目:
{{main|ゴシック建築}}
 
ゴシック建築は[[フライング・バットレス]]や[[アーチ|尖頭アーチ]]、[[ヴォールト#リブ・ヴォールト|リブ・ヴォールト]]が結合することにより[[ロマネスク建築|ロマネスク]]様式に取って代わった。それは当時の、宗教的な本質を持つ精神的背景の影響による。水平線と格子が、建物を高層化させた。それ以前の暗くて重いロマネスク様式に対し、ゴシック建築はより明るく軽やかに構成されていた。[[アウグスティヌス]]は光が神を表現すると説き、その教えを教会に反映させるように建築技術は改良され発展した。大きく色彩豊かな[[窓]]が、豊かな光源を取り入れることを可能とした。今日に比べ、中世は鮮やかな色彩に乏しかったため、この大建造物が当時のあらゆる人々に畏怖の念を抱かせるものであったことは想像に難くない。複雑な高層化のために、建物を助材で囲み、後に[[ファン・ヴォールト]]が天に向かう動きがおこった。神への崇拝が、この建物の相対的な巨大さによっても表現された。従ってゴシック様式の大聖堂は、精神的な昇華を求める人々が祈りを捧げる場所であるだけでなく、神の偉大さを知らしめる場所でもあったのである。ゴシック大聖堂の[[間取り]]は、スコラ学の規則にも合致していた。アーウ[[エルヴィン・パノフスキー]][[ゴシック建築とスラ学]]によれば、それは区画と同じ形の副区画に分けられる。この特色は当時もっとも有名な聖堂建築である[[ノートルダム大聖堂 (パリ) |ノートルダム大聖堂]]に示されている。
 
===文学===
{{main|中世文学}}
 
様々さまざまな文化が中世盛期の文学に影響を与え、その最強のた。中でのの一つが、とりわけ有力な影響源はキリスト教文化にあった。キリスト教関係つながり[[ラテン文学]]において極めて重要であった最も強くそれは[[ローマ素材]]の俗語[[サイクル (文学)|サイクル文学群]]で話し言葉おいて民衆語にも影響を与えた。その他の物語群([[サイクル (文学]])|サイクル]]、すなわち相互に関連付けられたする物語の集合)には、[[フランス素材]]([[カール大帝|シャルルマーニュ]]と宮廷の物語)[[東ローマ帝国|ビザンツ]]の開拓者守備兵の騎士道精神を扱う[[{{仮リンク|アクリティック・ソカ歌話|en|Acritic songs}}、そして最も有名であるかもしれない物語群である[[アーサー王物語|ブリテもの]][[アーサー王]]とその宮廷、[[ブルターニュ半島]]や[[コーンウォール]]、[[ウェールズ]]、[[アイルランド島]]に関連する物語を扱う恐らく最も知ついての話)が挙げられたサイクル[[アーサー王物語]]がる。ある無名の[[ドイツ詩人]]は、[[ニーベルンゲンの歌]]を作りながら[[民族移動時代]]からの[[ゲルマン神話]]をフランスとイギやブテンの叙事詩の段階へドイツの神話を齎そ水準まで引き上げようとして、[[ニーベルンゲンの歌]]を作った。時代に書れた[[ジェフリー・オブ・モンマス|モンマスのジェフリー]]の'''[[ブリタニア列王史]]'''のような大量』をはじめ、数多くの詩や的な著作物もあった伝がこの時期に書かれている
 
南フランス[[オクシタン文学]]の生まれた地で、[[ミンネ|宮廷恋愛]]を歌った[[トルバドゥール]]として最も良く知らで有名な{{仮リンク|プロヴァンス文学|en|Occitan literature}}が生まているこれにはラテン文学やアと、イスム文化の影響を受けた[[スペン]]ベリア半島[[北アフリカ]]から構成要素を含んでが入っていた。後にその影響は西ヨーロッパのさまざまな文化、ポルトガル、ドイツの[[ミンネザング|ミネゼンガー]]、シチリア、イタリアにも及んだ。そしてそドルチェ・スティル・ヌオボ・ダ・流れで、イタリアでは[[ペトラルカ]][[ダンテ]]の[[清新体]]が生まれ、ダンテはこのの最も重要な詩'''である『[[神曲]]'''を書いたダンテが生まれた北イタリアの文化数個に拡大した。
 
