「デビッド・ジョーンズ (パンアメリカン航空)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
→‎来日: 著作権上クリアでないものを積極的に紹介しているように受け取れるため除去
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 Androidアプリ編集
 
(25人の利用者による、間の39版が非表示)
1行目:
'''デビッド・ジョーンズ'''('''David(David Mifka Jones''', [[19161915年]]<!--[[7月11日]]--> - [[2005年]][[2月2日]](アメリカの現地時間))は、[[パンアメリカン航空|パンナム]](パン・アメリカン航空会社ナム)元極東地区広報担当支配人。日本では、[[大相撲]]の[[大相撲優勝力士一覧|幕内最高優勝]][[力士]]表彰の際の活躍で有名である広く知られた
 
== 人物・来歴 ==
[[1915年]]、軍人の父が駐留していた[[フィリピン]]で生まれ<ref name="doshin19910525">上ケ島精一「ざっくばらん ヒョーショージョー 30年務めた千秋楽表彰式から「引退」する デビッド・ジョーンズさん 相撲は日本文化 曙、貴花田に期待」『北海道新聞』1991年5月25日付夕刊2面。</ref><ref name="anai1981">阿奈井文彦「大相撲ヒョーショージョの20年 D・ジョーンズ」『文藝春秋』第59巻第11号、文藝春秋、1981年10月、175-176ページ。</ref>{{efn|父は外交官だったとする文献もある<ref name="asahi19740721"/>。}}、[[サンフランシスコ]]で育つ<ref name="asahi19740721">民「ひと 大相撲優勝トロフィーを贈りつづける ディビッド・ジョーンズ」『朝日新聞』昭和49年(1974年)7月21日付東京本社朝刊。</ref>。[[カリフォルニア大学バークレー校]]では経済学を専攻<ref name="anai1981"/><ref name="bunshun1975">「イーデス・ハンソン対談(92) <ゲスト>ディビッド・ジョーンズさん われこそは大相撲千秋楽の“ミスター・ヒョウ・ショウ・ジョウ” 」『週刊文春』第17巻第40号、文藝春秋、1975年10月、44-48ページ。</ref>、1938年に卒業後は<ref>「この人と5分間 パン・アメリカン航空顧問 デービッド・ジョーンズ氏 30年でよい区切り 日本の文化を理解」『日経産業新聞』1991年(平成3年)3月4日付34面。</ref>、教師や[[サンフランシスコ・クロニクル]]紙の記者<ref>『パン・アメリカン航空物語』260-261ページ。</ref> などの職を経た。この時期に[[日系人の強制収容]]を目撃したことが、日本とのつながりの原点となった<ref name="asahi19740721"/>。
[[1961年]]5月場所(優勝者は[[佐田の山晋松|佐田の山]])から[[1991年]]5月場所(優勝者は[[旭富士正也|旭富士]])まで、[[大相撲]][[本場所]]において優勝力士に対して送られるパンアメリカン航空賞を贈呈する役を担当。最初は洋服だったが2場所目より羽織袴で登場し、高らかに「ヒョー・ショー・ジョウ!」と読み上げただけで客席から拍手・喝采が上がった。各本場所の地域方言を使ったユニークな表彰状朗読(大阪(3月)場所では「アンタハンハ」、名古屋(7月)場所では「オミャーサンハ」、九州(11月)場所では「アンタハクサ」など)や、それに続くパンナム提供の巨大な[[地球]]をかたどった優勝トロフィーの贈呈は、相撲ファンに非常に喜ばれた。トロフィーの重さ(42kg)によろける姿さえユーモラスで(1973年、[[琴櫻傑將|琴櫻]]の表彰の時一度落としてしまい、[[北の湖敏満|北の湖]]にたしなめられた事もある。その後はトレーニングを積み、[[呼出]]のサポートを断り最後まで自分で持ち続けた)、長きに亘り千秋楽の表彰式に無くてはならない存在であった。観衆や視聴者の注目を集めていることが徐々に浸透し、[[日本放送協会|NHK]]の実況中継アナウンサーも、NHK金杯授与と彼の表彰中は黙して朗読の邪魔にならないよう配慮していた。また、彼の「ヒョー・ショー・ジョウ!」は[[チェコ]]国友好杯(当時の大部分の期間はチェコスロヴァキア)を授与するチェコ国大使をはじめ、[[サウジアラビア]]国大使など多くの各国大使も彼に倣い、千秋楽の魅力の一つとなった。
 
