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{{Infobox 人物
'''ジョン・クランコ''' ('''John Cranko''', [[1927年]]8月15日 - [[1973年]]6月26日) は[[南アフリカ連邦|南アフリカ]]出身の[[バレエダンサー]]・[[振付師|振付家]]。
|氏名 = ジョン・クランコ
|ふりがな = John Cranko
|画像 =
|画像サイズ =
|画像説明 =
|生年月日 = [[1927年]][[8月15日]]
|生誕地 = {{Flagicon|RSA1912}} [[ルステンブルク]]
|出身校 = サドラーズ・ウェルズ・バレエ学校
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1927|08|15|1973|06|26}}
|死没地 = {{Flagicon|IRL}} [[ダブリン]]
}}
'''ジョン・クランコ''' ('''John Cranko''', [[1927年]][[8月15日]] - [[1973年]][[6月26日]] [[南アフリカ連邦|南アフリカ]]出身・[[イギリス]]国籍の[[バレエダンサー]]・[[振付師|振付家]]。
 
[[イギリス]]で振付家として名を成したのち、[[1961年]]から[[ドイツ]]の[[シュトゥットガルト・バレエ団]]の芸術監督を務め、同バレエ団をヨーロッパ有数のバレエ団に育て上げた。生涯で90作を超えるバレエを作り、代表作である 『[[オネーギン (バレエ)|オネーギン]]』 は金字塔と呼ばれ<ref>{{Cite news|url=https://www.nbs.or.jp/nbsnews/391/02.html|title=391号-2019年9月:NBSニュース|publisher=NBS日本舞台芸術振興会|accessdate=2020-01-08}}</ref>、今日でも各国で上演され続けている。
 
== 生涯 ==
南アの小都市[[ルステンブルク]]に長男として生まれる。父親はオランダ系南アフリカ人<!--祖先はそうだったが父親本人は英語を話した由-->の[[事務弁護士]]の父親英国出身の[[再婚]]の母親の間の長男として、南アの小都市[[ルはイギリテンブルク]]に生まれ人で子持ちの再婚だった。両親はかつて[[ロンドン]]で[[バレエ・リュス]]の公演を観たことがあり、異父の姉は[[バレエ]]を習っていたというバレエ好きの一家だった。しかし8歳のとき両親が父母は離婚し、クランコはやがて父親に引き取られる。その後、学校は嫌いだが[[人形劇]]に熱中するという特異な少年時代を過ごした。
 
13歳でバレエを習い始め、17歳で[[ケープタウン大学]]の舞踊課程の学生となった。この頃早くも自身のバレエ作品として[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]作曲の 『[[兵士の物語]]』 を作り、地元のバレエ団で上演している。[[1946年]]2月、18歳のときにプロとしての本格的な舞台を求めてイギリスに渡った。サドラーズ・ウェルズ・バレエ学校で学びながら、[[サドラーズ・ウェルズ劇場|同・劇場シアター]]バレエ(現[[バーミンガム・ロイヤル・バレエ団]])の公演にも出演。当初から振付家志望を表明しており、その才能は間もなく[[ニネット・ド・ヴァロア]]に認められるところとなった。
 
『別れ』(Adieu、[[1947年]])、『[[美女と野獣#バレエ|美女と野獣]]』([[1949(1949]])などの短い物語バレエで成功を収める。また失敗作に終わったものの、イギリスを巡演に訪れた[[ニューヨーク・シティ・バレエ団]]向けに[[ジョージ・バランシン|バランシン]]の依頼で 『魔女』(The Witch、
[[1950年]])を制作した。195023歳でサドラーズ・ウェルズ・劇場シアター・バレエ団の常任振付家の一人となり、翌1951年からは本家のサドラーズ・ウェルズ(現[[ロイヤル・バレエ団]])向けにも振付を開始し行った。しかし[[フレデリック・アシュトン|アシュトン]]の存在が大きく、十分な振付の機会がないとしてかったため、1960年にシュトゥットガルト・バレエ団<ref>当時の正式名称は「[[バーデン=ヴュルテンベルク州|ヴュルテンベルク]]州立劇場バレエ」(Württembergische Staatstheaterballett)。</ref>に移籍した。
 
