「ガンビーノ一家」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加
 
(3人の利用者による、間の3版が非表示)
6行目:
==形成期==
===1次抗争===
[[1900年代]]後半、シチリアのパレルモ出身のサルヴァトーレ・ダキーラがマンハッタンのハーレムでギャング団を率いた。1910年、コルレオーネ系の[[モレロ一家]]ボスの[[ジュゼッペ・モレロ]]が監獄送りになった時、「[[カポ・デイ・カピ|ボスの中のボス]]」を宣言し、1910年代前半モレロ一家残党と抗争した<ref name="c">[httphttps://mob-who.blogspot.jpcom/2011/04/daquila-salvatore-toto-1873-1928.html D'Aquila, Salvatore "Toto" (1873-1928) ] The American Mafia</ref>。モレロと共に監獄送りになった[[イニャツィオ・ルポ]](パレルモ派閥)の後継者を自任し、その縄張りを継いだとの説がある。
 
当時パレルモルーツのマフィアにダキーラ派とアル・ミネオ派があり、アル・ミネオ派はモレロ派残党やカステランマレーゼ派(以下カステラマレ派と表記)と同盟してダキーラに対抗した<ref>[http://www.gangrule.com/events/struggle-for-control-1914-1918 The Struggle for Control - The Gangs of New York]</ref>。1910年代中頃にかけモレロ一家から離脱する有力メンバーの暗殺とその報復が続き、ハーレムが流血バトルの舞台になった。1910年代後半、モレロ一家がブルックリンのカモッラ勢力の挑戦を受け抗争している間、ダキーラ派は勢力を伸張し、禁酒法時代ブルックリンに拠点を広げた。ダキーラはライバル勢力にスパイを送り込み、危険分子を粛清するなど水面下の策謀に長けたと言われる<ref>David Critchley, The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931, P. 157</ref>。ダキーラはまた、クリーヴランド、シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、ニューオリンズなど全米各都市のシチリアマフィア勢力とネットワークを築いていた。
 
===2次抗争===
[[1920年]]にモレロやルポが出所し、往時の権力を取り戻そうと活動を始めると、ダキーラはマフィア会議を開き、モレロ派残党にまとめて死の宣告を出した。その後2年間、ダキーラ派とモレロ派は再び抗争状態となり、酒の密輸の縄張り争いを伴って激化した末、十数人の死者を出した。[[1922年]]、酒の密輸で力を付けた[[ジョー・マッセリア]]がモレロの支持を得てダキーラ派刺客[[ウンベルト・ヴァレンティ]]を返り討ちにしたため<ref name="c"/>、ダキーラのモレロ派せん滅作戦はとん挫した。
 
===ダキーラ暗殺===
[[1928年]]7月に暗殺された[[フランキー・イェール]]の南ブルックリンの縄張りをめぐってダキーラが乗っ取りを仕掛け、これにマッセリアが待ったをかけた。同年10月、ダキーラは暗殺され、実行犯は捕まらなかったがマッセリア、モレロ、アル・ミネオの共謀と信じられた。イェールやダキーラの相次ぐ暗殺はブルックリン情勢に混沌をもたらし、権力の空白を埋めるべく各ギャングが暗闘を始めた。マッセリアはダキーラの後釜にアル・ミネオをボスに担ぎ上げて間接支配した<ref name="c"/><ref name="JC">[https://books.google.co.jp/books?id=o64XJkmUPr0C&pg=PA56&lpg=PA56 The Complete Idiot's Guide to the Mafia] Jerry Capeci</ref>。
 
ダキーラの後継ボスに収まったミネオがマッセリアとの合流前に元々率いていた派閥は、抜けた穴を埋める形でサルヴァトーレ・ディベッラ、次いで[[ジョゼフ・プロファチ]]がボスを継いだとの説がある(その場合ミネオはプロファチ一家(現[[コロンボ一家]])の創設者となる)
{{refnest|group=注釈|ミネオに近い仲間がプロファチ一家に残っていることなどを根拠としている<ref>[httphttps://mafiamembershipcharts.blogspot.jpcom/2016/02/bios-of-early-gambino-members-1930-50s.html Mafia Membership Chart, Mineo-Manfredi, 2016.3]</ref>。}}。
 
1928年12月、クリーヴランドで開かれたマフィア会議に、[[ヴィンセント・マンガーノ]]やプロファチ、ジョゼフ・トライナ(ダキーラ元側近)などが参加した(警察の手入れにあい会議が露見した)。会議目的はイェールやダキーラ亡き後の縄張り処理だったと伝えられた<ref>[http://www.writersofwrongs.com/2016/12/caught-in-cleveland.html Caught in Cleveland] Writers of Wrongs Series, Thomas Hunt</ref>。
45行目:
 
