削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
(20人の利用者による、間の39版が非表示)
13行目:
| 主君 = [[伊達輝宗]]、[[伊達政宗|政宗]]→[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]
| 藩 =
| 氏族 = [[伊達氏]]→[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]→伊達氏
| 父母 = 父:[[伊達晴宗]]、母:[[岩城重隆 (戦国武将)|岩城重隆]]の娘・[[久保姫]]
| 兄弟 = [[岩城親隆]]、[[伊達輝宗]]、[[留守政景]]、[[石川昭光]]、<br/>'''盛重'''、[[杉目直宗]]
| 妻 =
| 子 = 実永、馬場重吉、[[古内重広]]、馬場重吉[[古内実綱]]室<br/>養子:'''''[[伊達宣宗|宣宗]]''''' ''([[佐竹義久]]の子)''
| 特記事項 =
}}
 
'''国分 盛重'''(こくぶん もりしげ)は、甥の[[伊達政宗]]に仕えた[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将である後に[[久保田藩]]重臣。秋田伊達氏初代。はじめ'''伊達政重'''といい、さらに[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]を継いで'''国分政重'''、ついで'''国分盛重'''と名を改め、最終的には'''伊達盛重'''と名乗った。[[通称]]は彦九郎、能登守、三河守
 
== 概要 ==
兄の[[伊達輝宗|輝宗]]の代のとき、[[天正]]5年([[1577年]])に[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]のもとに代官として遣わされ、後に国分氏を継いだ。国分氏は今の[[仙台市]]付近を治めた小大名([[国人|国衆]])で、これによって伊達氏に従属した。盛重は伊達氏の武将として活躍し、天正13年([[1585年]])に甥にあたる主君[[伊達政宗|政宗]]の下で[[人取橋の戦い]]に加わった。しかし、家中の反発を抑えきれず、天正15年([[1587年]])に政宗に討伐されかかった。盛重は政宗に謝罪して許されたが、国分氏の家臣は政宗直轄とされた。天正18年([[1590年]])から19年([[1591年]])の[[葛西大崎一揆]]鎮圧で、伊達政宗と[[蒲生氏郷]]が不和になったときに、氏郷の帰国の安全を保証する人質になった。盛重はその後も伊達氏一族の武将として重きをなしたが、[[慶長]]元年([[1596年]])に出奔して[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]のもとに走り、その家臣になった。慶長5年([[1600年]])に佐竹氏の転封に従って秋田に移り、[[横手城]]を与えられ、元和元年([[1615年]])に死んだ去した
 
== 生涯 ==
38行目:
国分氏の系図には、盛氏 = 盛重と続けるもの<ref>古内氏蔵「平姓国分氏系図」(『宮城県史』復刻版第1巻206頁)。</ref>と、盛氏 - 盛顕 = 盛重と続けるもの<ref>[[佐久間洞巌]]「平姓国分氏系図」(『宮城県史』復刻版第1巻205頁)。</ref>がある。後者は盛顕は盛氏の子で天正6年([[1578年]])卒とするから、盛顕の存命中に盛重が代官になり、翌年に盛顕が死んだということになる。子がないから盛重が入ったとする治家記録の話と食い違う。国分氏については他にも諸伝の間に矛盾が多いので、どちらが正しいか判定できず、どちらも間違っている可能性もある<ref>『宮城県史』復刻版第1巻393頁。『仙台市史』通史編2(古代中世)402頁。</ref>。
 
いずれにせよ、政重の国分氏入りはスムーズ順調なものではなく、家中の反発は強かったようである<ref>『宮城県史』復刻版第1巻393-394頁。紫桃正隆『みやぎの戦国時代』312-314頁。『仙台市史』通史編2(古代中世)402-403頁。</ref>。
 
=== 戦国大名伊達氏の武将 ===
47行目:
国分政重は、天正13年([[1585年]])11月17日の[[人取橋の戦い]]に参加し、主力の一部として政宗の本陣がある観音堂山の麓に展開し、攻め寄せてきた佐竹・蘆名連合軍と戦った<ref>『貞山公治家記録』巻之一、天正13年11月17日条(平重道編『伊達治家記録』第1巻302-303頁)</ref>。
 
=== 家中の反発 ===
一方で、政重は家中の反発を抑えきれず、天正15年([[1587年]])に堀江伊勢が二度にわたって政重に反抗した。一度目は沈静化したが、再度の紛争では伊達政宗は堀江の側に立って盛重を討伐しようとした。そのため盛重は急遽政宗がいる[[米沢城]]に赴いて謝罪し、処罰を免れた。これ以後、政宗は国分氏の家臣は政宗直轄とされ、「国分衆」と呼ばれるようになった<ref>『仙台市史』通史編2(古代中世)411頁。</ref>。
 
