「メドウェイ川襲撃」の版間の差分

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| caption = オランダの襲撃を受けるイングランド艦
| date = [[1667年]][[6月9日]] - [[1667年]][[6月14日]]
| place = イングランド、[[チャタム (イングランド)|チャタム]]近郊
| coordinates = {{ウィキ座標2段度分秒Coord|51|22|51.4|N|0|31|19.6|E|region:GB|display=inline,title}}
| casus =
| map_type = England
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| units3 =
| casualties1 = 海兵約50、火船8隻<ref name=military/>
| casualties2 = 軍艦13隻消失<ref>[http://www.threedecks.org/index.php?display_type=show_battle&id=45 Raid on the Medway, 9th June 1667 - 14th June 1667]</ref><ref>[http://m.bdonline.co.uk/buildings/no-1-smithery-chatham-dockyard-by-van-heyningen-and-haward/5003446.article No 1 Smithery, Chatham Dockyard, by van Heyningen & Haward] {{webarchive|url=https://webcitation.org/628QIC5HD?url=http://m.bdonline.co.uk/buildings/no-1-smithery-chatham-dockyard-by-van-heyningen-and-haward/5003446.article |date=2011年10月2日 }}</ref> 、ユナイティ<ref>[httphttps://modernhistorian.blogspot.jpcom/2011/06/on-this-day-in-history-raid-on-medway.html The Modern Historian: On this day in history: Raid on the Medway, 1667]</ref> とロイヤルチャールズが拿捕<ref>Royal Charles stern piece, preserved at the Rijksmuseum in Amsterdam</ref>
| casualties3 =
| notes =
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==歴史的背景==
[[File:Johan de Witt - Caspar Netscher.jpg|thumb|120px|left|ヨハン・デ・ウィット]]
[[1666年]]の夏の終わり、イングランドは{{仮リンク|聖ジェイムズ日の海戦|en|St. James's Day Battle}}と、オランダの通商に壊滅的な被害を与えた[[ホームズの焚火]]の連勝で[[英仏海峡]]の制海権を握ったが、それも長くは続かなかった。[[1665年]]の{{仮リンク|腺ペストの大流行|en|Great Plague of London}}と[[ロンドン大火]]に伴う財政難のため、艦隊は東岸の{{仮リンク|メドウェイ川|en|River Medway}}に停泊した状態だった<ref name=history> [http://www.historyofwar.org/articles/battles_medway_1667.html  Dutch raid on the Medway, 19-24 June 1667]</ref>。
 
[[1667年]]、イングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は第二次英蘭戦争の終結を推し進めようとオランダとの交渉を開始したものの、条件をよくするため[[フランス王国|フランス]]からの援助を取り付けたがっており、和平[[条約]]に署名するのを遅らせていた上<ref name=military>[http://militaryhistory.about.com/od/navalbattles16001800/p/medway.htm Raid on Medway – Second Anglo-Dutch War Raid on Medway]
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==襲撃==
1667年、{{仮リンク|ウィレム・ヨゼフ・ファン・ゲント|en|Willem Joseph van Ghent}}の戦隊が[[スコットランド王国|スコットランド]]に攻め入ったがイングランドは無抵抗だった。これを好機と見たオランダは、まずヨハン・デ・ウィットが作戦を立て、この作戦の監督役に兄の[[コルネリス・デ・ウィット|コルネリス]]を任命し<ref name=military/>、[[6月4日]](グレゴリオ暦では19日から24日)<ref name=history/> に[[ミヒール・デ・ロイテル]]の艦隊が[[スヘルデ川]]河口のスクーネヴェルト泊地を出て[[テムズ川]]河口へ進み、2日後の[[6月6日|6日]]に増強部隊が加わり、軍艦64隻や火船15、将兵17,416の大艦隊となった<ref name=KB/>。チャールズ2世にも[[スパイ|諜報員]]からの警告があったが、国王は防御を強化するための努力をしなかった<ref name=military/>。
 
それでも[[6月8日|8日]]、チャールズ2世はオックスフォード伯[[オーブリー・ド・ヴィアー (第20代オックスフォード伯)|オーブリー・ド・ヴィアー]]([[:en:Aubrey de Vere, 20th Earl of Oxford|en]])に命令して[[民兵]]を動員させ、テムズ川に船で橋を架けるようにさせた<ref name=military/>。メドウェイ川の防御も貧弱で<ref name=history/>、9日早朝、ゲントの戦隊がメドウェイ川の{{仮リンク|シェアネス|en|Sheerness}}の砦を砲撃したため、アルベマール公[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]は<ref name=KB/>[[チャタム (イングランド)|チャタム]]に向かって<ref name=military/> 砲台を築き、ジリンガムの近くのメドウェイ川に[[閉塞船]]を沈めて、その上流に[[防]]を渡した<ref name=KB/>。ここでは30隻の[[ピンネース]]が火船を防ぐために待機していた<ref name=history/> が、停泊艦はほとんどが大砲を外していたため、戦闘に使えなかった<ref name=KB/>。[[6月12日|12日]]、オランダ艦隊はメドウェイ川に到着した。オランダの攻撃は9日に始まっていたのだが、テムズ川を上がるのに時間がかかっていた<ref name=history/>。
 
