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| 出場チーム数 = 24
| 連盟数 = 6
| 開催地数 = 14 17
| 都市数 = 14
| 優勝チーム = {{ITAf}}
| 優勝回数 = 3
| 準優勝チーム = {{FRGf}}
| 3位チーム = {{POLf}}
23行目:
| 次回大会 = 1986 FIFAワールドカップ
}}
'''1982 FIFAワールドカップ'''({{lang-en-short|1982 FIFA World Cup}})は、[[1982年]][[6月13日]]から[[1982年]][[7月11日]]にかけて[[スペイン]]で開催された12回目の[[FIFAワールドカップ]]である。芸術の国にふさわしく、大会ポスターは[[パブロ・ピカソ]]と並ぶ巨匠である[[ジョアン・ミロ]]が作成し、開会式はミロの絵をピッチに人文字で描くというものであった。この大会から初めて[[国際サッカー連盟|国際サッカー連盟(FIFA)]]がワールドカップ本大会全24出場国に1次リーグ毎に計100万[[スイス・フラン]](当時約1億2083万3千円)ずつ、総額4200万スイスフラン(当時約50億7498万6千円)の賞金を支給した<ref name="1982-2014prize">[https://web.archive.org/web/20180704121653/https://resources.fifa.com/mm/document/fifafacts/mencompwc/51/97/64/2014fwc_kit_off_the_pitch_neutral.pdf 2014 FIFAワールドカップ statistical kit-FIFA公式HP、2014年5月20日]</ref>。FIFA本部が[[スイス]][[チューリッヒ]]にあるため、スイスフラン建てで賞金を支払った<ref name="2009-9-15">週刊サッカーマガジンNO.1256 2009年9月15日号</ref>。以降、賞金は[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツW杯大会]]までスイスフラン建てで支払った。得点王は、6ゴールを挙げた[[イタリア]]の[[パオロ・ロッシ]]が受賞した。
 
== 予選 ==
117行目:
|rowspan="4"|1+3
|colspan="3"|'''前回優勝国'''
|align="left"|{{ARG1812fARGf}}
|3大会連続8回目
|
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[[サッカーイングランド代表|イングランド]]は3大会ぶりの出場となった。1次リーグ・グループ4では[[ブライアン・ロブソン]]やトレバー・フランシスといった若手選手の活躍もあって全勝。2次リーグでも2試合を無失点に抑えながら、無得点に終わったため勝利を得ることが出来ず、西ドイツの後塵を拝して無敗のまま準決勝進出を逃した。エースの[[ケビン・キーガン]]を初戦の負傷で欠いたことが最後まで響く形となった。
 
1次リーグ・グループ2の西ドイツ対[[サッカーオーストリア代表|オーストリア]]戦では[[談合試合]]が行われ、物議を醸した。[[サッカーアルジェリア代表|アルジェリア]]に第1戦で敗れている西ドイツは欧州予選同組で2勝しているオーストリアに勝利することが突破への必要十分条件であったが、西ドイツの勝利が2点差以内ならば両チーム揃って得失点差でアルジェリアを上回り、次のラウンドに進めることが分かっていた。アルジェリアは既に前日で最後の試合を終えており、次のラウンドの進出に影響を与えることは出来なかった。西ドイツは試合開始早々に1点を決め、その後両チームは[[ロングボール]]の応酬を行い、結果的に得失点差でアルジェリアが敗退した。この試合は開催地となった地名から「ヒホンの恥」と呼ばれている。アルジェリアは談合試合ではないかとFIFAに提訴したが、認められなかった{{Sfn|W伝説1_80|2010|p=97}}。前回大会の2次リーグ・グループB最終戦アルゼンチン対ペルーで起こった八百長疑惑に加え今回の件が重なったことでFIFAは危機感を強め、以後のワールドカップでは[[グループリーグ]]突破の可能性の有無にかかわらず、同一組の最終戦は同時刻・別会場で開催されることになった。
 
