「ノヴォデヴィチ女子修道院」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2022-07}}
 
{{coord|55|43|34|N|37|33|22|E|region:RU_type:landmark|display=title}}
{{世界遺産概要表
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|site_img_capt = 修道院全景
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|ja_name = ノヴォデヴィチ女子修道院の建造物群
|en_name = Ensemble of the Novodevichy Convent
|fr_name = Ensemble du couvent Novodievitchi
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[[1524年]]に、ノヴォデヴィチ女子修道院は創建された。モスクワ大公・[[ヴァシーリー3世]]の命によって、建設が開始されたこの修道院は、[[1514年]]に、[[スモレンスク]]が[[モスクワ大公国]]に併合されたことを記念して建てられた。修道院は、[[モスクワ川]]の湾曲部における要塞([[クレムリ]])の役割を果たしていた。これは、他の修道院も同じような役割を持っていた。創建の際に、3,000ルーブルと2つの村が修道院に与えられた。[[イヴァン4世]]の時代には、さらに複数の村が寄進されている。
 
この修道院は、ロシア王家や[[ボヤール]]([[:en:Boyar|Boyar]]、10世紀から17世紀にかけての貴族のことを指す)出身の貴婦人たちを多くかくまったことで有名である。彼女たちには、ヴェールの着用が義務付けられた。修道院で修道女となった女性で著名な者では、[[フョードル1世]]の妻である[[イリナ・ゴドゥノヴァ]]、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]の姉妹である[[ソフィア・アレクセーエヴナ]]、そして、ピョートル1世の最初の妻である[[エヴドキヤ・ロプーヒナ]]である。
 
[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]では、[[1610年]]から[[1611年|11年]]にかけての一時期、[[アレクサンデル・ゴシュースキ]] ([[:en:Aleksander Korwin Gosiewski|Aleksander Gosiewski]]) が指揮するポーランド軍に占領されたこともある。その後、修道院はロシアの手に戻り、[[1616年]]には、修道院を護衛するために、100人の護衛兵が配備された。[[1618年]]には350人まで増強され、17世紀末までには、36の村を保有する大地主にまで成長した。
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; 政治家
* [[ニキータ・フルシチョフ]]夫妻
* [[アンドレイ・グロムイコ]](「ミスター・ニエット」と呼ばれたソ連時代国家元首たる最高会議幹部会議長や外相を歴任
* [[ボリス・エリツィン]](ロシア連邦初代大統領)
* [[ヴャチェスラフ・モロトフ]] (スターリン時代にソ連の外交を指揮した政治家)
* [[ニコライ・ブルガーニン]] ([[日ソ共同宣言]]に署名した戦後のソ連首相)
* [[アナスタス・ミコヤン]]
* [[ミハイル・ゴルバチョフ]]夫妻
; 思想家
* [[ピョートル・クロポトキン]]
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; 技術者
* [[サヴェリー・モイセヴィッチ・ファインバーグ]]
* [[セルゲイ・イリューシン]]
* [[アンドレーイ・トゥーポレフ]]
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* [[ナジェージダ・アリルーエワ]]([[ヨシフ・スターリン]]の2番目の妻)
* [[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]([[モンタージュ]]を編み出した映画監督)
* [[ライサ・ゴルバチョワ]]([[ミハイル・ゴルバチョフ]]元ソビエト連邦書記長夫人)
* [[ガリーナ・ウラノワ]](ソ連時代のバレリーナ)
* [[エフゲニー・フョードロフ]]
* [[ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤ]]([[独ソ戦]]でドイツ軍に処刑された[[パルチザン]]女性)
* [[ヴァレンティン・セローフ]](画家)
 
== 世界遺産 ==
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*[[修道院の一覧]]
{{ロシアの世界遺産}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:のうおてういちしよししゆうとういん}}
[[Category:世界遺産 な行]]