「識」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
(5人の利用者による、間の14版が非表示) | |||
1行目:
{{出典の明記|date=2015年12月5日 (土) 08:35 (UTC)}}
{{see Wiktionary}}
{{Infobox Buddhist term
|title=識, ヴィニャーナ
| image = [[File:Facevase.png|100px]]
| caption= [[ルビンの壺]]。画像は認知作用により「壺」とも「顔面」とも識別される。
|pi=विञ्ञाण (viññāṇa)
|sa=विज्ञान (vijñāna)
18 ⟶ 21行目:
|si=[[:si:විඥානය|විඥ්ඥාන]]
}}
'''識'''
この語は、vi(分析・分割)+
しかし、[[大乗仏教]]全般で言うならば、分析的に認識する「識」ではなく、[[観法]]によるより直接的な認識である[[般若]](はんにゃ、プラジュニャー(
== パーリ仏典において ==
パーリ[[経蔵 (パーリ)|経蔵]]においては、識は少なくとも3種の意味合いで登場する。
:(1) 感覚器としての [[処]](''āyatana'')の派生として。 経験的に網羅される 全(''sabba'') の一部である。
:(2) [[苦 (仏教)|苦]]につながる[[五蘊|五蘊取]]の一つとして。
:(3) [[縁起]]を構成する[[十二因縁]]のひとつとして。業(kamma)の発見と再生について示される<ref name=PED/>。
パーリ経典[[アビダルマ]]および後世の注釈書では、識は89種の状態が存在し、それぞれ別種の業の結果をもたらすという。
=== 感覚器としての識 ===
仏教では[[処|六入]](巴: ''{{IAST|saḷāyatana}}''; 梵: ''{{IAST|ṣaḍāyatana}}'')として6つの感覚器を指し、目、耳、鼻、舌、体、心が挙げられる([[六根]])。それぞれ客観的には視覚、音、匂い、味覚、触覚、精神をつかさどる([[六境]])。それらは[[パッサ|触]](パッサ)につながり、[[受]]を経て、最終的には渇愛([[タンハー]])につながる<ref>パーリ仏典[[中部 (パーリ)|中部]][[六六経]]</ref>。
{{六六経|float=left}}
{{Quote|
何であれ、苦が生起するなら、その一切は識(viññāṇa)という[[縁起|縁]]から生起する。識が滅するならば、苦の生起は存在しない。<br>
「苦は識という縁から生起する」との危険性を知る比丘は、識が寂止するがゆえに無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
| [[スッタニパータ]] 第3章11経,734-735}}
{{-}}
=== 五蘊の識 ===
{{五蘊|float=
人間の構成要素を[[五蘊]](ごうん)と分析する際には、'''識蘊'''(しきうん, vijñāna skandha)としてその一つに数えられる<ref>{{SLTP|[[相応部]][[蘊相応]] 7. Khajjanīya suttaṃ}}</ref>。この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいい、[[六根]](眼・耳・鼻・舌・身・意)によって、[[六境]](色・声・香・味・触・法)を認識する働きを総称する<ref>頼富本宏他「図解雑学 般若心経」ナツメ社 2003年 P76</ref>。事物を了知・識別する人間の意識に属する。例えば、桜を見てそれが「桜」だと認識すること<ref>頼富本宏他「図解雑学 般若心経」ナツメ社 2003年 P90</ref>。
{{Quote|
Kiñca bhikkhave, viññāṇaṃ vadetha: vijānātīti kho bhikkhave, tasmā viññāṇanti vuccati. Kiñca vijānāti: ambilampi vijānāti, tittakampi vijānāti, kaṭukampi vijānāti, madhurakampi 3- vijānāti, khārikampi vijānāti, akhārikampi vijānāti,loṇikampi vijānāti, aloṇikampi vijānāti. Vijānātīti kho bhikkhave, tasmā viññāṇanti vuccati.
