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|作品名=ダーティ・ダンシング
|原題=Dirty Dancing
|画像= [[ファイル:Logo_Dirty_Dancing.svg|サムネイル|右]]
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|画像サイズ=
|画像解説=
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|編集=[[ピーター・C・フランク]]
|製作会社=
|配給=[[メディアリーヴス{{flagicon|USA}} ベストロン・ピクチャーズ<br />{{flagicon|JPN}} [[エンターブレイン|ベストロン映画]]
|公開={{flagicon|USA}} [[1987年]][[8月21日]]<br />{{flagicon|JPN}} 1987年[[11月21日]]
|上映時間=101分
|製作国={{USA}}
|言語=[[英語]]
|製作費=$600万6,000,000<ref name=Boxoffice>{{cite web|url=httphttps://www.boxofficemojo.com/moviesrelease/rl2505016833/weekend/?id=dirtydancing.htm|title=Dirty Dancing|work=[[Box Office Mojo]]|publisher=[[Amazon.com]]|accessdate=2012-01-23}}</ref>
|興行収入=$2億1213,400万954,274<ref name=Boxoffice/>
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|次作=
}}
『'''ダーティ・ダンシング'''』(''Dirty Dancing'' )は、[[1987年の映画|1987年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ合衆国]]製作の[[青春映画|青春]][[恋愛映画]]。エレノア・バーグスタイン脚本、[[エミール・アルドリーノ]]監督、[[ジェニファー・グレイ]]、[[パトリック・スウェイジ]]、[[シンシア・ローズ]]、[[ジェリー・オーバック]]出演による。家族と共に夏休みを過ごす[[ティーンエイジャー]]の女の子が、父に逆らってダンスのインストラクターと恋に落ちるという内容である。映画のほぼ3分の1を占めるのが、『[[ハイスクール・ミュージカル]]』でも有名な[[ケニー・オルテガ]]振付によるダンス・シーンで、映画ラストは「映画史上、最も鳥肌だつダンス・シーン」として知られている<ref name=guardian>{{cite news|author=Vernon, Polly|url=httphttps://filmwww.guardiantheguardian.co.ukcom/featuresstage/featurepages2006/0,,1868781,00sep/10/theatre.htmlwestend |title=Hey Baby&nbsp;– we're all Swayze now|date=2006-10-10| work=[[The Guardian]]|accessdate=2007-05-15 | location=London}}</ref><ref name=bbc/>。
 
当初は、新しいスタジオであるグレート・アメリカン・フィルムズ合資会社が<ref>{{cite web|url=httphttps://www.imdb.com/companysearch/co0028164title/?companies=co0028164|title=Great American Films Limited Partnership (us)|work=IMDb|accessdate=2007-05-15}}</ref>、すでに[[ブロードウェイ・シアター|ブロードウエイ]]で活躍していたオーバックを除いて無名俳優による出演で撮影した低予算映画であったが大ヒットし、2009年までに世界で2億1,400万ドル以上をあげた<ref name=singh-2010>{{cite news|url=httphttps://www.telegraph.co.uk/culture/film/film-news/6193195/Patrick-Swayze-the-man-who-inspired-a-generation-of-women-to-dance-has-died.html|date=September 16, 2009|title=Patrick Swayze, the man who inspired a generation of women to dance, has died|accessdate=January 9, 2010|author=Singh, Anita|work=The Telegraph}}</ref>。ホームビデオとしても100万部以上売れた初めての作品であり<ref name=singh-2010/>、[[ジミー・アイナー]]が[[エグゼクティブ・プロデューサー]]を務めるサウンドトラックから『''[[::en:Dirty Dancing (soundtrack)|Dirty Dancing]]'' 』など2枚のアルバムが[[ゴールドディスク|プラチナディスク]]を獲得し、その中の『タイム・オブ・マイ・ライフ』(''[[::en:(I've Had) The Time of My Life|(I've Had) The Time of My Life]]'' )は[[ゴールデングローブ賞]]、[[アカデミー歌曲賞]]、[[グラミー賞]]最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞を受賞した<ref>{{cite news|title=Save the Last Dirty Dance for the Revival; Movies: 'Dirty Dancing,' the Catskills love story with forbidden footwork, steps out again for its 10th birthday.|author=Craughwell, Kathleen|work=Los Angeles Times|date=August 18, 1997}}</ref>。この映画を基に、2004年には[[リブート (作品展開)|リブート]]版『[[ダンシング・ハバナ]]』が製作され、オーストラリア、ヨーロッパ、北アメリカで上演された舞台版はチケットが完売した。
 
2011年、振付を担当した[[ケニー・オルテガ]]監督によるリメイク版が製作されることが発表された<ref>{{cite news|url=httphttps://www.deadline.com/2011/08/kenny-ortega-comes-full-circle-to-direct-dirty-dancing-reboot-155059/ |date=August 8, 2011 |title=Kenny Ortega Comes Full Circle To Direct ‘Dirty Dancing’ Reboot}}</ref>。しかし2012年6月8日、[[ライオンズゲート]]は出演者の都合により早くても2014年になるとして製作の延期を発表した。2015年2月、劇場映画ではなくテレビ映画として予定されたが<ref>{{cite news|url=httphttps://www.christiantimes.com/article/dirty.-dancing.-reboot.-to.-become.-a.-tv.-movie/51049.htm |title='Dirty Dancing' Reboot Becoming a TV Movie |work=Christian Times|date=February 2015}}</ref>、2015年7月、公式にキャンセルとなった<ref>[httphttps://www.newsobserver.com/news/politics-government/state-politics/article29576620.html $4 million freed in film fund after ‘Dirty Dancing’ remake cancels <!-- Bot generated title -->]</ref>。
 
