「河田木曽川渡河の戦い」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2023年1月}}
'''河田木曽川渡河の戦い'''(こうだきそがわとこうのたたかい)は[[関ヶ原の戦い]]の前哨戦のひとつである。
{{Battlebox|
|battle_name = 河田木曽川渡河の戦い
|campaign = 関ヶ原の役
|image =
|caption =
|conflict = [[関ヶ原の国時代 (日本)い|関ヶ原の役]]
|date = 1600年8月22日
|place = [[岐阜各務原市]]・[[木曽川]]
|result = 東軍の勝利
|combatant1 = 西軍
|combatant2 = 東軍
|commander1 = [[ファイル:Oda emblem.svg|20px]] [[織田秀信]]
|commander2 = [[ファイル:Japanese Crest Bizenn Chou.svg|20px]] [[池田輝政]]<br>[[ファイル:Alex K Hiroshima Asano kamon.svg|20px]] [[浅野幸長]]<br>[[File:Japanese crest Tosa kasiwa.svg|20px|]] [[山内一豊]]
|strength1 = 90009,000
|strength2 = 1800018,000
|casualties1 =
|casualties2 =
|campaign =
|}}
 
'''河田木曽川渡河の戦い'''(こうだきそがわとこうのたたかい)は[[関ヶ原の戦い]]の前哨戦のひとつである。
 
== 戦況 ==
[[池田輝政]]、[[浅野幸長]]、[[山内一豊]]率いる東軍1万8千人は、[[美濃国]][[羽栗郡]]河田島村(現[[各務原市]]川島河田町)まで進軍し、[[木曽川]]を目前としていた。これに対し、[[岐阜城]]城主[[織田秀信]]は、[[百々綱家]]、[[飯沼長資]]らを[[美濃国]][[羽栗郡]]米野村(現[[笠松町]])に配置した。織田秀信の作戦は、米野村で撃破し、さらに羽栗郡中屋村、[[各務郡]]新加納村(現[[各務原市]])、[[厚見郡]]川手村(現[[岐阜市]])で残党を撃破するものであった。西軍は総勢9千人であった。
 
[[1600年]]8月22日明方、[[池田輝政]]率いる東軍は[[木曽川]]渡河を決行。西軍は鉄砲隊を中心に撃破を試みたが、東軍は木曽川の中洲の小屋場島(現[[各務原市]])まで進軍し、陣を張る。そして対岸の米野村に進軍を開始する。
[[池田輝政]]、[[浅野幸長]]、[[山内一豊]]率いる東軍1万8千人は、[[美濃国]][[羽栗郡]]河田島村(現[[各務原市]]川島河田町)まで進軍し、[[木曽川]]を目前としていた。これに対し、[[岐阜城]]城主[[織田秀信]]は、[[百々綱家]]、[[飯沼長資]]らを[[美濃国]][[羽栗郡]]米野村(現[[笠松町]])に配置した。織田秀信の作戦は、米野村で撃破し、さらに中屋村、新加納村(現[[各務原市]])、川手村(現[[岐阜市]])で残党を撃破するものであった。西軍は総勢9千人であった。
 
[[1600年]]8月22日明方、[[池田輝政]]率いる東軍は[[木曽川]]渡河を決行。西軍は鉄砲隊を中心に撃破を試みたが、東軍は木曽川の中洲の小屋場島(現[[各務原市]])まで進軍し、陣を張る。そして対岸の米野村に進軍を開始する。
 
同日昼、両軍は米野村で激突する。([[米野の戦い]])
 
== 備考 ==
[[河田木曽川渡河の戦い]][[米野の戦い]]は、同じ[[1600年]]8月22日の戦いである為、同じ戦いと見なされやすい。解釈として、河田島村を中心に行われた、東軍の[[木曽川]]渡河を西軍が阻止する戦いが、[['''河田木曽川渡河の戦い]]'''[[木曽川]]を渡った東軍と待ち受けた西軍との米野村での戦いが[[米野の戦い]]となる。
 
[[河田木曽川渡河の戦い]]と[[米野の戦い]]は、同じ[[1600年]]8月22日の戦いである為、同じ戦いと見なされやすい。解釈として、河田島村を中心に行われた、東軍の[[木曽川]]渡河を西軍が阻止する戦いが、[[河田木曽川渡河の戦い]]。[[木曽川]]を渡った東軍と待ち受けた西軍との米野村での戦いが[[米野の戦い]]となる。
 
== 現状 ==
* この戦いは現在の[[各務原市]]川島地区(旧[[羽島郡]][[川島町 (岐阜県)|川島町]])一帯で行われたが、綿密にいうと、現在の[[各務原市]]川島河田町、川島松原町、川島緑町、川島笠田町付近である。
[[* 池田輝政]]が陣を張ったという小屋場島は、現在の[[東海北陸自動車道]][[川島パーキングエリア]]、及び[[河川環境楽園]]付近である。かては[[池田輝政]]が旗をたてた、“旗立ての松”という老松があったが、今は枯れて無い。
* 木曽川渡河を行った場所付近には、[[1929年]](昭和4年)から[[1962年]](昭和37年)まで[[笠田渡船|笠田の渡し]]が設置されていた。
* [[川島会館]]前に解説看板がある。
 
== 関連項目 ==
この戦いは現在の[[各務原市]]川島地区(旧[[羽島郡]][[川島町 (岐阜県)|川島町]])一帯で行われたが、綿密にいうと、現在の[[各務原市]]川島河田町、川島松原町、川島笠田町付近である。
* [[河田渡船]]
[[池田輝政]]が陣を張ったという小屋場島は、現在の[[東海北陸自動車道]][[川島パーキングエリア]]、及び[[河川環境楽園]]付近である。かっては[[池田輝政]]が旗をたてた、“旗立ての松”という老松があったが、今は枯れて無い。
* [[大塚権太夫]]
 
[[Category:関ヶ原の戦い|こうたきそかわとこうのたたかい]]
[[Category:岐阜県の歴史|こうたきそかわとこうのたたかい]]
 
[[Category{{デフォルトソート:関ヶ原の戦い|こうたきそかわとこうのたたかい]]}}
[[zh:河田木曾川渡河之戰]]
[[Category:関ヶ原の役の戦闘]]
[[Category:岐阜県の歴史|こうたきそかわとこうのたたかい]]
[[Category:池田輝政]]
[[Category:山内一豊]]