1次リーグ・グループ3では[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]が[[サッカーエルサルバドル代表|エルサルバドル]]に10対1という大差で圧勝した。'''この試合でハンガリーが挙げた10得点は、「チーム1試合最多得点」として20182023年時点においても破られていない。'''だが、ハンガリーはアルゼンチンに完敗を喫した上にベルギーに土壇場で同点に追いつかれドローに終わり、1次リーグで敗退した。エルサルバドルは[[1970 FIFAワールドカップ|1970年大会]]に続き3連敗で大会を去った。
 
開催国の[[サッカースペイン代表|スペイン]]はチーム状態が整わず、地元贔屓のジャッジ([[ホームタウンディシジョン]])に助けられて1次リーグ・グループ5を2位で何とか突破したものの、最後まで精彩を欠き2次リーグで敗退。[[サッカー北アイルランド代表|北アイルランド]]は[[パット・ジェニングス]]の活躍もあってグループ5を首位で通過したが、強豪が集う2次リーグではフランスに大敗するなど6失点を喫して敗退した。
201行目:
アフリカ勢の[[サッカーアルジェリア代表|アルジェリア]]は初戦で西ドイツを2対1で破る金星を含む2勝1敗、[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]は3戦3引き分けながらGK[[トーマス・ヌコノ]]の好守により3試合をイタリア戦の1失点のみに抑え、ヨーロッパの強豪国を追い詰めた。この大会では前回優勝国のアルゼンチンを始め南米勢は全て2次リーグまでに姿を消し、ベスト4は全て欧州勢で独占された。
 
この大会のベストマッチの一つとして挙げられるのは、準決勝の西ドイツ対フランス戦である。西ドイツのGK[[ハラルト・シューマッハー]]が、シュートを放とうとしていたフランス代表の[[パトリック・バチストン]]と交錯、バチストンは気絶し負傷退場を余儀なくされた<ref>後に脊髄を折る重傷であったことが判明した。</ref>。このシーンではPK、カードの提示どころか反則さえも取られることなく、ゴールキックから再開された。しかし、これを除けばゲーム自体は好試合であり、1対1で迎えた延長戦で一時は3対1と離された西ドイツが3-3に追いつき、結果的に[[PK戦]]を5対4で制した西ドイツが決勝へ進出した。PK戦が導入された1978年大会<ref name="786746.html">{{citeCite web|和書 |url=https://www.soccer-king.jp/news/world/wc/20180630/786746.html |title=勝負の鍵を握るのは11メートルの戦い? W杯におけるPK戦のデータをおさらい |publisher=サッカーキング |date=2018-06-30 |accessdate=2018-09-20 }}</ref><ref>{{citeCite web|和書 |url=https://www.footballchannel.jp/2018/07/04/post279781/ |title=イングランド、W杯史上初のPK戦勝利。4度目の挑戦で負の歴史に終止符【ロシアW杯】 |publisher=フットボールチャンネル |date=2018-07-04 |accessdate=2018-09-20 }}</ref>ではPK戦の機会はなく、今大会の西ドイツが最初のPK戦勝利チームになった<ref name="786746.html" />が、決勝ではロッシらを擁するイタリアに敗れた。
 
イタリアはヨーロッパ地区予選でもユーゴスラビアに次ぐグループ2位での通過であった。大会が始まってからもロッシら攻撃陣が振るわず同代表史上初めて1次リーグを勝利なしで終え、3分で総得点数で辛うじてカメルーンを1点上回り2次リーグ進出という苦しい試合ぶりだった。2次リーグでは優勝候補ブラジル、前回優勝国アルゼンチンが同居するグループCに組み込まれたが、アルゼンチンを2-1で破り、ブラジル戦ではそれまで無得点のロッシがハットトリックの活躍で3-2と勝利を収め決勝トーナメントへ進出。準決勝でもロッシの2得点でポーランドを2-0と下し、決勝で西ドイツを相手にロッシの先制点を皮切りに3点差をつけ、終盤に1点を返されるが3-1で勝利し、3度目の優勝を勝ち取った。
211行目:
この大会では、「'''一度は認定された得点の取り消し'''」という事態が起きた。
 