2009年から[[ノースカロライナ州]][[レイク・ルーア (ノースカロライナ州)|レイク・ルーア]]にてダーティ・ダンシング・フェスティバルが開催されている<ref>{{cite news|work=USA Today|url=httphttps://www.usatoday.com/story/travel/destinations/2013/08/01/dirty-dancing-lake-lure-filming-location/2600115/ |title=North Carolina town hosts 'Dirty Dancing' festival |date=August 1, 2013}}</ref>。
 
== あらすじ ==
1963年の夏、17歳のニューヨーカー、ベイビーことフランシス・ハウスマン(ジェニファー・グレイ)は、裕福な[[ユダヤ系アメリカ人]]家族と一緒に[[キャッツキル山地]]にあるケラーマン<ref>{{cite web |url=httphttps://gothamist.com/2012arts-entertainment/04/18/resort_from_dirty_dancing_burns_to.phpcatskills-resort-that-inspired-emdirty-dancingem-burns-to-the-ground |title=Catskills Resort That Inspired Dirty Dancing Burns To The Ground|accessdate=7 February 2009}}</ref><ref>{{cite web |url=httphttps://www.mtnlakehotelmtnlakelodge.com/ |title=Mountain Lake Hotel|accessdate=7 February 2009}}</ref>の家族向けリゾートに避暑にやってくる。2人姉妹の妹であるベイビーは[[マウント・ホリヨーク大学]]に進学して[[開発途上国]]の経済学を学び、[[平和部隊]]で[[ボランティア]]に取り組む予定だった。彼女の名は[[アメリカ合衆国大統領顧問団|合衆国内閣]]初の女性閣僚[[フランシス・パーキンス]]にちなんでつけられた。彼女の父ジェイク(ジェリー・オーバック)は、リゾートのオーナー、マックス・ケラーマン(ジャック・ウェストン)の担当医で友人である。ベイビーはマックスの生意気な孫ニール(ロニー・プライス)と友達になる。
 
滞在中ベイビーはリゾートでダンスのインストラクターを務める、労働者階級のエンタテイメント・スタッフのリーダーであるジョニー・キャッスル(パトリック・スウェイジ)に夢中になる。リゾートを散歩中ベイビーはジョニーの優しいいとこのビリーと偶然会い、彼がスイカを従業員控室に運ぶのを手伝う。そこで彼らのシークレット・パーティーと彼らが踊る「ダーティ・ダンシング」つまり[[マンボ]]を初めて目にする<ref>{{cite web |website=Dance.LoveToKnow.com|url=httphttps://dance.lovetoknow.com/Learn_How_to_Dirty_Dance|author=Miller, Gray|title=Learn How to Dirty Dance|accessdate=7 February 2009}}</ref>。このダンスに興味を持ったベイビーはジョニーに即興でダンスを教わる。
 
その後ベイビーは、ジョニーのダンス・パートナー、ペニー・ジョンソン(シンシア・ローズ)がロビー・グールド(マックス・カンター)の子を妊娠して取り乱す場面に出くわす。ロビーは女たらしのウェイターで、ベイビーの姉リサ(ジェーン・ブラッカー)にも近づいていた。ロビーの「大事にされる人もいれば、されない人もいる(''Some people count, some people don't.'' )」という言葉で、彼が妊娠に責任を持つつもりがないことを知ったベイビーは、ペニーの違法[[人工妊娠中絶|中絶手術]]の費用を父に出してもらおうとする。ベイビーは金銭の使途を秘密にして父は最初は渋るがベイビーを信用して結局与える。彼らを助けようとベイビーは、ジョニーとペニーが近隣リゾートのシェルドレイクで毎年取り組んできた重要なパフォーマンスでペニーの代役を務めることになる。ジョニーからダンスを教わるうち、ベイビーの雰囲気も変わり、恋が芽生える。シェルドレイクでの彼らのパフォーマンスはほぼ成功に終わったが、ベイビーはまだダンスのクライマックスでのリフトを怖がっており、その部分は完成していなかった。
 
ケラーマンのリゾートに戻ると、ペニーのヤミ中絶手術が失敗し、ペニーが痛みに苦しんでいることを知る。ベイビーは父に助けを求めるが、ジョニーがペニーの責任を持つと語ったことから父はペニーを妊娠させたのがジョニーだと勘違いする。ペニーの治療は成功するが、父はベイビーが信用を裏切ったことに激怒し、ジョニーやその友人たちと一切関わるなと命ずる。しかしベイビーはその夜、父の言いつけに背き彼の部屋に会いに行き、親密なダンスを踊り一夜を共にする。ジョニーとベイビーの関係は続くが、父に交際を伝えることができず口論となる。ベイビーが彼に会いに行きすぐに仲直りするが、これをロビーが目撃してベイビーを侮辱する。ジョニーは怒り、彼を殴る。
 
ジョニーはリゾート客モー・プレスマンの財布を盗んだという嫌疑をかけられ、アリバイが証明できない。彼のクビを防ぐためベイビーは、その夜自分がジョニーと一緒にキャビンにおり、彼が犯人ではありえないと証言する。シュマッカー夫妻がプレスマンの財布を盗んだことが明らかになり、ジョニーの窃盗容疑は晴れる。しかし客であるベイビーと関係を持ったために結局クビにされる。しかしベイビー の献身的な行為に、ジョニーは「たとえ何を犠牲にしてでも、他人を助けようとする意志を持つ人々が存在する」ことを理解する<ref name=corner>ジョニー: 「誰もベイビーを話したりしないさ。みんな、中断させてすまない。俺は毎年このシーズンの最後に踊ってきたが今年はないと言われた。だが素晴らしいパートナーと踊りたいと思う。彼女は素晴らしいダンサーなだけでなく、たとえ何を犠牲にしてでも、他人を助けようとする意志を持つ人々が存在することを教えてくれた。それを教えてくれたのはミス・フランシス・ハウスマン」</ref>。
 