比丘たちよ、なぜそれを識(viññāṇaṃ)と呼ぶのか? 比丘たちよ、認識するから識と言うのである。では、何を認識するのか? <br>
酸味を認識し、苦さを認識し、辛さを認識し、甘さを認識し、アルカリ味を認識し、アルカリ味のなさを認識し、塩辛さを認識し、塩気のなさを認識する。比丘たちよ、これらを認識するから識と呼ばれている。
| {{SLTP|[[相応部]][[蘊相応]] 7. Khajjanīya suttaṃ}} }}
また古い経典には、識住(vijñānasthiti)と言われて、「色受想行」の四識住が識の働くよりどころであるとする。この場合、分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は展開しているとする。
しかしながらいずれも、人間は「五蘊仮和合」といわれるように、物質的肉体的なものと精神的なものが、仮に和合し結合して形成されたものだと考えられており、固定的に人間という存在がある、とは考えられていない。
{{-}}
=== 十二因縁の識 ===
{{十二因縁|float=right}}
[[十二因縁]]では、[[無明]]・[[
{{Quote|
Yañca bhikkhave, ceteti yañca pakappeti, yañca anuseti, ārammaṇametaṃ hoti viññāṇassa ṭhitiyā.<br>
Ārammaṇe sati patiṭṭhā viññāṇassa hoti. Tasmiṃ patiṭṭhite viññāṇe virūḷhe āyatiṃ punabbhavābhinibbatti hoti. <br>
Āyatiṃ punabbhavābhinibbattiyā sati āyatiṃ jāti jarāmaraṇaṃ sokaparidevadukkhadomanassupāyāsā sambhavanti. Evametassa kevalassa
比丘たちよ、人が意図するもの(ceteti)、計画するもの(pakappeti)、人が向かう傾向のあるもの(anuseti)、これらは識(viññāṇassa)を維持する基礎となる。<br>
基礎があるとき、識を確立するための足場となる。識が確立され成長したとき、未来に[[有|再生]](punabbhavā; 有)の生起がある。<br>
未来の再生の生起があるとき、未来の[[生 (仏教)|生]](jati)、老死、悲しみ、嘆き、痛み、苦悩が生まれる。<br>
これが全ての苦の起源である。
| {{SLTP|[[相応部]][[因縁相応]] 8.Cetanāsuttaṃ}} }}
{{-}}
=== アビダルマでの識 ===
おおよそ、我々が心という意味とほぼ同義である。[[心 (仏教)|心]](citta)、意(mano)、識と区分して呼ばれたとしても、それぞれ働きとしては別であっても、総括的には心と呼んで差し支えない。心意識として別々の働きがあるが、心の作用の区別に過ぎないと考える。
アビダルマ([[阿毘達磨]]、abhidharma)では、五位の中で[[心 (仏教)|心]](しん、心として働く主体)と心所(しんじょ、心の働く作用)と区分するときには、識は心(心王)にあたる。
識には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つあり、別のものであるようだが、識としての物柄(体)は一つであるとする。六識はそれぞれ色・声・香・味・触・法と別の対象をとるから、別々の認識であり、境(きょう、外界の対象)を写し取るようなものと考える。
{{-}}
ほとんどの仏教の宗派は、それぞれの[[処]](āyatana)に一つずつ、合わせて'''六識'''として挙げているが、一部の宗派はさらなる識を挙げている。
=== 六識 ===
{{Quote|
Katamañca bhikkhave viññāṇaṃ? Chayime bhikkhave, viññāṇakāyā: <br>
cakkhuviññāṇaṃ sotaviññāṇaṃ ghāṇaviññāṇaṃ jivhāviññāṇaṃ kāyaviññāṇaṃ manoviññāṇaṃ. Idaṃ vuccati bhikkhave, viññāṇaṃ.
比丘たちよ、いかなるものが識であるか。比丘たちよ、これら六つの識身がある。<br>
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。比丘たちよ、これらが識である。
| {{SLTP|[[相応部]]22 取転経}} }}
パーリ仏典では、以下6つの識が挙げられている。
# 眼識(cakkhu-vijñāna)
# 耳識(sota-vijñāna)
# 鼻識(ghāṇa-vijñāna)
# 舌識(jivhā-vijñāna)
# 身識(kāya-vijñāna)
# [[意識 (仏教)|意識]](mamo-vijnana)
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識を'''五識'''(ごしき)<ref>{{kotobank|五識|2=デジタル大辞泉}}</ref>もしくは'''前五識'''(ぜんごしき)とよび、それに対して意識を'''第六識'''とよぶ{{sfn|櫻部・上山|2006|p=108}}。
前五識は現在の対象に向かってしかはたらかず、過去や未来の対象にははたらかない{{sfn|櫻部・上山|2006|p=108}}。それに対して意識は過去・現在・未来の対象に向かってはたらく{{sfn|櫻部・上山|2006|p=108}}。すなわち過去を追憶し、未来を予想することができる{{sfn|櫻部・上山|2006|p=108}}。
前五識の対象は、眼識ならば[[色 (仏教)|色]]、耳識ならば{{linktext|声}}、に限られるが、意識の対象は(狭義の)[[法 (仏教)|法]]のみならず、すべての[[法 (仏教)|法]](ダルマ)にわたる{{sfn|櫻部・上山|2006|p=108}}。なお、意識は前五識を統括するものではない{{sfn|櫻部・上山|2006|p=108}}。
=== 八識 ===
{{Main|八識}}
[[瑜伽行唯識学派]]では六識に加え、さらに2つを追加している。
# [[末那識]] (まなしき、manas-vijñāna)
# [[阿頼耶識]] (あらやしき、ālaya-vijñāna)
[[心]](citta)は[[阿頼耶識]]、意(manas)は[[末那識]]、識(vijnana))は眼耳鼻舌身意の六識を表す。[[説一切有部]]とは異なり、唯識派では識の認識する対象は自識の中にあると考える。したがって、識には、認識するものと認識されるものの二つが内在しているとする。しかも、この八識は識体が別であり、同時に働くことが出来るとする。
ことに、「識」とされる前六識は、事物に対して、もしくは存在として認識される対象として、認識するものとされるものとの関係において、認識作用を行うというのである。
===
大乗仏教ではさらに以下を加え、九識としている。
# [[阿摩羅識]](あまらしき、amala-vijñāna)
== 密教の識 ==
密教の場合は、すべてのものの存在に遍在しているものとして、純粋意識のように捉えられた。
73 ⟶ 136行目:
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author1=櫻部建|authorlink1=櫻部建|author2=上山春平|authorlink2=上山春平 |year=2006 |title=存在の分析<[[阿毘達磨 |アビダルマ]]>―仏教の思想〈2〉 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川ソフィア文庫]] |isbn=4-04-198502-1 |ref={{SfnRef|櫻部・上山|2006}} }}(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)
==関連項目==
{{唯識}}
|