===音楽===
428 ⟶ 415行目:
11世紀、[[グイード・ダレッツォ]]は初めて記譜法を発展させたうちの一人で、歌い手がグレゴリオ聖歌を覚え易くした。
 
グレゴリオの単旋律聖歌がポリフォニーになったのは、12世紀から13世紀であり、フランスの[[ノートルダム楽派]]([[レオニヌス]]や[[ペロティヌス]])の作品に現れた。後に'''[[アルス・ノーヴァ]]'''([[フィリップ・ド・ヴィトリ]]や[[ギヨーム・ド・マショー]])や中世後期の音楽分野に進化した。12世紀の重要な作曲家は、[[尼|尼僧修道女]]の[[ヒルデガルト・フォン・ビンゲン]]であった。
 
最も重要な世俗運動は、[[トルバドゥール]]の運動で、11世紀後半に[[オクシタニア]](現在の南フランス)で興隆した。トルバドゥールはあらゆる社会階層の出身である[[イティネラント]]であることが珍しくなく、様々な話題に関する歌(特に[[ミンネ]])を書いた。その形態は北フランスの[[トルヴェール]]や[[ドイツ]]の[[ミンネザング]]、北イタリアの世俗の[[トレチェント音楽]]の作曲家に影響を与えた。
435 ⟶ 422行目:
{{main|中世西洋演劇}}
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
==関連項目==
445 ⟶ 433行目:
* [[中世]]
 
== 外部リンク ==
==参照==
;一般
*John H. Mundy, ''Europe in the High Middle Ages, 1150-1309'' Harlow, England, Longman (2000) ISBN 0-582-36987-8
*[http://campus.northpark.edu/history/WebChron/WestCiv/MedievalMusic.Chron.html Music of the Middle Ages: 475-1500]
*[http://www.infoplease.com/ce6/history/A0859627.html Middle Ages: The High Middle Ages on Columbia Electronic Encyclopedia at infoplease]
*[http://www.infoplease.com/ce6/ent/A0840334.html Provençal literature on Columbia Electronic Encyclopedia at infoplease]
;引用
{{Reflist}}
 
{{Middle Ages}}
{{History of Europe}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ちゆうせいせいき}}
[[Category:ヨーロッパ史]]
[[Category:中世ヨーロッパ|*2]]
<!--[[Category:High Middle Ages|*]]
[[Category:Post-medieval constructs about the Middle Ages]]-->
 
{{Link FA|no}}
 
[[ar:عصور وسطى متوسطة]]
[[bg:Развито Средновековие]]
[[ca:Plena edat mitjana]]
[[cs:Vrcholný středověk]]
[[da:Højmiddelalder]]
[[de:Hochmittelalter]]
[[en:High Middle Ages]]
[[es:Plenitud de la Edad Media]]
[[et:Kõrgkeskaeg]]
[[eu:Erdi Aro Klasikoa]]
[[fr:Moyen Âge central]]
[[gl:Alta Idade Media]]
[[he:שיא ימי הביניים]]
[[id:Abad Pertengahan Tinggi]]
[[is:Hámiðaldir]]
[[it:Pieno Medioevo]]
[[mk:Развиен среден век]]
[[nl:Hoge middeleeuwen]]
[[nn:Høgmellomalderen]]
[[no:Høymiddelalderen]]
[[pt:Idade Média Plena]]
[[ru:Высокое Средневековье]]
[[sk:Vrcholný stredovek]]
[[sv:Högmedeltiden]]
[[uk:Високе Середньовіччя]]
[[vi:Trung kỳ Trung cổ]]
[[zh:中世紀中期]]