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== キャスト ==
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
※括弧内は日本語吹替<ref>初放送1989年9月2日 [[フジテレビジョン|フジテレビ]] 『[[ゴールデン洋画劇場]]』 ※コレクターズ・エディションDVDに収録。</ref>
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* フランシス・“ベイビー”・ハウスマン - [[ジェニファー・グレイ]]([[岡本麻弥]])
!rowspan=2|役名
* ジョニー・キャッスル - [[パトリック・スウェイジ]]([[山形ユキオ]])
!rowspan=2|俳優
* ペニー・ジョンソン - [[シンシア・ローズ]]([[高島雅羅]])
!colspan=2|日本語吹替
* ジェイク・ハウスマン - [[ジェリー・オーバック]]([[山内雅人]])
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* マージョリー・ハウスマン - [[ケリー・ビショップ]]([[此島愛子]])
! [[フジテレビジョン|フジテレビ]]版 || [[Netflix]]版<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.office-chirp.com/portfolio/dirtydancing/|title=『ダーティダンシング』|accessdate=2019年9月14日}}</ref>
* リサ・ハウスマン - ジェーン・ブラッカー([[藤生聖子]])
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* マックス・ケラーマン - [[ジャック・ウェストン]]([[宮川洋一]])
*| フランシス・"ベイビー"・ハウスマン -|| [[ジェニファー・グレイ]] || [[岡本麻弥]] || [[林奏絵]]
* ニール・ケラーマン - ロニー・プライス
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* ロビー・グールド - マックス・カンター([[古田信幸]])
*| ジョニー・キャッスル -|| [[パトリック・スウェイジ]] || [[山形ユキオ]] ||
* ビリー・コステッキ - ニール・ジョーンズ([[茶風林]])
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* ヴィヴィアン・プレスマン - ミランダ・ギャリソン([[沢田敏子]])
*| ジェイク・ハウスマン -|| [[ジェリー・オーバック]] || [[山内雅人]] || [[藤田健彦]]
* ティト・スアレス - チャールズ・“ホニ”・コールズ([[北村弘一]])
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* シュマッカー夫人 - ポーラ・トルーマン([[京田尚子]])
*| ペニー・シャョンソ-|| ブルース[[シンシアローズ]] || [[高島雅羅]] || [[秋元羊介広江美奈]]
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* スタン - [[ウェイン・ナイト]]([[島香裕]])
*| マックス・ケラーマン -|| [[ジャック・ウェストン]]( || [[宮川洋一]] || [[中野健治]]
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*| リサ・ハウスマン -|| ジェーン・ブラッカー || [[藤生聖子]] || [[工藤史子]]
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*| マージョリー・ハウスマン -|| [[ケリー・ビショップ]] || [[此島愛子]] || [[青紀ともこ]]
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*| ニール・ケラーマン -|| ロニー・プライス || || [[中山裕康]]
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*| ロビー・グールド -|| マックス・カンター || [[古田信幸]] || [[神保良介]]
|-
*| ティト・スアレス -|| チャールズ・"ホニ"・コールズ || [[北村弘一]] || [[六川潔]]
|-
*| ビリー・コステッキ -|| ニール・ジョーンズ || [[茶風林]] || [[早川孝史]]
|-
| マジシャン || "カズン・ブルーシー"・モロー || [[秋元羊介]] || [[中村だいぞう]]
|-
*| スタン -|| [[ウェイン・ナイト]] || [[島香裕]] ||
|-
*| シュマッカー夫人 -|| ポーラ・トルーマン || [[京田尚子]] || [[本田毬樹]]
|-
| シュマッカー || アルヴィン・マイエロヴィッチ || || 六川潔
|-
*| ヴィヴィアン・プレスマン -|| ミランダ・ギャリソン || [[沢田敏子]] || [[杉村こずえ]]
|-
|}
※括弧内は日本語吹替<ref>* フジテレビ版:放送1989年9月2日 [[フジテレビジョン|フジテレビ]] 『[[ゴールデン洋画劇場]]』 ※[[Blu-ray Disc]]&コレクターズ・エディション[[DVD]]に収録。</ref>
 
== サウンドトラック ==
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# あたしの[[ビー・マイ・ビー''[[::en:Be My Baby(ザ・ロネッツの曲)|Be My Babyビー・マイ・ベイビー]]'' – [[ザ・ロネッツ]]
# 恋はヤセがまん''[[::en:Big Girls Don't Cry (The Four Seasons song)|Big Girls Don't Cry]]'' – [[フランキー・ヴァリ]] and [[フォー・シーズンズ]]
# ホエア・アー ・ユー・トゥナイト''Where Are You Tonight?'' – [[トム・ジョンストン]]
# ''[[::en:Do You Love Me|Do You Love Me]]'' – コントゥアズ
# ''[[::en:Love Man|Love Man]]'' – [[オーティス・レディング]]
# ''[[::en:Stay (Maurice Williams song)|Stay]]'' – モーリス・ウイリアムズ・アンド・ザ・ゾディアックス
# ハングリー・アイズ''[[::en:Hungry Eyes|Hungry Eyes]]'' – [[エリック・カルメン]]
# ''Overload'' – ザッパコスタ
# ''[[::en:Hey! Baby|Hey! Baby]]'' – ブルース・チャネル
# ''De Todo Un Poco'' – メロン
# ''[[::en:Some Kind of Wonderful|Some Kind of Wonderful]]'' – [[ドリフターズ (アメリカ)|ドリフターズ]]
# ''These Arms Of Mine'' – オーティス・レディング
# ''[[::en:Cry to Me|Cry to Me]]'' – [[ソロモン・バーク]]
# ''[[::en:Will You Love Me Tomorrow|Will You Love Me Tomorrow]]'' – シュレルズ
# ''[[::en:Love Is Strange|Love Is Strange]]'' – ミッキー&シルヴィア
# ''[[::en:You Don't Own Me|You Don't Own Me]]'' – [[ブロウ・モンキーズ]]
# ''Yes'' – [[メリー・クレイトン]]
# 夜のしじまに''[[::en:In the Still of the Night (The Five Satins song)|In the Still of the Night]]'' – ファイヴ・サテンズ
# ''[[::en:She's Like the Wind|She's Like the Wind]]'' – [[パトリック・スウェイジ]]
# タイム・オブ・マイ・ライフ''[[::en:(I've Had) The Time of My Life|(I've Had) The Time of My Life]]'' – [[ビル・メドレー]] and [[ジェニファー・ウォーンズ]]
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* "Note": リサ役のジェーン・ブラッカーが『''Hula Hana'' 』を作曲した<ref>{{cite news|url= httphttps://www.people.com/people/archive/articledifferent-moves-vol-57-no-10/0,,20136607,00.html |title=Different Moves |work=People}}</ref>
 