政重は家中の反発を抑えきれず、天正15年([[1587年]])に堀江長門守らが反抗の動きを見せた<ref name="#1">『仙台市史』通史編2(古代中世)402頁。</ref>。伊達政宗は4月25日に家臣の[[伊東重信]]を派遣し、意見聴取にあたらせた<ref>『貞山公治家記録』巻2、天正15年4月25日条、『伊達治家記録』1の327頁。</ref>。重信は5月8日に静謐になったことを報告した<ref>『貞山公治家記録』巻2、天正15年5月8日条。『伊達治家記録』1の329頁。</ref>。事態の収拾には留守政景の助力もあった<ref name="#1"/>。
 
だがそれでも不満はおさまらず、伊東重信が前回とあわせて3度、[[浜田景隆]]が1度、[[高野親兼]]と片倉紀伊の2人が1度、国分に遣わされた<ref>『貞山公治家記録』巻2、天正15年条に「国分から帰った」と記される。伊東肥前(重信)が5月22日、6月19日、8月4日(『伊達治家記録』1の330頁、332頁、335頁)。浜田景隆が6月20日(332頁)。高野親兼(親兼)と片倉紀伊が8月2日(335頁)。</ref>。
 
政宗は、国分の騒乱は政重の政治がよくないせいだと考え、国分を攻め滅ぼそうとした。[[小山田頼定]]に出兵の指揮をとるよう命じ、10月16日には[[岩沼市|岩沼]]に拠る[[泉田重光]]にも協力を命じた<ref>『貞山公治家記録』巻2、天正15年10月16日条、宛の書状。『伊達治家記録』1の341頁。</ref>。政重は国分から退き、米沢に参上して政宗に謝罪した。それでも国分家は静まらなかったが、国分攻めは取り止めになった<ref>『貞山公治家記録』巻2、天正15年10月16日条。『伊達治家記録』1の341頁。</ref>。政重は国分領に帰ることなく、これ以後国分氏の家臣は政宗直轄とされ、「国分衆」と呼ばれるようになった<ref>『仙台市史』通史編2(古代中世)411頁。</ref>。
 
政重は、天正14年([[1586年]])から天正16年([[1588年]])頃に、'''盛重'''と名を改めた<ref>紫桃正隆は、『伊達治家記録』の記事に出てくる名をたどって、天正15年([[1587年]])か16年([[1588年]])頃に改めたのではないかと推測する(『みやぎの戦国時代』315頁)。羽下徳彦は天正14年([[1587年]])に改めたとする(仙台市史』通史編2の411頁)。</ref>。
 
=== 豊臣政権下伊達氏の家臣 ===
天正18年([[1590年]])に[[豊臣秀吉]]が[[小田原城|小田原]]の[[後北条氏|北条氏]]を攻めるのを見て、政宗は秀吉に服従することを決めた。秀吉は[[奥州仕置]]によって[[伊達氏]]の新領土を削り、[[留守氏]]・[[陸奥石川氏]]らを取り潰したが、[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]は伊達氏の家臣であるとみなされたため、改易の対象とならなかった。
 
その年の終わりに[[葛西大崎一揆]]が起こった。政宗は直ちに出陣し、会津の領主[[蒲生氏郷]]もその後を追った。が、氏郷は行軍中に政宗が一揆を扇動したという情報に接し、警戒して旧大崎領の[[名生城]]を攻め取ってそこに立てこもった。一揆を鎮圧した政宗は、秀吉からかけられる嫌疑を晴らすためにまず氏郷と和解しようとした。氏郷は伊達領内の安全通行のために[[留守政景]]か[[伊達成実]]を人質に名生に出すよう要求した<ref>『貞山公治家記録』巻之十五、天正18年12月17日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻246頁)。</ref>。政宗は出陣中の両人のかわりに、国分盛重を遣わしたが、氏郷はこれに満足しなかった。結局政宗は[[伊達成実]]を呼び返した<ref>『貞山公治家記録』巻之十五、天正18年12月25日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻247頁)。</ref>。成実、盛重、仲裁役の[[浅野正勝]]<ref>浅野長吉([[浅野長政]])の家臣。</ref>の3人は翌年元日に名生城に入り、[[信夫郡]]大森まで蒲生氏郷に同行した<ref>『貞山公治家記録』巻之十六、天正19年正月元日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻251頁)。成実は大森で解放されたと伝えられるが、盛重の解放がこれと同時かは不明である。</ref>。
 
[[豊臣秀吉]]に弁明するため一時京都に上った政宗は、6月に米沢城からあらためて鎮圧軍を率いて発進した。このとき米沢城の留守に国分盛重と[[梁川宗清|伊達宗清]]が残された<ref>『貞山公治家記録』巻之十六、天正19年6月14日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻283頁)。</ref>。政宗は戦況や国替えの風聞についてたびたび書状をやって2人と連絡をとった<ref>『貞山公治家記録』巻之十六、天正19年6月25日条(平重道編『伊達治家記録』第2巻288頁)。巻之十七、天正19年7月7日条(293頁)、8月7日条(301頁)。</ref>。
 