その直前に振付けていたプロコフィエフ作曲 『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロミオとジュリエット]]』 はシュツッガルトでの再演で好評を得た。シュツットガルトでは抽象バレエや作品のほか、ナレーションや映像が入る実験的な作品まで幅広く手掛けたが、今日でも評価が高いのは演劇性の高い物語バレエである。1958年に振付けていた 『[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロミオとジュリエット]]』 は再演されシュトゥットガルトでレパートリーとして定着した。また[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の小説をバレエ化した『[[オネーギン (バレエ)|オネーギン]]』はヒット作となり、このためにドイツの一地方都市のバレエ団に過ぎなかったシュトゥットガルト・バレエ団は世界中から巡演の招請を受けるカンパニーにまで成長した。また、1971年にシュトゥットガルト・バレエ団の付属バレエ学校(現[[ジョン・クランコ・スクール]])を設立したが、この学校には1974年にクランコの業績を称えて「ジョン・クランコ」の名が冠された<ref>{{cite web|url=http://www.john-cranko-schule.de/en/about-us/history-rewrite/|title=History|accessdate=2021-4-11}}</ref>
 
[[1973年]]6月、成功裡に終わった3度目の[[ニューヨーク]]公演の帰路、医師から処方されていた睡眠薬[[抱水クロラール]]を飛行機内で服用したところ、その[[副作用]]で[[嘔吐|吐瀉]]を起こし、窒息して意識不明となった。機長の判断で[[アイルランド]]の[[ダブリン空港]]に緊急着陸したが、すでにこのとき死亡すでに絶命していた<ref>[[#Percival 1983|Percival]], p.228. なお死因を[[心臓麻痺]]とする文献もある ([[#Vollmer (Vollmer, ''op. cit.''1993|Vollmer]]) が、Percivalの記述の方が詳細で具体的である。</ref>。45歳
 
== 人物 ==
バレエを習うのは自分が踊るためでなく、振付家になるため<ref>[[#Percival 1983|''ibid''.]], p.23</ref>というほど作品づくりに情熱を抱いていた。ダンサーとしての出演は[[1950年]]で終わったが、その後は作品の構想を得るために多い時で一日3冊の書籍を読んでいたという<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']]., p.54</ref>という
 
創作のみならず、他人を登用することにも長けていた。1950年代にダンサーとして伸び悩んでいた[[ケネス・マクミラン]]はクランコの勧めで振付を手掛けるようになった<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']]., p.91</ref>。またシュトゥットガルトでは[[ピーター・ライト (振付家)|ピーター・ライト]]を[[バレエマスター]]に起用してバレエ団の水準の底上げを図り、同時に作品も作らせていた(後に英国で活躍)。またソリストとして起用した[[マリシア・ハイデ]]はやがてシュトゥットガルトの花形舞手となり、物語バレエのプリマとして有名になった。このほか、クランコの下からは[[ジョン・ノイマイヤー|ノイマイヤ]]、[[イジー・キリアーン|イジ・キリアン]]といった振付家が育っている。
 
クランコ自身によると、振付家として成功するには以下の3点が必要だと述べて<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']]., p.191</ref>。
 
*あらゆる種類の舞踊を、しかるべき一流の学校で学んでおくこと
*一級の舞踏手ダンサーと、一級の振付家を間近で観察する経験を積むこと
*作った作品を積極的に上演する団体存在すること
 
父方の祖母が[[ユダヤ人]]であったために時折自身のアイデンティティに葛藤を抱いていた。晩年は酒量が多くなり、素面しらふのときは振付、それ以外は酔っているという状態であったという。少年時代から同性愛の性向があり<ref>[[#Percival 1983|''ibid'']]., p.22</ref>、子供はもうけなかった。
 