== 制作 ==
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『ダーティ・ダンシング』は、脚本家エレノア・バーグスタイン自身の子ども時代の経験に基づいて描かれている。彼女はニューヨークのユダヤ人ドクターの娘であり、家族と共にキャッツキルで夏を過ごし、「ダーティ・ダンシング」コンテストに参加、少女時代はベイビーと呼ばれていた。1980年、バーグスタインは[[マイケル・ダグラス]]主演の映画『It's My Turn』の脚本を書いた。しかし映画のプロデューサーになまめかしいダンス・シーンをカットされ、ひどく落胆することになる。彼女は新しい物語に取りかかり、ほとんどダンス一本に絞りこんだ。1984年、[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]役員のアイリーン・ミゼルに原案を提出して気に入られ、バーグスタインとプロデューサーのリンダ・ゴットリーブはチームとなる。彼女らは映画の舞台を1963年に設定、バーグスタイン自身の人生に基づいてベイビーのキャラクターを考え、ジョニーのキャラクターはマイケル・テラスを基に設定した。マイケルは1985年、物語のリサーチで訪れたキャッツキルでバーグスタインが出会ったダンス・インストラクターである。彼女は1985年の11月に脚本を書き上げたが、MGMの経営状態が変わり、脚本はお蔵入りもしくは保留状態となった。バーグスタインは脚本を他のスタジオに持ち込んだが断られ続け、ようやく関心を示したのが[[センチュリー・シティ]]に新しくできたスタジオ、[[メディアリーヴス|ベストロン映画]]社長の[[オースティン・フルスト]]だった。ベストロンの副社長[[ミッチェル・キャノルド]]自身も子ども時代にキャッツキルで過ごしたことがあり、この脚本に興味を持った。彼と、もう一人の副社長ドリ・ベリンスタインは映画の資金調達を始めることに同意、ふさわしい監督を探すよう求めた。ゴットリーブとバーグスタインが選んだのは、[[エミール・アルドリーノ]]であった。彼は1983年のドキュメンタリー『He Makes Me Feel Like Dancin'』で[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞]]を受賞していた。アルドリーノは主要作品を監督したことはなかったが、プロジェクトに熱心に取り組み、[[陪審員]]義務で隔離されている場所から、自分が最も監督にふさわしいというメッセージを送りさえした。映画は認可され、500万ドルという低い予算が組まれた。当時映画の平均予算は1200万ドルであった<ref>{{cite video |people=Bergstein, Eleanor, producer |date=2007 |title=Dirty Dancing: 20th anniversary |format=DVD |publisher=Lions Gate | quote=Tribute to Emile Ardolino }}</ref>。
 
バーグスタインは振付師に[[ケニー・オルテガ]]を選んだ。オルテガは伝説的ダンサーの[[ジーン・ケリー]]に鍛えられていた<ref name=ode>{{cite news|url=httphttps://www.sfgate.com/cgi-binentertainment/article.cgi?file=/chronicle/archive/2003/01/16/DD168837Choreographer-Kenny-Ortega-s-ode-to-disco-TV-2679479.DTLphp |title=Choreographer Kenny Ortega's ode to disco|date=2003-01-16|work=[[San Francisco Chronicle]]|author=Hartlaub, Peter }}</ref>。映画のロケーションとして、キャッツキルに適当な場所を見つけられなかったので、彼らは、[[ノースカロライナ州]]レイク・ルアーと[[バージニア州]]ロアノークに程近いマウンテン・レイクの、2つの場所を組み合わせ、慎重に編集を行って、すべての撮影が同じエリアで行われたように見せることにした<ref name=asheville>{{cite news|title='Dirty Dancing' marks 20 years with return to big screen|date=2007-04-30|work=[[::en:Asheville Citizen-Times|Asheville Citizen-Times]]|author=Clark, Paul|accessdate=2007-05-26}}</ref>。
 
=== キャスティング ===
アルドリーノ監督は、演技もできるダンサーにこだわった。彼は、1983年の映画『[[フラッシュダンス]]』で採られたような「ダンス吹き替え」方式の適用を望んでいなかった。ヒロインのベイビーことフランシス・ハウスマンに、バーグスタインは26歳のダンサー、[[ジェニファー・グレイ]]を選んだ。彼女は1972年の映画『[[キャバレー (1972年の映画)|キャバレー]]』でオスカーを獲得した俳優[[ジョエル・グレイ]]の娘でもあり、父同様、ダンスがうまかった。主演男優にと最初に彼らが考えたのは、20歳の[[ビリー・ゼイン]]だった。当初ジョニー役は浅黒いエキゾチックなイタリア人という設定になっており、この意味でゼインの外見はぴったりだったが、グレイと組んでダンスのテストをしてもしっくりしなかった。次に考慮されたのが34歳の[[パトリック・スウェイジ]]で、『[[アウトサイダー (1983年の映画)|アウトサイダー]]』やグレイと共演した『[[若き勇者たち]]』での演技が目に留まったのだった。スウェイジは[[ジョフリー・バレエ団]]出身でダンス経験も豊富だった。プロデューサーらはスウェイジを希望したが、彼のマネージャーはこの案に反対した。脚本を読んだスウェイジがジョニーの多面的性格を気に入り、ジョニーの設定はイタリア系からアイルランド系に変更された。グレイはこの選択を歓迎しなかったが、これは『若き勇者たち』撮影の際、スウェイジとうまくいかなかったからである。しかし実際に二人が会ってダンスのスクリーン・テストにこぎつけると、その相性の良さは明らかであった。バーグスタインは「息をのむようだった」と表現している<ref name=story>''Dirty Dancing'', [[::en:The E! True Hollywood Story|The E! True Hollywood Story]], first aired September 3, 2000</ref>。
 