=== 来日 ===
ある意味、大相撲の人気に寄与した功労者であり、同時に日本におけるパンナムのイメージキャラクター的存在として親しまれた。映画「[[アルプスの若大将]]」ではパンナムのクルーを務めた澄子の上司役として出演したほか、劇中のテレビ番組でも「'''ヒョー・ショー・ジョウ!'''」のシーンが収められている(同作品はパンナムとの[[タイアップ]]作だった)。
1955年、ジョーンズはパンナムに入社し、同年10月に極東地域広報担当支配人として来日した<ref name="asahi199108">デビッド・ジョーンズ「「ヒョーショージョー」三十年 相撲を愛した私の「土俵人生」」『月刊Asahi』第3巻第9号、1991年8月、130-133ページ。</ref>。能や歌舞伎、雅楽といった日本の文化はジョーンズに強い印象を与えたが<ref>「大相撲の名物 パンナム倒産でも〝表彰状おじさん〟は不滅です」『週刊朝日』第3841号、1991年1月25日、168-169ページ。</ref>、中でもジョーンズが関心を持ったのは1956年1月場所で観戦した相撲であった。パンナムは1953年5月場所から幕内最高優勝力士に対して「パンアメリカン航空賞」を出す形で相撲と関わりを持っており、ジョーンズを観戦に連れて行った人物が表彰式での賞授与を担当していた。しかしこの前任者がパンナムを辞めて転職することになり、パンナム本社はこれを機に賞の中止を決めた。ジョーンズは中止に反対し、本社は最終的には賞の存続を認めたものの、存続を主張したジョーンズ自身が賞の授与を引き継がなければならなくなった<ref name="asahi199108"/>。
 
こうして1961年5月場所から、ジョーンズが賞の贈呈を担当することになった。この場所で優勝した[[佐田の山晋松|佐田の山]]に対する賞の授与に臨んだジョーンズは、観客が式に退屈している様子を見てとると、あえて大声で「ヒョー・ショー・ジョウ!」と読み上げ、注目を浴びた<ref name="asahi199108"/>。翌場所からは和装で登場<ref name="doshin19910525"/>、[[呼出]]の助けを借りず一人でトロフィーを持つなど<ref name="anai1981"/>、式への取り組みは本格化した。東京場所では(意図的だったであろうが)読み間違えたり、噛んだりして、大阪や名古屋、福岡で開催される場所では、現地の方言で表彰状を朗読した<ref>「異国に住めば ディビッド・ジョーンズさん 72 パンアメリカン航空顧問 相撲と共に伸びた日本」『読売家庭経済新聞』昭和62年(1987年)8月27日付5面。</ref>。
表彰式ではいかにも外国人然とした日本語で読み上げを行っていたが、実際の日常では非常に流暢な日本語を話した。反面、やはりお茶目な面はあったらしく、[[輪島大士|輪島]]の表彰の際に名前をど忘れし、「あんた誰だっけ?」とこっそり尋ねたというエピソードが残されている。またパンナム社内で再三栄転の話があったが、大相撲表彰式を続けたいために断り続けたと伝えられている。
 
ジョーンズの賞贈呈は千秋楽の注目行事となり、ジョーンズが土俵に上がると、外国人独特の抑揚を交えた表彰状の朗読を聞こうと、観客は静まりかえった。身長163cmと<ref name="asahi19740721"/>、アメリカ人としては小柄な体格のジョーンズが、42kgにもなる巨大なトロフィーを抱え上げると、観客からは「よいしょっ!」と声援が飛んだ。関心の高さに、特定企業の宣伝にならないよう原則企業名を出すことは控えていたNHKの中継放送でも、ジョーンズの登場場面は特別扱いで取り上げるようになり、パンナムの知名度も高まった<ref>『パン・アメリカン航空物語』255-256ページ。</ref>(ただしアナウンサーはジョーンズの紹介はするがパンナムの企業名を出すことはなかった)。
パンナムの経営難によって最後の贈呈となった[[1991年]]5月場所の「ヒョー・ショー・ジョウ!」のあと、土俵上で挨拶を行った。この挨拶は予定されていたものらしく、中継時にアナウンサーが「ご挨拶があります」と告げ、挨拶終了までそのまま放映した。
 
