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{{出典の明記|date=2022-07}}
 
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{{世界遺産概要表
|site_img = Image:SoborRussie Novodev- Moscou - Novodevichy 4.jpg
|site_img_capt = 修道院内のスモレンスキー聖堂全景
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|ja_name = ノヴォデヴィチ女子修道院の建造物
|en_name = Ensemble of the Novodevichy Convent
|fr_name = Ensemble du couvent Novodievitchi
|country = ロシア
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|rg_year = 1994年
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'''ノヴォデヴィチ女子修道院'''(ノヴォデヴィチじょししゅうどういん、ロシア語:'''{{lang|ru|Новоде́вичий монасты́рь}}''')は、[[モスクワ]]にある[[正教会]]の[[修道院]]の中でも、有名な[[女子修道院]]の1つである。[[2004年]]に[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]に登録された。
 
== 歴史 ==
=== モスクワ大公国時代 ===
[[ファイル:Moscow 05-2012 Novodevichy 01.jpg|thumb|left|修道院内のスモレンスクの[[生神女]]大聖堂]]
[[1524年]]に、ノヴォデヴィチ女子修道院は創建された。モスクワ大公・[[ヴァシーリー3世]]の命によって、建設が開始されたこの修道院は、[[1514年]]に、[[スモレンスク]]が[[モスクワ大公国]]に併合されたことを記念して建てられた。修道院は、[[モスクワ川]]の湾曲部における要塞([[クレムリ]])の役割を果たしていた。これは、他の修道院も同じような役割を持っていた。創建の際に、3,000ルーブルと2つの村が修道院に与えられた。[[イヴァン4世]]の時代には、さらに複数の村が寄進されている。
 
この修道院は、ロシア王家や[[ボヤール]]([[:en:Boyar|Boyar]]、10世紀から17世紀にかけての貴族のことを指す)出身の貴婦人たちを多くかくまったことで有名である。彼女たちには、ヴェールの着用が義務付けられた。修道院に避難してきで修道女となった女性で著名な者では、[[フョードル1世]]の妻である[[イリナ・ゴドゥノヴァ]][[:en:Irinaピョートル1世 Godunova(ロシア皇帝)|Irina Godunova]]、彼女は兄弟である[[ボリス・ゴドゥノフ]]がツァーリとなるまで、この修道院に避難していた)、[[ピョートル1世]]の姉妹である[[ソフィア・アレクセーエヴナ]]、そして、ピョートル1世の最初の妻である[[エヴドキヤ ([[:en:Eudoxia Lopukhina|Evdokiya Lopukhina・ロプーヒナ]]) である。
 
[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]では、[[1610年]]から[[1611年|11年]]にかけての一時期、[[アレクサンデル・ゴシュースキ]] ([[:en:Aleksander Korwin Gosiewski|Aleksander Gosiewski]]) が指揮するポーランド軍に、一旦、修道院は、占領されたこともある。その後、修道院はロシアの手に戻り、[[1616年]]には、修道院を護衛するために、100人の護衛兵が配備された。[[1618年]]には350人まで増強され、17世紀末までには、36の村を保有する大地主にまで成長した。
 
=== 帝国時代 ===
[[File:Moscow 05-2012 Novodevichy 27.jpg|thumb|200px|鐘楼]]
[[17世紀]]の半ばには、[[ウクライナ]]や[[ベラルーシ]]のほかの修道院から多くの修道女がノヴォデヴィチ女子修道院に移ってきた。[[1721年]]には、[[古儀式派]]を殺害した老修道女の複数名が女子修道院に避難してきたこともある。
 
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[[1812年]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の軍隊が修道院を攻撃しようとしたが、修道院は破壊の手から免れることができた。[[レフ・トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』には、主人公のピエール(ピョートル)伯爵は修道院で処刑される予定であったし、『[[アンナ・カレーニナ]]』では主人公格のコンスタンティンは、将来の妻となるキティが修道院の側の池で[[アイススケート]]しているところを見初めている。確かに、修道院の側の池は19世紀の間、モスクワにおいて、もっとも有名なスケートリンクであったし、トルストイも[[ハモーヴニク]] ([[:en:Khamovniki District|Khamovniki]]) に居住していた時は、修道院の側で、アイススケートを楽しんでいた。
 