他に、ベイビーの父で医師のジェイク・ハウスマン役に[[ブロードウェイ]]俳優の[[ジェリー・オーバック]]が、ベイビーの姉リサ・ハウスマン役には[[ジェーン・ブラッカー]]が選ばれた。バーグスタインはまたシュマッカー夫人役に、友人でセックス・セラピストの医師[[ルース・ウェストハイマー]]を、その夫役に[[ジョエル・グレイ]]を振り当てようとした。しかしシュマッカー夫人が[[窃盗症|クレプトマニア]]患者役であることを知ってウェストハイマーは手を引き、代わりに79歳のポーラ・トルーマンに役が振られ、ジョエル・グレイもキャスティングから外された。ニューヨークのラジオ・パーソナリティで友人の[[ブルース・モロー]]を、バーグスタインは最初、ソーシャル・ディレクター役に振り当てようとしたが、後でマジシャン役を依頼している。ソーシャル・ディレクターの役は、当時無名の[[ウェイン・ナイト]](のちに『[[となりのサインフェルド]]』や『3rd Rock from the Sun』で有名になった)に振り当てられた<ref>{{cite news|title=You may know Wayne Knight whether you know you do or not|date=1992-11-07|author=Moore, Frazier|work=[[Chicago Tribune]] (AP)}}</ref>。ベイビーの母役は、始めリン・リプトンに決定しており、冒頭ハウスマン一家がケラーマンのリゾートに到着する場面で、リプトンが前の座席に座っているのが数秒映っているが、金髪が確認できる程度である。リプトンは撮影開始直後に病気になり、性欲豊かなリゾート客ヴィヴィアン・プレスマン役がすでに決定していた[[ケリー・ビショップ]]に役が回った。ビショップがハウスマン夫人の役に移って、映画の振付アシスタントだった[[ミランダ・ギャリソン]]がヴィヴィアン役を演じた<ref name=dvd>{{cite video|date=2007|title=Dirty Dancing: 20th anniversary|format=DVD|publisher=Lions Gate}}</ref><ref>Some scenes shot with Lipton in the role of Mrs. Houseman, can be viewed on the 20th anniversary ''Dirty Dancing'' 2007 DVD</ref>。
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=== 撮影 ===
[[Image:Otrada4.JPG|thumb|right|255px|[[キャッツキル山地]]における典型的なファミリー・リゾート地]]
既に夏は終りに近づいており、リハーサルに2週間、撮影には44日しか充てられないという過密スケジュールだった。キャストは[[バージニア州]]ペンブロークのマウンテン・レイク・リゾートのホテルに宿泊し、急いでリハーサルを済ませると、ジャック・ウェストンなど踊らないキャストも含めて、ほとんど全キャストが出演するディスコ・パーティーの撮影に入った<ref>The hotel is the Mountain Lake Hotel, and it now offers "Dirty Dancing weekends." {{cite web|url=httphttps://www.mountainlakehotelmtnlakelodge.com/ |title=Mountain Lake Hotel Home Page|accessdate=2008-03-04}}</ref>。ダンスと酒はほとんどノンストップで続き、この環境の中、主役のグレイとスウェイジは、役柄に合わせたキャラクターを身につけ始めた。バーグスタインはこれを基に、俳優たちが自分たちの感覚に任せてアドリブで演じるのを奨励した。彼女はまたセクシュアルな緊張感を生み出すため、ダンスのステップがいかに親密で「挑発的」でも、ダンサーは全員半年間、他のどんな種類の身体的接触をも避けなければならない、と宣言した<ref name=story/>。
 
撮影は1986年9月5日にスタートしたが、降雨だったりうだるような暑さだったりの天候に悩まされた。外気温が41°Cまでになった上に、撮影に要したカメラや照明のために、内部の温度は 49°C 程になったこともあった。振付師のケニー・オルテガによれば、20分間の撮影で10人が気絶した日もあったという。年長のポーラ・トルーマンは卒倒し、地元の緊急治療室に運びこまれて脱水症状の治療を受けた。パトリック・スウェイジもまた病院へ行く羽目になった。スタントマンは必要ないと主張し、「バランス」の場面で繰り返し丸太から落下した結果、膝をひどく痛め、腫れから体液を抜かねばならなくなった<ref name=story/>。
 
撮影が遅れて秋に食い込むことになったため、美術担当は秋の葉を緑にペイント・スプレーして凌いだ。気まぐれな天気は正反対の方向に傾き、息苦しいほどの暑さから急激に下がって、気温は4°Cになった。その結果、有名な水泳シーンは10月の非常に寒い環境下で撮影された。スタッフは温かいコート、手袋、ブーツを身に着けていたが、スウェイジとグレイは夏の軽装で、繰り返し冷たい水に飛び込んだ<ref name=asheville/>。その楽天的な性格にかかわらず、グレイはのちに水が「ものすごく」冷たかったと述べ、もし「若くてハングリー」でなかったなら湖に飛び込まなかったかもしれないと言っている<ref name=dvd/>。
 