== 主な作品 ==
{| class="wikitable"
|-
! 年|| 作品  || 作曲音楽  ||初演
|-
! 1949
| [[美女と野獣#バレエ|美女と野獣]]
| [[モーリス・ラヴェル|M・ラヴェル]]
| rowspan="2" |{{Flagicon|GBR|size=18px}}サドラーズ・ウェルズ劇場・シアター・バレエ団
|-
! 1951
| パイナップル・ポール
|[[アーサー・サリヴァン|A・サリヴァン]]<br />([[チャールズ・マッケラス|C・マッケラス]]編曲)
|-
! 1957
| パゴダの王子
|style="background-color:#90ee90"| [[ベンジャミン・ブリテン|B・ブリテン]]
| {{Flagicon|GBR|size=18px}}[[ロイヤル・バレエ団]]
|-
! 1958
| [[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)|ロオとジュリエット]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220421-L664EBFBWVOTLDSCXRS4PHUAWQ/|title=プリンシパル昇進の秋山瑛がジュリエット役 東京バレエ団|publisher=産経ニュース|date=2022-04-21|accessdate=2022-04-21}}</ref>
| [[セルゲイ・プロコフィエフ|S・プロコフィエフ]]
| {{Flagicon|ITA|size=18px}}スカラ座バレエ団
|-
! rowspan="23" |1965
| [[カルタ遊び]]
| [[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]
| rowspan="34" |{{Flagicon|GER|size=18px}}シュトゥットガルト・バレエ団
|-
! rowspan="2" |1965
| [[オネーギン (バレエ)|オネーギン]]
| [[ピョートル・チャイコフスキー|P・チャイコフスキー]]<br />([[:en:Kurt-Heinz Stolzeクルト=ハインツ・シュトルツェ|K=H・シュトルツェ]]編曲)
| rowspan="3" |シュツットガルト・バレエ団
|-
| カルミナ・ブラーナ
61 ⟶ 76行目:
|-
! 1969
| [[じゃじゃ馬ならし (バレエ)|じゃじゃ馬ならし]]
| [[ドメニコ・スカルラッティ|D・スカルラッティ]]<br />([[:en:Kurt-Heinz Stolze|K=H・シュトルツェ]]編曲)
|-
|}
※<b style="background-color:#90ee90">緑色</b>は作曲そのものを委嘱したことを表す。
 
== 文献 ==
*Percival, John, "Theater in my Blood - A biography of John Cranko", 1983, ISBN 0-531-09800-1
*Vollmer, Horst, "John Cranko", 1993, ''International Dictionary of Ballet'', vol.1, pp.312-315, ISBN 1-55862-157-1
 
== 脚注 ==
{{Reflistreflist}}
 
== 参考文献 ==
{{DEFAULTSORT:くらんこしよん}}
*{{Anchors|Percival 1983}} Percival, John, "Theater in my Blood - A biography of John Cranko", 1983, <small>ISBN 0-531-09800-1</small>
*{{Anchors|Vollmer 1993}} Vollmer, Horst, "John Cranko", 1993, ''International Dictionary of Ballet'', vol.1, pp.312-315, <small>ISBN 1-55862-157-1</small>
 
== 外部リンク ==
* [http://www.john-cranko-gesellschaft.de/web/ John Cranko Gesellschaft e. V.]
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くらんこ しよん}}
[[Category:バレエの振付家]]
[[Category:イギリスのバレエダンサー]]
[[Category:LGBTゲイ人物芸術家]]
[[Category:北西州 (南アフリカ)出身の人物]]
[[Category:1927年生]]
[[Category:1973年没]]
 
[[de:John Cranko]]
[[en:John Cranko]]
[[es:John Cranko]]
[[fr:John Cranko]]
[[ru:Крэнко, Джон]]
[[sv:John Cranko]]