6月21日に行われた1次リーグ・グループ4の[[サッカーフランス代表|フランス]]対[[サッカークウェート代表|クウェート]]戦、3対1でフランス優勢の状況にあった後半40分の出来事である。フランス選手[[アラン・ジレス]]の放ったシュートがクウェートのゴールネットを揺らし、[[:en:Myroslav Stupar|ストパール]]主審が一旦はゴールを宣言した。しかし、クウェート側から「プラティニのパス直後のタイミングでスタンドから笛の音が聞こえたので、それをオフサイドと勘違いしてプレーを止めた」という抗議がなされ、さらに、た。観戦中だったクウェートの[[シェイク・ファハド・アル=サバーハ|ファハド]]王子(当時)がメインスタンドから選手達にピッチからの引き上げを命ずるようなジェスチャーを送った。審判団と大会役員が選手の説得に試みるが収拾がつかず、さらに王子がピッチに乱入し何事かを審判に告げたところ、「不測の事態が起こった」という理由によって、フランスの得点は取り消され、3対1のままでの試合再開となったのである{{Sfn|W伝説1_80|2010|p=97}}。結局、試合そのものはフランスがその後に1点追加して4対1で大勝しており、この不可解な判定が試合結果やグループ4の最終順位に直接の影響を及ぼすことは無く、事なきを得たものの、試合・審判の公正を揺るがす出来事としてサッカー史に残ることになった。
 
当然ながらこの一件は問題視され、後日、[[ウクライナ人]]の[[:en:Myroslav Stupar|Myroslav Stupar]]ストパール主審が一時資格停止処分を受け、ファハド王子は警告処分を受け、クウェートサッカー協会に対してもペナルティは25,000[[スイスフラン]]の罰金が科せられた{{Sfn|W伝説1_80|2010|p=97}}。なお、後にこの問題の当事者であるファハド王子も[[クウェート侵攻]]の際に[[イラク軍]]によって[[射殺]]されており、当時ファハド王子が何を語ったのかは現在に至るまで明らかにされていないが、21世紀に至って[[ハンドボール]]など多くのスポーツで問題視される事になった、[[中東]][[産油国]]の莫大な[[オイルマネー]]が競技を統括する国際団体に流入することで発生する、国際スポーツにおける競技の公正確保・審判の権威維持にまつわる諸問題、いわゆる「[[中東の笛]]」にも繋がる問題の一つとされる<ref>なお、ファハド王子は[[2008年北京オリンピックにおけるハンドボール競技]]で無効とされたアジア予選を仕切っていた[[アジアハンドボール連盟]]会長であるアフマド王子の父であり、同連盟の初代会長でもある。</ref>。
 
=== 会場一覧 ===
284行目:
|収容人数: '''45,000人'''
|-
|[[File:San mames uefa.png|150px]]
|[[File:Estadio José Zorrilla desde Preferencia A.jpg|150px]]
|[[File:Mestalla1.jpg|150px]]
|[[File:La Romareda en día de partido.jpg|150px]]
|[[File:Estado de la Rosaleda (Málaga C.F.).jpg|150px]]
|-
!colspan="2"|[[セビージャ]]
!rowspan="4" colspan="3"|
|-
|[[エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアン|ラモン・サンチェス・ピスフアン]]
|[[エスタディオ・マヌエル・ルイス・デ・ロペーラ|ベニト・ビジャマリン]]
|-
304行目:
 