2人の主役の関係は、撮影を通じて変化していった。前の共演作『若き勇者たち』で、既に彼らはいがみ合っていた。スクリーン・テストを受けた時には、非常にポジティブに事は運んだが、最初の協力体制はすぐに消え、あらゆるシーンの前に「対決する」ようになった<ref name="story"/>。制作スタッフの間では、主役2人の敵愾心のせいで、ラブシーンの撮影が失敗するのではないか、という懸念が生まれていた。この問題の解決に向け、プロデューサーのバーグスタインとアルドリーノ監督は、最初の「息をのむような」相性だったスクリーン・テストを、もう一度見るよう主役2人に命じた。これが望ましい効果を得て、スウェイジとグレイはエネルギーと熱意をもって、再び撮影に取り組むことができた<ref name=dvd/>。
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さらに、スポンサー会社が映画を宣伝するかどうかでまた論争が起きた。ニキビ用製品[[クレアラシル]]の発売元は、この映画を、広告ターゲットである10代の若者に向けた情報媒体とみなしていた。しかし映画に中絶シーンが含まれることを知ると、その部分をカットするように求めた。バーグスタインが拒絶すると、クレアラシルはプロモーションを降りた。そこでベストロンが自社で映画をプロモートし、1987年8月16日を公開初日と設定した。ベストロン社重役は、週末の劇場で映画を封切る計画を立て、次いでそれをまっすぐホームビデオ部に送った。ベストロン社は映画作製に携わる以前は、ビデオ配給業務を扱っていたからである<ref name=guardian/>。この時点で、どれほど多くの人々がこの映画を好まなかったかを考え、プロデューサーのゴットリーブは当時の心情を、「封切りの時に『もし』人々が私をどやしつけなかったなら、わたしはひたすら感謝しただけだったろう」と語っている<ref name=story/>。
 
== ==
映画が公開された1987年8月16日付けの『[[ニューヨーク・タイムズ]]』批評欄は、「ダーティ・ダンシングの純粋なビートが心を揺さぶる Dirty Dancing Rocks to an Innocent Beat.」という見出しを載せた。『タイムズ』の批評家は映画を「1963年夏のアメリカの[[メタファー]] - 規律正しく、裕福で、良識にあふれた、一種のユダヤ風[[キャメロット]]」と呼んだ<ref>{{cite news|url=httphttps://selectquery.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40712F83A5C0C758DDDA10894DF484D81&showabstract=1&legacy=true&status=nf |title = 'Dirty Dancing' Rocks to an Innocent Beat |date=1987-08-16|author=Freedman, Samuel G. |work=[[ニューヨーク・タイムズ]]|page=A19|accessdate=2008-05-03}}</ref>。他の評価は、さまざまに別れた。[[ジーン・シスケル]]は、[[ジェニファー・グレイ]]の演技やキャラクターの成長が気に入り、映画を「悪くない marginal Thumbs Up」と評したが、[[ロジャー・イーバート]]は「プロットがばかばかしい」から「だめだ Thumbs Down 」と言い<ref>{{cite web|url=http://bventertainment.go.com/tv/buenavista/ebertandroeper/index2.html?sec=1&subsec=1410|author=[[ジーン・シスケル|Siskel, Gene]], [[ロジャー・イーバート|Ebert, Roger]]|title=Video review on ''Siskel & Ebert and The Movies''|date=1987-08-21|accessdate=2008-03-04|archiveurl=https://archive.is/20080504150919/http://bventertainment.go.com/tv/buenavista/ebertandroeper/index2.html?sec=1&subsec=1410|archivedate=2008年5月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、「異なる背景を持つ子ども同士の、たいくつで、簡単に先が読める愛の物語」だとした<ref name=ebert>{{cite web|url=httphttps://rogerebertwww.suntimesrogerebert.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19870821/REVIEWS/708210301/1023|author=Ebert, Roger|title=Review of ''Dirty Dancing''|work=[[シカゴ・サンタイムズ]]|date=1987-08-21|accessdate=2007-06-07}}</ref>。『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌はあまり熱意を示さず、「エリノア・バーグスタインの脚本が、もし最後もっと手際良く感動的であれば、映画の歌やダンスの持つラフなエネルギーが見る者を感動させ、分別のささやく疑いをやり過ごさせただろう。」と評した<ref>{{cite journal|url=httphttps://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,965450,00.html|title=Cinema: Teenage Turmoil|author=Schickel, Richard |date=1987-09-14|accessdate=2007-06-08|magazine=[[タイム (雑誌)|タイム]]}}</ref>。
 
批評記事には関係なく、映画は、予想されていたような10代ではなく、大人の観客を引きつけ、彼らに「再度観る価値あり」と高く評価された<ref name=dvd/>。
多くの観客が、映画を一度見た後、二度目を観るために本当に劇場に戻った<ref name=dvd/>。口コミにより映画は全米1位となり、10日で1,000万ドルの記録を突破した。11月までには国際的な評価も得て、封切り7か月以内に6,300万ドルを売り上げ、アメリカ中にダンス・ブームをもたらした<ref name=story/>。
 
『ダーティ・ダンシング』は1987年の映画のうち、最高益を生みだしたものの1つとなり、世界で1億7,000万ドルの利益を上げた<ref name=underworld>{{cite web|url=httphttps://ethicscenter.nd.edu/archives/documents/Wians.pdf|title=Baby in the Underworld: Myth and Tragic Vision in ''Dirty Dancing''|last=Wiams|first=William|date=2004-11-20|accessdate=2008-04-06|format=pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070609232838/http://ethicscenter.nd.edu/archives/documents/Wians.pdf|archivedate=2007年6月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name=Age>{{cite news|url=httphttps://www.theage.com.au/newsentertainment/Artsart-and-design/Privateprivate-dancers/2005/06/14/1118645804253-20050615-ge0cia.html|title=Private Dancers|date=2005-06-15|work=[[The Age]]|accessdate=2007-05-26}}</ref>。
 