=== 広報活動 ===
それから約半年後の同年[[12月4日]]にパンナムが破産。この日の「[[NEWS23|筑紫哲也NEWS23]]」でこのニュースを報じた際に本当に最後の「ヒョー・ショー・ジョウ!」を披露していた。その表彰状の相手は長年勤務したパンナムだった。
ジョーンズの功績は相撲にとどまらなかった。能や歌舞伎、雅楽など日本の古典芸能の海外公演を実現し、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]誘致活動にも貢献した<ref>『パン・アメリカン航空物語』256ページ。</ref>。ジョーンズがTBSと共同で企画した紀行番組『[[兼高かおる世界の旅]]』は、パンナムの支店網を利用して集めた世界の最新情報を盛り込んだ内容で、日本人の海外旅行が一般的ではなかった時代に海外事情を紹介する役割を果たした<ref>『パン・アメリカン航空物語』254, 269-270ページ。</ref>。パンナムが協賛の形で参加したテレビ番組、映画は数多く、そうした作品の一つである映画『[[アルプスの若大将]]』では、パンナムのクルーを務めた[[星由里子]]演ずる岸澄子の上司役としてジョーンズも出演したほか、劇中のテレビ番組でも「ヒョー・ショー・ジョウ!」のシーンが収められている。<!--[[越路吹雪]]-->
 
=== パンナム退職 ===
[[毎日放送|MBS]]「[[世界まるごとHOWマッチ]]」の初期に解答者として出演していた。
その後もジョーンズの表彰式出席は続き、1972年7月場所でアメリカ出身の[[高見山大五郎|高見山]]が優勝した際には、役員会が開かれていた[[フランクフルト]]から会議を中座して日本に戻り、千秋楽前日から推移を見守った<ref name="asahi199108"/>。表彰式では[[ロバート・スティーヴン・インガーソル|インガーソル]]駐日大使が[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]大統領からの祝電を読み上げ、ジョーンズも高見山に「ヘイ、ジェシー」と呼びかけるなど<ref>「大相撲300年〝衝撃の一日〟 波紋投じたジェシー優勝」『日刊スポーツ』昭和47年7月17日付2面。</ref>、異例の進行となった。1973年1月場所、[[琴櫻傑將|琴櫻]]の表彰の際には、トロフィーを落としてしまい、本人も転倒した<ref>『朝日新聞』昭和48年(1973年)1月22日付東京本社朝刊19面。</ref>。この事件は笑いを取るためにわざと転倒したのではないかという噂も流れたが、ジョーンズはトロフィーの突起部が突き刺さりでもすればただでは済まない、として噂を否定している<ref name="asahi199108"/>。
 
1974年1月、パンナムを退職し、海外企業の日本での代理業務を行う会社で常務職に就いたが、パンナムにも顧問の立場で残り、賞授与は続いた<ref name="nikkeiss19850425">「この人と5分間 マーケティング・サービス・インターナショナル常務(パンナム顧問) D・M・ジョーンズ氏」『日経産業新聞』昭和60年(1985年)4月25日付28面。</ref>{{efn|この退職は定年によるものだとされるが、本社への栄転を断って退社したとする報道もある<ref name="asahi20050314"/>。}}。この年、[[輪島大士|輪島]]の表彰の際に名前を忘れ、輪島本人にこっそり尋ねたというエピソードが残されている<ref name="bunshun1975"/>{{efn|輪島に対する賞授与については「初優勝の際に名前が読めなかった」<ref name="asahi19911103"/>「名前を忘れて詰まっていると、呼出が気付いて教えてくれた」など、細部が異なる複数の話が伝わっている。}}。
[[1991年]]、[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]を受章。
 
1981年にはジョーンズの表彰式出席は20年目を迎えた。この年、[[兼高かおる]]、[[藤島泰輔]]らが世話人となり、ジョーンズを表彰する会が催され、400人が集まった<ref>『パン・アメリカン航空物語』256, 259ページ。</ref>。
翌[[1992年]]、[[アメリカ合衆国]]に帰国していた。2005年2月2日、[[心不全]]のため[[ネブラスカ州]]オマハで死去、89歳。
 
また1982年前期にNHKの[[連続テレビ小説|朝の連続テレビ小説]]で放送された[[ハイカラさん]]に、ミートマン・ペーター役で出演している。
{{DEFAULTSORT:しよんす てひつと}}
 
