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44年([[紀元前221年|前221年]])、[[始皇帝|秦王政]]は[[斉攻略|斉の攻略]]を[[王賁]]に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し[[臨淄]]へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した{{sfn|島崎晋|2019|p=102}}{{sfn|寺田|1997|p=49}}。田建は降伏し、斉は滅亡した<ref name="齊8">《[[s:史記/卷046|史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六]]》:五國已亡,秦兵卒入臨淄,民莫敢格者。王建遂降,遷於共。故齊人怨王建不蚤與諸侯合從攻秦,聽奸臣賓客以亡其國,歌之曰:「松耶柏耶?住建共者客耶?」疾建用客之不詳也。</ref>。ここに秦の中国統一は完成した。
 
その後、田建は身柄を共(現在の[[河南省]][[新郷市]][[輝県市]])に移されたという。また、[[魏 (戦国)|魏]]の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、[[餓死]]したとも伝えれている<ref>《[[s:資治通鑑/卷007|資治通鑑 秦紀卷七]]》:齊王建也死於流放之地。王賁自燕南攻齊,卒入臨淄,民莫敢格者。秦使人誘齊王,約封以五百里之地。齊王遂降,秦遷之共,處之松柏之間,餓而死。</ref><ref>《[[s:戰國策/卷13|戰國策・卷十三・齊策六]]》:齊王建入朝於秦,雍門司馬前曰:「所為立王者,為社稷耶?為王立王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷主王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而反。即墨大夫與雍門司馬諫而聽之,則以為可可為謀,即入見齊王曰:「齊地方數千里,帶甲數百萬。夫三晉大夫,皆不便秦,而在阿、鄄之間者百數,王收而與之百萬之眾,使收三晉之故地,即臨晉之關可以入矣;鄢、郢大夫,不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之百萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可 立,秦國可亡。夫舍南面之稱制,乃西面而事秦,為大王不取也。」齊王不聽。秦使陳馳誘齊王内之,約與五百里之地。齊王不聽即墨大夫而聽陳馳,遂入秦。處之共松柏之間,餓而死。先是齊為之歌曰:「松邪!柏邪!住建共者,客耶!」</ref>。
 
始皇帝没後に秦が弱体化すると、田建の弟である[[田]]が挙兵して斉王になった。また孫の[[田安]]も済北王になって斉を再興したが、内紛により[[田栄]]に殺害された。
 
== 玉連環 ==
ある時、秦王<ref group="注釈">『[[戦国策]]』の底本によって、[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]となっているものと、秦王政となっているものとがある。</ref>の使者が[[チャイニーズリング|玉連環]]を携えて斉を訪れ、知者の有無を確かめようとした。群臣に外せるものがいないのを知った君王后は、使者の前で玉連環を[[槌]]で叩き割って分解してみせ、面目を立てた<ref>『戦国策』巻十三 斉策六「斉閔王之遇殺」より。</ref>。
 
== 注釈 ==
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{{田斉の君主|第8代|前265年 - 前221年(滅亡)}}
{{秦の統一戦争}}
 
{{DEFAULTSORT:てん けん}}
[[Category:斉の君主|けん]]