映画の支持率は、封切りののちも上昇し続けた。1988年のレンタル率は1位となり<ref>{{cite news|work=The Orlando Sentinel|date=1988-12-30|title=Home Video Top Cassettes of 88 from ''Billboard magazine''}}</ref>、映画ビデオとしては初めて100万部を売り上げた。オリジナルの封切りから10年後の1997年に、映画が再公開された時には、[[パトリック・スウェイジ]]が[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]に自身の星を彫られ<ref name=nyt-1997/>、ビデオの売り上げも月に40,000部以上を保っていた<ref name=nyt-1997>{{cite news|date=1997-08-17|author=Kolson, Ann |work=[[ニューヨーク・タイムズ]]|page=2.11|title=Fairy Tale Without an Ending}}</ref>。2005年の段階でDVDは年に100万部<ref name=lion-1>{{cite news|url=httphttps://www.thestreet.com/stocks/sandybrown/10232495.html|title=Lions Gate grabs Swayze Rights|date=2005-07-14|author=Brown, Sandy|publisher=TheStreet.com|accessdate=2008-03-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080118161145/http://www.thestreet.com/stocks/sandybrown/10232495.html|archivedate=2008年1月18日|deadurldate=2017年9月}}</ref>、2007年の段階で1,000万部以上を売り上げている<ref name=usatoday>{{cite news|author=Snider, Mike|url=httphttps://wwwusatoday30.usatoday.com/life/movies/news/2007-04-23-dirty-dancing_N.htm |title=Dirty Dancing: Baby's Out of the Corner|date=2007-04-24 | work=[[USAトゥデイ]] |accessdate=2007-05-26}}</ref>。
 
英国のスカイ・ムービーによる2007年5月の調査では、『ダーティ・ダンシング』は「最も女性が観た映画」1位に輝き、『[[スター・ウォーズ・シリーズ|スター・ウォーズ]]』三部作や『[[グリース (映画)|グリース]]』、『[[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]]』、『[[プリティ・ウーマン]]』より上位にランク付けされた<ref name=obsession>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6629907.stm | title=Star Wars 'is top film obsession' | date=2007-05-06|accessdate=2008-03-17|work=BBC News}}</ref>。その人気ぶりから、「女の子のための『スター・ウォーズ』」と呼ばれるようにもなった<ref name=bbc>{{cite web|author=Winterman, Denise|url=http://news.bbc.co.uk/12/hi/uk_news/magazine/6076808.stm |title="The Time of Your Life"|date=2006-10-24|accessdate=2007-05-15|work=BBC News}}</ref><ref name=rewind>{{cite web|author=Alaway, Nick |url=httphttps://www.fast-rewind.com/ddance.htm |title="Dirty Dancing"|date=2001-01-14|accessdate=2007-09-04|work=Fast Rewind}}</ref><ref name=cnn>{{cite news|url=httphttps://edition.cnn.com/2006/SHOWBIZ/10/25/insider.dirtydancing/index.html|title=The insider's guide to 'Dirty Dancing'|date=2006-10-25|accessdate=2007-05-26|publisher=CNN}}</ref>。英国の『[[デイリー・メール]]』誌2008年4月の記事で『ダーティ・ダンシング』は、ベイビーのセリフ「この部屋を出たら、これからの人生、あなたと一緒だった時のような思いは2度とないと思うと怖い I'm scared of walking out of this room and never feeling the rest of my whole life the way I feel when I'm with you.」など「これまでに最も引用された恋愛映画」1位にランク付けされた<ref>{{cite news|url= |title=From Bogart to McGregor: The top ten most romantic movie quotes ever|date=2008-02-01|accessdate=2008-05-03|work=Daily Mail|author=Yaqoob, Tahira|quote=I'm scared of walking out of this room and never feeling the rest of my whole life the way I feel when I'm with you}}</ref>。映画の音楽もまたかなりの影響力があった。エンディング・テーマ「[[:en:(I've Had) The Time of My Life|(I've Had) The Time of My Life]]」は、英国で「最も葬式で流されたポピュラー・ソング」3位に挙げられた<ref name=bbc/>。
 