[[File:MedwayRaidMap.png|thumb|250px|left|襲撃の際のオランダ軍の進路を示す地図]]
 
オランダ艦隊は閉塞船をどけて航路を作り、ジリンガムに張られていた鎖を破壊し<ref name=military/>、火船で<ref name=history/> 戦列艦を焼き払い、ジリンガムから{{仮リンク|アプノア城|en|Upnor Castle}}を攻撃し、火船のうち1隻はイングランドの警備艦マティアスを破壊した<ref name=history/>。オランダ軍は[[ネイズビー (戦列艦)|ロイヤル・チャールズ]]を拿捕して、母国まで後ろ向きに曳かせた。このロイヤル・チャールズの艦尾の装飾が、[[アムステルダム]][[海事博物館]]に展示されている。またゲントはアガタ(ユナイティ){{refnest|group="注釈"|『図説 イングランドの歴史』ではアガタと記載されているが、当該艦は他の資料では{{仮リンク|ユナイティ|en|HMS Unity (1665)}}となっている。}}を拿捕して自らの[[旗艦]]とした<ref name=KB/>。
[[File:Royal Charles stern piece.jpg|thumb|150px|right|オランダに拿捕されたロイヤルチャールズの艦尾の飾り]]
14日に火船はあらかた消え去り、ロイテルはメドウェイ川から撤退してテムズ川の河口へ向かった<ref name=history/>。オランダ艦隊の数は84隻に増えて、テムズ川河口に陣取り、ロイテルとゲントで役割を分担してイングランドの迎撃と哨戒に当たったため、テムズ川の交通が閉ざされ、ロンドンの[[石炭]]価格が高騰<ref name=KB/>、1トンの値段が15[[シリング]]から140シリングに跳ね上がった<ref name=history/>。
 
メドウェイ川撤退後もオランダ海軍は攻撃を図り、[[7月2日]]にロイテルは自分の艦隊を二分して、一つを{{仮リンク|ルテナント・アドミラル|en|Lieutenant admiral}}の{{仮リンク|ヤン・ヤンセ・ファン・ネス|en|Jan Jansse van Nes}}の艦隊とし、自らは[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]などを攻撃したが効果はなかった。一方のネスは[[7月13日]]から作戦に出たものの、その後イングランドが反撃態勢に出ると、テムズ川河口を去って行った<ref name=KB/>。オランダ艦隊は[[北海]]に出た後も、沿岸のいくつかの村や港を襲撃したが、大した効果は得られなかった<ref name=military/>。
 
==和約と第三次英蘭戦争==
[[File:Charles II (1670s).jpg|thumb|120px|right|チャールズ2世]]
この襲撃でイングランドの損失額は約20万[[スターリング・ポンド|ポンド]]にも上った<ref name=military/>。チャールズ2世は和平交渉をより深刻に受け止めざるを得なくなり、それから数週間のうちに[[ブレダの和約]]により戦争は終わった<ref name=history/>。この和約で[[セントクリストファー島]]とモンサラットがイングランドに、[[アカディア]]がフランスに返還された。またオランダは[[スリナム]]を、イングランドには[[ニューヨーク]]と[[ニュージャージー州|ニュージャージー]]を支配下に置いた。オランダの勝利により、[[航海条例]]はオランダ向けに緩和され<ref name=KB/>、[[神聖ローマ帝国|ドイツ]]の商品がオランダ船でイングランドに輸入されるようになり、戦争中に奪取された多くの植民地が元の宗主国に戻された<ref name=history/>。しかしその後、[[スウェーデン]]、オランダと共に対仏[[三国同盟 (1668年)|三国同盟]]を締結したイングランドに対し、フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が経済援助と引き換えにオランダとの戦争を促した。これが後に[[ドーヴァーの密約]]へと発展し、これを不服としたオランダの軍事拡張が第三次英蘭戦争の引き金となった<ref name=KB/>。
 
== 注釈 ==
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{{デフォルトソート:めとうえいかわのしゆうけき}}
[[Category:オランダの]]
[[Category:イングランドの]]
[[Category:17世紀の戦闘]]
[[Category:ロンドンの歴史]]
[[Category:英蘭]]
[[Category:イギリス・オランダ関係1667年のヨーロッパ]]
[[Category:1667年の戦闘]]
[[Category:ミヒール・デ・ロイテル]]
[[Category:ルパート・オブ・ザ・ライン]]
[[Category:ジョージ・マンク]]