== 結果 ==
1982年当時における勝ち点の計算方法は、勝利の場合勝ち点2、引き分けの場合1であったため、以下この勝ち点を適用して結果を記す。
=== 1次リーグ ===
==== グループ 1 ====
319 ⟶ 320行目:
!点<br>差
|- bgcolor="#ccffcc"
|1||align="left"|{{POLf}} 
|'''4'''||3||1||2||0||5||1||+4
|- bgcolor="#ccffcc"
|2||align="left"|{{ITAf}} 
|'''3'''||3||0||3||0||2||2||0
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{CMRf}}  
|'''3'''||3||0||3||0||1||1||0
|- bgcolor="#cccccc"
|4||align="left"|{{PERf}}   
|'''2'''||3||0||2||1||2||6||-4
|}
432 ⟶ 433行目:
!点<br>差
|- bgcolor="#ccffcc"
|1||align="left"|{{FRGf}}  
|'''4'''||3||2||0||1||6||3||+3
|- bgcolor="#ccffcc"
|2||align="left"|{{AUTf}}  
|'''4'''||3||2||0||1||3||1||+2
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{ALGf}} 
|'''4'''||3||2||0||1||5||5||0
|- bgcolor="#cccccc"
|4||align="left"|{{CHIf}} 
|'''0'''||3||0||0||3||3||8||-5
|}
515 ⟶ 516行目:
}}
----
{{see also|ヒホンの恥}}
{{footballbox
|開催日 = [[1982年]][[6月25日]]
545 ⟶ 547行目:
!点<br>差
|- bgcolor="#ccffcc"
|1||align="left"|{{BELf}} 
|'''5'''||3||2||1||0||3||1||+2
|- bgcolor="#ccffcc"
|2||align="left"|{{ARG1812fARGf}} 
|'''4'''||3||2||0||1||6||2||+4
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{HUN1957f}} 
|'''3'''||3||1||1||1||12||6||+6
|- bgcolor="#cccccc"
561 ⟶ 563行目:
|開催日 = [[1982年]][[6月13日]]
|時間 = 20:00 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム1 = {{ARG1812f2ARGf2}}
|スコア = 0 - 1
|レポート = [https://web.archive.org/web/20100615211422/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D59/results/matches/match%3D749/report.html レポート]
579 ⟶ 581行目:
|レポート = [https://web.archive.org/web/20100615211424/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D59/results/matches/match%3D896/report.html レポート]
|チーム2 = {{SLVf}}
|得点者1 = [[ニラシ・ティボル|ニラシ]] {{goal|4||83}}<br />[[ペレシュケイ・ガーボル|ペレシュケイ]] {{goal|11}}<br />[[ファゼカシュ・ラースロー|ファゼカシュ]] {{goal|23||54}}<br />[[トート・ヨージェフ (1951年生のサッカー選手)|トート]] {{goal|50}}<br />[[キッシュ・ラースロー|キッシュ]] {{goal|69||72||76}}<br />[[センテシュ・ラーザール|センテシュ]] {{goal|72}}
|得点者2 = [[ルイス・ラミレス・サパタ|ラミレス]] {{goal|64}}
|競技場 = [[エスタディオ・マヌエル・マルティネス・バレーロ|ヌエボ・エスタディオ]]([[エルチェ]])
589 ⟶ 591行目:
|開催日 = [[1982年]][[6月18日]]
|時間 = 21:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム1 = {{ARG1812f2ARGf2}}
|スコア = 4 - 1
|レポート = [https://web.archive.org/web/20110829083147/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D59/results/matches/match%3D752/report.html レポート]
631 ⟶ 633行目:
|開催日 = [[1982年]][[6月23日]]
|時間 = 21:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム1 = {{ARG1812f2ARGf2}}