[[1871年]]、フィラートイェフ兄弟が孤児のために寄付をし、また、2軒の貧窮者収容施設が建設された。1900年代初頭には、建築家で建築物の保存で活躍した[[イヴァン・マシュコフ]] ([[:en:Ivan Mashkov|Ivan Mashkov]]) によって、[[大聖堂]](スモレンスキクの[[生神女]]大聖堂)の調査が行われ、修復作業が行われた。[[1917年]]の[[ロシア革命]]勃発時には、51名の修道女と53名の修道女見習いが修道院にいたことが分かっている。
 
=== ソ連時代 ===
[[1922年]]、[[ボリシェヴィキ]]政権は修道院の閉鎖を決定し(大聖堂の閉鎖は1929年)、女性解放博物館に転用された。[[1926年]]までには、修道院は歴史と芸術のための博物館への改築が始まり、[[1934年]]には国立歴史博物館となった。修道院内部の多くの建物がアパートに転用されたが、これにより建物は建て替えや破壊を免れたともいえる
 
[[1943年]]、[[ヨシフ・スターリン]]が[[ロシア正教会]]に対する宗教政策を緩和し、修道院内にモスクワ神学専門学校開設された。翌年には、[[スラヴ・ギリシャ・ラテン・アカデミー]] ([[:en: Slavic Greek Latin Academy|Slavic Greek Latin Academy]]) に改組された。[[1945年]]、ソビエト政権は、信者のために、大聖堂の返還を決定した。1980年以降、クルチツィ([[:en:Krutitsy|Krutitsy]]と[[コロムナ]]の[[府主教]]の住居はノヴォデヴィチに置かれた。
 
=== ソ連崩壊後 ===
[[ソビエト邦の崩壊]]後、[[1994年]]、修道院での[[修道女]]達の生活が復活した。現在、彼女たちを管掌しているのは、Krutitsyクルチツィとコロムナの[[主教]]である。
 
ソ連時代に宗教弾圧の一環としてソ連政府に接収された修道院は、一部の聖堂・建築物については教会への返還が順次進められていたが、2010年01月21日に、ロシア連邦政府が修道院を同年内に全面的に教会に返還する事が報じられた<ref>[http://www.christiantoday.co.jp/international-news-2716.html ロシア、革命時接収した修道院を正教会に年内返還へ]([[クリスチャントゥデイ]])</ref>。
 
== 建築物 ==
この修道院の最も重要な建造物は、[[1524年]]から[[1525年]]にかけて建設されたスモレンスキークの[[生神女]]大聖堂である。6本の柱と5つのドーム屋根によって構成されている。[[ロシア建築]]に特有の中央の切妻屋根は、イヴァン4世の時代に建設された。
 
スモレンスキークの[[生神女]]大聖堂以外にも、この修道院には複数の教会が残っている。多くが1680年代に建設されている。白と赤で色塗られた外壁、鐘楼、2つの門の上に建設された教会(門の上の[[生神女庇護教会]]と門の上の[[救世主顕栄大聖堂|救世主顕栄教会]])、修道院の食堂と住居は全て、[[モスクワ・バロック]]の様式に則って建設された。
 