[[Category:アメリカ合衆国の人物]]
=== 引退 ===
[[Category:アメリカ合衆国の航空|人]]
しかしパンナムの業績は悪化の一途をたどり、1985年には太平洋路線を[[ユナイテッド航空]]に売却、日本から撤退することが決まった。ジョーンズは賞も中断するものと考えていたが<ref name="nikkeiss19850425"/>、1985年11月、ジョーンズが[[園遊会]]に招かれた際に[[昭和天皇]]が賞に言及<ref name="nikkan19910527"/><ref>『パン・アメリカン航空物語』256-257ページ。</ref>、この発言も一因となり、賞は継続されることになった<ref name="asahi20050314"/><ref>「青鉛筆」『朝日新聞』1986年(昭和61年)2月1日付東京朝刊23面。</ref>。
[[Category:大相撲]]
 
[[category:相撲に関する人物]]
数度の中断の危機を乗り越えながら続けられてきた千秋楽の表彰であったが、ジョーンズも初土俵から30年が経過すると体力の限界を感じるようになり、1991年、ジョーンズは引退の意向を相撲協会に伝えた<ref>「ジョーンズさん 夏場所で引退へ 丸30年にヒョーショージョー!」『日刊スポーツ』平成3年(1991年)2月20日付5面。</ref>。引退表明後、大阪で開催された3月場所では表彰状朗読後「みなさん、おおきに、さいなら」と方言で挨拶<ref>『読売新聞』1991年3月25日付大阪本社朝刊30面。</ref>、最後の贈呈となった5月場所でも、[[旭富士正也|旭富士]]への表彰の後、土俵上から観衆に別れを告げた<ref name="nikkan19910527">『日刊スポーツ』1991年5月27日付21面。</ref><ref>「それぞれの「千秋楽」 「ヒョーショージョウ」30年 パンナム杯・ジョーンズさん「最後の土俵」」『読売新聞』1991年(平成3年)5月27日付東京本社朝刊30面。</ref>。6月には「ねぎらう会」が開かれ、[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]理事長からジョーンズに純金製の感謝状が贈られた<ref>「ジョーンズさん囲む会 さよならヒョーショージョー」『日刊スポーツ』平成3年(1991年)6月13日付23面。</ref><ref>「30年の『ヒョーショージョー』に感謝状 ジョーンズさん慰労会」『中日新聞』1991年(平成3年)6月13日付朝刊26面。</ref>。また11月には伝統文化の振興と海外交流に貢献したとして、[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]が授与された<ref name="asahi19911103">「秋の叙勲 自分貫き、今輝く人生 デービッド・M・ジョーンズさん 「スモウ」の国を愛す」『朝日新聞』1991年(平成3年)11月3日付東京朝刊30面。</ref>。
[[Category:1916年生]]
 
それから約半年後の同年[[12月4日]]にパンナム破産した。この日の[[筑紫哲也 NEWS23|筑紫哲也NEWS23]]でこのニュースを報じた際に本当に最後の「ヒョー・ショー・ジョウ!」を披露していた。その表彰状の相手は長年勤務したパンナムだった。
 
引退後も日本に住み続ける意向を示していたジョーンズであったが<ref name="asahi19911103"/><ref name="nikkan19910527"/>、1992年3月に脳梗塞で倒れ<ref>「ジョーンズさん順調に回復」『日刊スポーツ』1992年4月22日付5面。</ref>、アメリカに帰国した。2005年2月2日、[[心不全]]のため[[ネブラスカ州]][[オマハ (ネブラスカ州)|オマハ]]で死去した。89歳であった<ref>{{cite news|first = Betsie |last = Freeman |title = David Jones, 89; sumo announcer |newspaper = Omaha World-Herald |location = Omaha |date = 2005-02-10 |page = 04B}}</ref><ref name="asahi20050314">大野宏「惜別 <small>元</small>パンアメリカン航空極東地区広報担当支配人 デビッド・ジョーンズさん 栄転断り 表彰続けた30年」『朝日新聞』2005年(平成17年)3月14日付東京本社夕刊10面</ref>。
 
== 参考文献 ==
*帆足孝治『パン・アメリカン航空物語―栄光の航空王国を支えた日本人たちの記録―』イカロス出版、2010年。ISBN 978-4-86320-382-2。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
 
{{DEFAULTSORT:しよんす てひつと}}
[[Category:サンフランシスコ出身の人物]]
[[Category:アメリカ合衆国の人物航空]]
[[categoryCategory:相撲に関する人物]]
[[Category:カリフォルニア大学バークレー校出身の人物]]
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]
[[Category:在日アメリカ合衆国の航空|人]]
[[Category:大相撲1915年生]]
[[Category:2005年没]]
 
__目次強制__