===理髪店の虐殺===
その後、ファミリーはジェノヴェーゼの権力闘争に巻き込まれた。1957年5月、ジェノヴェーゼの手下[[ヴィンセント・ジガンテ]]に狙撃されたコステロがボスの座をジェノヴェーゼに譲った。アナスタシアはコステロ襲撃に怒り、ジェノヴェーゼと戦争する場合は中立を保つよう他のボスに働きかけた。ジェノヴェーゼはアナスタシアの報復を恐れ、密かに副ボスのガンビーノと通じ、アナスタシアの暗殺を共謀した。1957年10月25日、アナスタシアはマンハッタンのパーク・シェラトンホテルの理容室で2人組に暗殺された。一家の古参幹部[[ジョゼフ・ビオンド|ジョー・ビオンド]]がガンビーノに協力しヒットマンを手配したと信じられている<ref name="KBD"/>{{refnest|group=注釈|1963年1月3日付FBIレポートによる<ref>[https://beatsboxingmayhem.com/2016/10/29/how-a-journeyman-boxer-got-mixed-up-in-the-murder-of-mob-boss-albert-anastasia/ How a Journeyman Boxer Got Mixed Up in the Murder of Mob Boss Albert Anastasia]</ref>。}}。ジェノヴェーゼとガンビーノの共謀というのが定説だが、アナスタシアがキューバ利権を侵犯したことを理由にコミッションから粛清指令があったとする説や、マンガーノ兄弟、スカリーチェ兄弟と相次いでシチリア人を殺した(と信じられた)アナスタシアに対する、ファミリーの垣根を越えたシチリア人総出の復讐とする説もある<ref>[httphttps://mafiamembershipcharts.blogspot.jpcom/2016/02/bios-of-early-gambino-members-1930-50s.html SCALICI-GIUSEPPE] Mafia Membership Charts</ref>{{refnest|group=注釈|警察が暗殺に関わったとみて捜査したのは、ボディーガードのアンソニー・コッポラ、理髪屋にいたジェローム・スキランテ、暗殺時ニューヨークにいた[[サント・トラフィカンテ]](ジュニア)、[[マイヤー・ランスキー]]、[[マイク・ミランダ]]など。5年後、[[コロンボ一家|プロファチ一家]]のギャロ兄弟が対プロファチ抗争で世間を騒がせた時に暗殺実行犯と取り沙汰された。}}。
 
===ガンビーノのマフィア外交===
61行目:
その後ゴッティはもっとも有名なマフィアのボスとしてメディアを賑わせたが、[[1990年]]に逮捕・収監されて[[2002年]]に獄死した。1970年代半ばからFBIの摘発は厳しさを増し、副ボスの[[サルヴァトーレ・グラヴァーノ|サルヴァトーレ・"サミー・ザ・ブル"・グラヴァーノ]]などの司法当局への内通者が続出するに至ってファミリーの統制は地に堕ちた。現在では再び[[ジェノヴェーゼ一家]]に最強のファミリーとしての地位を譲っていると思われるが、現在でもブルックリンと[[スタテンアイランド]]の労働組合を支配している<ref>{{cite news|last=Marzulli|first=John|title=Feds dig up bags o' cash intended as Christmas payoff to Genovese family from longshoreman|url=https://www.nydailynews.com/news/crime/feds-intercept-bags-o-cash-meant-genovese-family-article-1.470346|accessdate=2019-01-01|newspaper=New York Daily News|date=2010-12-10}}</ref>。
 
近年ではシチリアマフィアとの連携を再び強めているとされている。[[1981年]]に[[サルヴァトーレ・リイナ]]らに殺害された{{仮リンク|サルヴァトーレ・インツェリッロ|en|Salvatore Inzerillo}}の家族と部下らを迎え入れた。さらに[[2011年]]にシチリア出身の[[ドメニコ・チェファルー]]([[:en:Domenico Cefalù|Domenico "Italian Dom" Cefalù]])をボスとした。そして[[2015年]]にインツェリッロと親族関係にある[[フランク・カリ]]([[:w:Frank Cali|Frank "Franky Boy" Cali]])がアンダーボスからボスに昇格し、現在に至る。現在の副ボス(ストリート・ボス)とアンダーボスは不明、コンシリエーレはジョゼフ・コロッツォ([[:w:Joseph Corozzo|Joseph "Jo Jo" Corozzo]])。[[2019年]]3月13日、フランク・カリは自宅前で6発の銃弾を受け、その後ピックアップトラックに轢かれ死亡。<ref>{{Cite web|和書|title=NYマフィアのボス射殺 「五大ファミリー」の一角|url=https://mainichi.jp/articles/20190315/k00/00m/030/014000c|website=毎日新聞|accessdate=2019-03-15|language=ja}}</ref>
 
== 脚注 ==