== ノヴォデヴィチ墓地 ==
[[ファイル:Novodievivhi-Tumb-p1030362.jpg|thumb|200px|墓地]]
他のモスクワの修道院と同様に、ノヴォデヴィチ修道院にも墓地が併設されている。このノヴォデヴィチ墓地は、修道院の外側で、修道院の南側の外壁に隣接している。1898年に造営が始まったこの墓地にはロシアにまつわる著名な人物が多数埋葬されている<ref>{{Cite book|和書 |year = 2016 |title = るるぶロシア モスクワ・サンクトペテルブルク 2016 |publisher = JTBパブリッシング |page = 82 |isbn = 978-4-533-11337-6}}</ref>
; 作家・詩人
* [[アントン・チェーホフ]]
* [[ニコライ・ゴーゴリ]]
* [[イワン・ツルゲーネフ]]
* [[ヴェリミール・フレーブニコフ]]
* [[ウラジーミル・マヤコフスキー]]
* [[ミハイル・ブルガーコフ]]
63 ⟶ 69行目:
* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]
* [[セルゲイ・プロコフィエフ]]
* [[セミョーン・チェルネツキー]]
; 政治家
* [[ニキータ・フルシチョフ]]夫妻
* [[アンドレイ・グロムイコ]](「ミスター・ニエット」と呼ばれたソ連時代国家元首たる最高会議幹部会議長や外相を歴任
* [[ボリス・エリツィン]](ロシア連邦初代大統領)
* [[ヴャチェスラフ・モロトフ]] (スターリン時代にソ連の外交を指揮した政治家)
* [[ニコライ・ブルガーニン]] ([[日ソ共同宣言]]に署名した戦後のソ連首相)
* [[アナスタス・ミコヤン]]
* [[ミハイル・ゴルバチョフ]]夫妻
; 思想家
* [[ピョートル・クロポトキン]]
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; 宇宙飛行士
* [[パーヴェル・ベリャーエフ]]
*[[ゲルマン・チトフ]]
*[[ボリス・エゴロフ]]
 
; 技術者
* [[サヴェリー・モイセヴィッチ・ファインバーグ]]
* [[セルゲイ・イリューシン]]
* [[アンドレーイ・トゥーポレフ]]
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* [[ナジェージダ・アリルーエワ]]([[ヨシフ・スターリン]]の2番目の妻)
* [[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]([[モンタージュ]]を編み出した映画監督)
* [[ライサ・ゴルバチョワ]]([[ミハイル・ゴルバチョフ]]元ソビエト連邦書記長夫人)
* [[ガリーナ・ウラノワ]](ソ連時代のバレリーナ)
* [[エフゲニー・フョードロフ]]
* [[ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ]]([[独ソ戦]]でドイツ軍に処刑された[[パルチザン]]女性)
* [[ヴァレンティン・セローフ]](画家)
 
== 世界遺産 ==
=== 登録基準 ===
{{世界遺産基準|1|4|6}}
{{Commonscat|Novodevichy Convent}}
{{ロシアの世界遺産}}
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[修道院の一覧]]
{{ロシアの世界遺産}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のうおてういちしよししゆうとういん}}
[[Category:世界遺産 な行]]
[[Category:ロシアの世界遺産]]
[[Category:ロシア正教会の修道院]]
[[Category:正教会の修道院]]
[[Category:ロシアの修道院]]
[[Category:ロシアのバロック建築]]
 
[[Category:2004年登録の世界遺産]]
[[bg:Новодевически манастир]]
[[Category:キリスト教建築物の世界遺産]]
[[cs:Novoděvičijský klášter a hřbitov]]
[[Category:正教会モスクワ修道院墓地]]
[[de:Nowodewitschi-Kloster]]
[[en:Novodevichy Convent]]
[[es:Monasterio Novodévichi]]
[[fi:Novodevitšin nunnaluostari]]
[[fr:Couvent de Novodievitchi]]
[[fy:Nowodewitsjy Kleaster]]
[[he:מנזר נובודוויצ'י]]
[[hu:Novogyevicsi kolostor]]
[[io:Novodevichy kuvento]]
[[it:Convento di Novodevičij]]
[[ka:ნოვოდევიჩის მონასტერი]]
[[kv:Выль Ныв манастыр]]
[[pl:Monaster Nowodziewiczy w Moskwie]]
[[ru:Новодевичий монастырь]]
[[sk:Novodievčí kláštor]]
[[sv:Novodevitjijklostret]]
[[uk:Новодівочий монастир]]