この天正19年([[1591年]])、天正20年([[1592年]])頃に、国分盛重は伊達氏に復して'''伊達盛重'''と名乗ったらしい<ref>『仙台市史』通史編2(古代中世)411-412頁。</ref>。これが盛重の最終的な名乗りとなる。
64 ⟶ 70行目:
文禄4年([[1595年]])7月に[[豊臣秀次]]が切腹させられると、秀次と近かった伊達政宗は「謀反」への関与を疑われた。許された政宗は、8月24日に主だった家臣と連名で身の潔白と今後の忠誠を記した誓詞を出した。その中に伊達彦九郎盛重の名があり、他の親類衆と共に一般の家臣より先(5番目)に書かれている<ref>『宮城県史』復刻版第2巻34-35頁。</ref>。これらの出来事から、盛重個人は伊達氏一族の武将として重んじられていたことがわかる。
 
=== 佐竹氏への出奔と久保田藩親類衆としての晩年 ===
盛重は、慶長元年([[1596年]])か慶長4年([[1599年]])に伊達家を出奔した<ref>『仙台市史』通史編2(古代中世)412頁。</ref>。原因動機は不明だが、処遇に不満を抱いた家臣の出奔はこの頃珍しいことではなく、伊達家からも他に[[遠藤宗信]][[伊達成実]]・[[鬼庭綱元|茂庭綱元]]らが出ている<ref>ただし、この三人は盛重と違いのちに伊達家に帰参している。</ref>
 
盛重は甥の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]<ref>義宣の母(宝寿院)は[[伊達晴宗]]と[[久保姫]]([[岩城重隆 (戦国武将)|岩城重隆]]の娘)の娘で盛重の姉。
盛重は[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]のもとに走り、その家臣になった(義宣の母は盛重の妹)。慶長5年([[1600年]])に佐竹氏の転封に従って秋田に移り、[[横手城]]を与えられて'''秋田伊達氏'''の祖となった。元和元年([[1615年]])7月15日、死去。享年63。養子の宣宗([[佐竹義久]]の子)が跡を継いだ。仙台藩に残留した男子のうち一人は、国分の旧家臣[[古内氏]]の養子となり、[[伊達忠宗]]の重臣となった[[古内重広]]である。
 
また、久保姫の母方の祖母が[[佐竹義舜]](第15代当主、義宣の高祖父)の娘であるため、盛重ら自身も佐竹の血を引いている。</ref>のもとに走り、その家臣になった。佐竹家中では[[侍大将]]として遇され一族の席を与えられ、[[島崎城]]を与えられた。この頃盛重は三河守を称した。
 
慶長5年([[1602年]])、佐竹氏の転封に従って[[常陸国]]から秋田に移り、1,000石と[[横手城]]を与えられて'''秋田伊達氏'''の祖となった。
 
慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣|大坂冬の陣]]に従軍し、[[今福の戦い]]で奮戦したとされる。翌年の夏の陣では病のために従軍しなかった。
 
元和元年([[1615年]])7月15日、死去。享年63。養子の[[伊達宣宗]]([[佐竹義久]]の子)が跡を継いだ。仙台藩に残留した男子のうち一人は、国分の旧家臣で盛重の娘の嫁ぎ先である[[古内氏]]の養子となった。[[伊達忠宗]]の重臣となった[[古内重広]]である<ref>このほか御落胤事件あり。 享保6年(1721年)、国分荘七北田の国分盛春(川村玄硯)という医者が、盛重と[[国分盛廉]]の娘の男児、盛廉の娘に仕えた女性が伊達政宗の妾となって生まれた落胤双方の血を引く(つまり政宗の孫で盛重の曽孫)と名乗り出て証拠となる物を提示し、仙台藩に相応の扶持を求めた。 藩は十数年の詮議の末、これを偽者と結論づけ、磔刑、親族らも遠島に処した。(『[[伊達治家記録]]』)</ref>。
 
== 脚注 ==
78 ⟶ 92行目:
*宮城県史編纂委員会『宮城県史』1(古代・中世史)、宮城県史刊行会、1957年。ぎょうせいより1987年に復刻版。
*仙台市史編纂委員会『仙台市史』通史編2(古代中世)、仙台市、2000年。
*紫桃正隆『みやぎの戦国時代  合戦と群雄』、宝文堂、1993年、ISBN 4-8323-0062-8。
*三浦賢童編『秋田武鑑 全』無明堂出版、1981年初版、原著者は「久保田家中分限帳」の著者則道。
*家臣人名事典編集会『三百藩家臣人名事典1』[[新人物往来社]]、1987年12月20日
 
== 関連項目作品 ==
*『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』(1987年[[NHK大河ドラマ]]、演:[[イッセー尾形]])
 
{{DEFAULTSORT:こくふん もりしけ}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:出羽陸奥領主]]
[[Category:仙台久保田]]
[[Category:国分氏 (陸奥国)|もりしけ]]
[[Category:秋田伊達家|もりしけ]]
[[Category:仙台藩]]
[[Category:出羽国の人物]]
[[Category:1553年生]]
[[Category:1615年没]]
 
[[en:Kokubu Morishige]]