|スコア = 2 - 0
|レポート = [https://web.archive.org/web/20100615211433/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D59/results/matches/match%3D751/report.html レポート]
663 ⟶ 665行目:
|'''3'''||3||1||1||1||6||5||+1
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{TCHf}} 
|'''2'''||3||0||2||1||2||4||-2
|- bgcolor="#cccccc"
|4||align="left"|{{KUWf}} 
|'''1'''||3||0||1||2||2||6||-4
|}
707 ⟶ 709行目:
|得点者1 = [[トレバー・フランシス|フランシス]] {{goal|62}}<br />([[ヨージェフ・バルモシュ|バルモシュ]]) {{goal|66|OG}}
|得点者2 =
|競技場 = [[サン・マメス (1913年)|サン・マメス]]([[ビルバオ]])
|観客数 = 41,123人
|主審 = {{Flagicon|NED}} Charles Corver
769 ⟶ 771行目:
!点<br>差
|- bgcolor="#ccffcc"
|1||align="left"|{{NIRf}} 
|'''4'''||3||1||2||0||2||1||+1
|- bgcolor="#ccffcc"
|2||align="left"|{{ESPf}}
|'''3'''||3||1||1||1||3||3||0
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{YUGf}} 
|'''3'''||3||1||1||1||2||2||0
|- bgcolor="#cccccc"
882 ⟶ 884行目:
!点<br>差
|- bgcolor="#ccffcc"
|1||align="left"|{{BRA1968f}} 
|'''6'''||3||3||0||0||10||2||+8
|- bgcolor="#ccffcc"
|2||align="left"|{{URSf}} 
|'''3'''||3||1||1||1||6||4||+2
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{SCOf}} 
|'''3'''||3||1||1||1||8||8||0
|- bgcolor="#cccccc"
|4||align="left"|{{NZLf}}  
|'''0'''||3||0||0||3||2||12||-10
|}
916 ⟶ 918行目:
|レポート = [https://web.archive.org/web/20090629034155/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D59/results/matches/match%3D1051/report.html レポート]
|チーム2 = {{NZLf}}
|得点者1 = [[ケニー・ダルグリッシュ|ダルグリッシュ]] {{goal|18}}<br />[[ジョン・ウォーク|ウォーク]] {{goal|30||33}}<br />[[ジョン・ニールソン・ロバートソン|ロバートソン]] {{goal|73}}<br />[[スティーブ・アーチボルド|アーチボルド]] {{goal|79}}
|得点者2 = [[スティー・サムナー|サムナー]] {{goal|54}}<br />[[スティーブ・ウッディン|ウッディン]] {{goal|65}}
|競技場 = [[エスタディオ・ラ・ロサレダ|ラ・ロサレダ]]([[マラガ]])
|観客数 = 36,000人
1,009 ⟶ 1,011行目:
|開催日 = [[1982年]][[6月28日]]
|時間 = 21:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム12 = {{BELf2BELf}}
|スコア = 03 - 30
|レポート = [https://web.archive.org/web/20131216205216/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D59/results/matches/match%3D782/report.html レポート]
|チーム21 = {{POLfPOLf2}}
|得点者12 =
|得点者21 = [[ズビグニェフ・ボニエク|ボニエク]] {{goal|4||26||53}}
|競技場 = [[カンプ・ノウ]]([[バルセロナ]])
|観客数 = 65,000人
1,037 ⟶ 1,039行目:
|開催日 = [[1982年]][[7月4日]]
|時間 = 21:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム12 = {{URSf2URSf}}
|スコア = 0 - 0
|レポート = [http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=59/results/matches/match=1058/report.html レポート]
|チーム21 = {{POLfPOLf2}}
|得点者1 =
|得点者2 =
1,064 ⟶ 1,066行目:
!点<br>差
|- bgcolor="#ccffcc"
|1||align="left"|{{FRGf}}
|'''3'''||2||1||1||0||2||1||+1
|- bgcolor="#cccccc"
1,070 ⟶ 1,072行目:
|'''2'''||2||0||2||0||0||0||0
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{ESPf}}
|'''1'''||2||0||1||1||1||2||-1
|}
1,137 ⟶ 1,139行目:
|'''2'''||2||1||0||1||5||4||+1
|- bgcolor="#cccccc"
|3||align="left"|{{ARG1812fARGf}}
|'''0'''||2||0||0||2||2||5||-3
|}
1,144 ⟶ 1,146行目:
|開催日 = [[1982年]][[6月29日]]
|時間 = 17:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム12 = {{ARG1812f2ARGf}}
|スコア = 12 - 21
|レポート = [http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=59/results/matches/match=753/report.html レポート]
|チーム21 = {{ITAfITAf2}}
|得点者12 = [[ダニエル・パサレラ|パサレラ]] {{goal|83}}
|得点者21 = [[マルコ・タルデッリ|タルデッリ]] {{goal|55}}<br />[[アントニオ・カブリーニ|カブリーニ]] {{goal|67}}
|競技場 = [[エスタディ・デ・サリア|サリア]]([[バルセロナ]])
|観客数 = 43,000人
1,158 ⟶ 1,160行目:
|開催日 = [[1982年]][[7月2日]]
|時間 = 17:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム1 = {{ARG1812f2ARGf2}}
|スコア = 1 - 3
|レポート = [http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=59/results/matches/match=750/report.html レポート]
1,168 ⟶ 1,170行目:
|主審 = {{Flagicon|MEX}} Lamberto Rubio Vázquez
}}
----{{Main|イタリア VS ブラジル (1982 FIFAワールドカップ)}}{{footballbox
----
{{footballbox
|開催日 = [[1982年]][[7月5日]]
|時間 = 17:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム12 = {{BRA1968f2BRA1968f}}
|スコア = 23 - 32
|レポート = [https://web.archive.org/web/20071012182605/http://fifa.com/worldcup/archive/edition%3D59/results/matches/match%3D788/report.html レポート]
|チーム21 = {{ITAfITAf2}}
|得点者12 = [[ソクラテス (サッカー選手)|ソクラテス]] {{goal|12}}<br />[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]] {{goal|68}}
|得点者21 = [[パオロ・ロッシ|ロッシ]] {{goal|5||25||74}}
|競技場 = [[エスタディ・デ・サリア|サリア]]([[バルセロナ]])
|観客数 = 44,000人
1,230 ⟶ 1,231行目:
|チーム2 = {{NIRf}}
|得点者1 = [[ブルーノ・ペッツァイ|ペッツァイ]] {{goal|50}}<br />[[ラインホルト・ヒンターマイヤー|ヒンターマイヤー]] {{goal|68}}
|得点者2 = [[ビリー・ハミルトン (サッカー選手)|ハミルトン]] {{goal|27||75}}
|競技場 = [[エスタディオ・ビセンテ・カルデロン|ビセンテ・カルデロン]]([[マドリード]])
|観客数 = 20,000人
1,239 ⟶ 1,240行目:
|開催日 = [[1982年]][[7月4日]]
|時間 = 17:15 [[中央ヨーロッパ夏時間|CEST]]
|チーム12 = {{NIRf2NIRf}}
|スコア = 14 - 41
|レポート = [http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=59/results/matches/match=920/report.html レポート]
|チーム21 = {{FRAfFRAf2}}
|得点者12 = [[ジェリー・アームストロング|アームストロング]] {{goal|75}}
|得点者21 = [[アラン・ジレス|ジレス]] {{goal|33||80}}<br />[[ドミニク・ロシュトー|ロシュトー]] {{goal|46||68}}
|競技場 = [[エスタディオ・ビセンテ・カルデロン|ビセンテ・カルデロン]]([[マドリード]])
|観客数 = 37,000人
1,316 ⟶ 1,317行目:
 
==== 決勝 ====
{{Main|1982 FIFAワールドカップ・決勝}}
----
{{footballbox
1,330 ⟶ 1,332行目:
|主審 = {{Flagicon|BRA1968}} [[アルナウド・ダヴィド・セザル・コエリョ|アルナウド・セザル・コエリョ]]
}}
{| width=92%
|-
|{{Football kit
| pattern_la = _italy1982-90
| pattern_b = _ita82
| pattern_ra = _italy1982-90
| pattern_so = _italia_cm1994
| leftarm =
| body =
| rightarm =
| shorts = FFFFFF
| socks = 3120CC
| title = イタリア
}}
|{{Football kit
| pattern_la = _westgermany1980
| pattern_b = _westgermany1980
| pattern_ra = _westgermany1980
| leftarm = FFFFFF
| body = FFFFFF
| rightarm = FFFFFF
| shorts = 000000
| socks = FFFFFF
| title = 西ドイツ
}}
|}
{| width="100%"
|valign="top" width="40%"|
{| style="font-size:90%" cellspacing="0" cellpadding="0"
|-
!width=25| !!width=25|
|-
|GK ||'''1''' ||[[ディノ・ゾフ]] [[ファイル:Captain sports.svg|18px|captain]]
|-
|SW ||'''7''' ||[[ガエターノ・シレア]]
|-
|CB ||'''6''' ||[[クラウディオ・ジェンティーレ]]
|-
|CB ||'''5''' ||[[フルヴィオ・コッロヴァーティ]]
|-
|RB||'''3''' ||[[ジュゼッペ・ベルゴミ]]
|-
|LB||'''4''' ||[[アントニオ・カブリーニ]]
|-
|DM ||'''13'''||[[ガブリエーレ・オリアーリ]] || {{yel|73}}
|-
|CM ||'''14'''||[[マルコ・タルデッリ]]
|-
|RW ||'''16'''||[[ブルーノ・コンティ]] || {{yel|31}}
|-
|LW ||'''19'''||[[フランチェスコ・グラツィアーニ]] || || {{suboff|7}}
|-
|CF ||'''20'''||[[パオロ・ロッシ]]
|-
|colspan=3|'''控え選手:'''
|-
|GK ||'''12'''||[[イヴァノ・ボルドン]]
|-
|MF ||'''10'''||[[ジュゼッペ・ドッセーナ]]
|-
|MF ||'''11'''||[[ジャンピエロ・マリーニ]]
|-
|MF ||'''15'''||[[フランコ・カウジオ]] || || || {{subon|89}}
|-
|FW ||'''18'''||[[アレッサンドロ・アルトベッリ]] || || {{subon|7}} || {{suboff|89}}
|-
|colspan=3|'''監督:'''
|-
|colspan="4"|[[エンツォ・ベアルツォット]]
|}
|valign="top"|[[File:ITA-FRG 1982-07-11.svg|300px]]
|valign="top" width="50%"|
{| style="font-size:90%; margin:auto" cellspacing="0" cellpadding="0"
|-
!width=25| !!width=25|
|-
|GK ||'''1''' ||[[ハラルト・シューマッハー]]
|-
|SW ||'''15'''||[[ウリ・シュティーリケ]] || {{yel|73}}
|-
|CB ||'''4''' ||[[カールハインツ・フェルスター]]
|-
|CB ||'''5''' ||[[ベルント・フェルスター]]
|-
|RB||'''20'''||[[マンフレート・カルツ]]
|-
|LB||'''2''' ||[[ハンス=ペーター・ブリーゲル]]
|-
|CM ||'''6''' ||[[ヴォルフガング・ドレムラー]] || {{yel|61}} || {{suboff|62}}
|-
|CM ||'''3''' ||[[パウル・ブライトナー]]
|-
|RW ||'''11'''||[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]] [[ファイル:Captain sports.svg|18px|captain]] || || {{suboff|70}}
|-
|LW ||'''7''' ||[[ピエール・リトバルスキー]] || {{yel|88}}
|-
|CF ||'''8''' ||[[クラウス・フィッシャー]]
|-
|colspan=3|'''控え選手:'''
|-
|GK ||'''21''' ||[[ベルント・フランケ]]
|-
|DF ||'''12''' ||[[ヴィルフリート・ハンネス]]
|-
|MF ||'''10'''||[[ハンジ・ミュラー]] || || {{subon|70}}
|-
|MF ||'''14''' ||[[フェリックス・マガト]]
|-
|FW ||'''9''' ||[[ホルスト・ルベッシュ]] || || {{subon|62}}
|-
|colspan=3|'''監督:'''
|-
|colspan="4"|[[ユップ・デアヴァル]]
|}
|}
----
 
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!順位!!選手名!!国籍!!得点数
|-
|align="center"|1||[[パオロ・ロッシ]]||{{ITAf}}||align="center"|6 
|-
|align="center"|2||[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]||{{FRGf}}||align="center"|5
1,378 ⟶ 1,495行目:
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|date=2010-03-10|title=ワールドカップ伝説1 '80年代編 マラドーナの時代』(|publisher=[[ベースボール・マガジン社]])ISBN |isbn=978-4-583-61645-2|ref={{SfnRef|W伝説1_80|2010}}}}
 
== 外部リンク ==
* [httphttps://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=59spain1982/index.html 1982 FIFA World Cup Spain] - FIFA.com] {{en icon}}
* [http://www.rsssf.com/tables/82full.html RSSSFによる記録]
 
{{FIFAワールドカップ}}
 
{{Normdaten}}
[[Category:1982 FIFAワールドカップ|*]]