=== 受賞歴 ===
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**(受賞)[[ゴールデングローブ賞 主題歌賞|主題歌賞]]<ref name=campbell/>
**(ノミネート)[[ゴールデングローブ賞 作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)|作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)]]
**(ノミネート)[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)| 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)]]
**(ノミネート)[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)| 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)]]
*[[グラミー賞]]
**(受賞)最優秀ポップパフォーマンス賞デュオ/グループ<ref name=chicago/>
**(ノミネート)[[グラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門|映画・テレビサウンドトラック部門]]<ref name=campbell>{{cite news|title=On the way to a singing career, he found success as a songwriter|date=1988-03-21|work=[[::en:Daily News of Los Angeles|Daily News of Los Angeles]]|author=Campbell, Mary (Associated Press)}}</ref>
<!--[[Golden Globe Awards]], 1988<ref>{{cite news|title=Three films receive five Golden Globe nominations|date=1988-01-07|Bigelow, Bruce | publisher=Associated Press}}</ref>
** (won) [[Golden Globe Award for Best Original Song|Best Original Song]]<ref name=campbell/>
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** (won) [[Grammy Award for Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocal|Best Pop Performance by a Duo]]<ref name=chicago/>
** (nominated) [[Grammy Award for Best Song Written for a Motion Picture, Television or Other Visual Media|Best Song written for a Motion Picture, Television or Other Visual Media]]<ref name=campbell>{{cite news|title=On the way to a singing career, he found success as a songwriter|date=1988-03-21|work=[[Daily News of Los Angeles]]|author=Campbell, Mary (Associated Press)}}</ref>-->
* [[アメリカ映画協会ン・フィルム・インスティチュート]]「[[AFIアメリカ映画100年シリーズ]]」
** [[情熱的な映画ベスト100]] 第93位 <ref>{{cite web|url=httphttps://www.afi.com/Docs/tvevents/pdf/passions100.pdf|format=PDF|title=AFI’s 100 YEARS…100 PASSIONS America’s Greatest Love Stories|year=2002|accessdate=2008-03-13|publisher=AFI}}</ref>
** [[アメリカ映画主題歌ベスト100]] 第86位 "(I've Had) The Time of My Life"<ref>{{cite web|url=httphttps://www.afi.com/Docs/tvevents/pdf/songs400.pdf|title=AFI’s 100 Years…100 Songs|accessdate=2008-03-13|publisher=[[American Film Institute|AFI]]|format=pdf|year=2004}}</ref>
** [[アメリカ映画の名セリフベスト100]] 第98位 「誰もベイビーを離したりしないさ 」<ref>{{cite news|title=AFI's top 100 movie quotes|work=[[CNN]]|date=2005-06-22}}</ref>
<!--* Three installments of the [[American Film Institute]]'s [[AFI 100 Years... series]]:
** 2002, [[AFI's 100 Years... 100 Passions]], #93<ref>{{cite web|url=httphttps://www.afi.com/Docs/tvevents/pdf/passions100.pdf|format=PDF|title=AFI’s 100 YEARS…100 PASSIONS America’s Greatest Love Stories|year=2002|accessdate=2008-03-13|publisher=AFI}}</ref>
** 2004, [[AFI's 100 Years... 100 Songs]], #86 with the Academy Award-winning song "[[(I've Had) The Time of My Life]]"<ref>{{cite web|url=httphttps://www.afi.com/Docs/tvevents/pdf/songs400.pdf|title=AFI’s 100 Years…100 Songs|accessdate=2008-03-13|publisher=[[American Film Institute|AFI]]|format=pdf|year=2004}}</ref>
** 2005, [[AFI's 100 Years... 100 Movie Quotes]], #98 for Johnny's famous line "Nobody puts Baby in a corner"<ref>{{cite news|title=AFI's top 100 movie quotes|work=[[CNN]]|date=2005-06-22}}</ref>-->
 
== 音楽 ==
ダンスのリハーサルや映画のいくつかのシーンには、バーグスタインが個人的に集めていた[[ドイツ・グラモフォン|グラモフォン]]・レコードの音楽が使われた。映画に音楽をあてる時期になると、ベストロン社はジミー・アイナーを音楽監督に任命した。アイナーは、過去に[[ジョン・レノン]]や[[スリー・ドッグ・ナイト]]の歌やアルバムをプロデュースしたこともある人物で、映画撮影時に使われた音楽にこだわり、バーグスタインが集めていた歌の使用ライセンスを取った。彼はまた、新曲『''[[::en:She's Like the Wind|She's Like the Wind]]'' 』を歌うよう[[パトリック・スウェイジ]]に協力を求めた。スウェイジは数年前[[ステイシー・ウィデリッツ]]と共に、1984年の映画『''[[::en:Grandview, U.S.A.|Grandview, U.S.A.]]'' 』で使用するためにこの曲を製作していたのである<ref name=story/>。
 
映画の背景音楽は、[[ジョン・モリス]]が作曲した。ケラーマンの発表会シーンの歌の歌詞は映画のために書き下ろされたが<ref name=dvd/>、よく母校を象徴する歌とされる「アニー・ライル」もまた歌われた<ref>{{cite news|title=School searches for song of itself|date=2007-12-26|author=Gardinier, Bob|work=Times Union}}</ref>。
 
[[ケニー・オルテガ]]とアシスタントのミランダ・ギャリソンは、それぞれすべてのテープを聞き、フィナーレの曲を選んだ。その中で最後に聞いた曲『''[[::en:(I've Had) The Time of My Life|The Time of My Life]]'' 』がイメージにぴったりだったとオルテガは語っている<ref name=campbell/>。それから[[ビル・メドレー]]と[[ジェニファー・ウォーンズ]]による録音が行われたとアイナーは説明している。『''The Time of My Life'' 』は1988年の[[グラミー賞]] 最優秀デュエット賞、[[アカデミー歌曲賞]]、[[ゴールデングローブ賞 主題歌賞]]を獲得した<ref name=campbell/><ref name=chicago>{{Cite news|date=1988-06-26|title=Dirty Dancing: The movie, the music, the money|author=Hoekstra, Dave |work=Chicago Sun-Times}}</ref>。
 
[[エリック・カルメン]]などが参加した映画のサウンドトラックは、オールディーズのリバイバル集となり<ref>{{cite book|title=The American Martial Arts Film|author=Lott, M. Ray|page=71|year=2004|publisher={{仮リンク|McFarland|en|McFarland & Company}}|isbn=0-7864-1836-2}}</ref>、その売り上げは[[RCAレコード]]社をも驚愕させた。[[フランク・プリヴァイト]]によると、シングルが発売される前ですでに、100万枚の追加注文があったという<ref name=story/>。
 
サウンドトラック・アルバム『''[[::en:Dirty Dancing (soundtrack)|Dirty Dancing]]'' 』は、[[Billboard 200]]のアルバム売上で、18週間も販売数1位を維持、11回プラチナディスクとなり、世界中で3,200万部以上を売り上げた<ref>{{cite news|url=httphttps://www.hindustantimes.com/Entertainment/Music/Those-chart-busters/Article1-356957.aspx |title=Those chart busters |last=Taneja |first=Nikhil |publisher=[[::en:The Hindustan Times|The Hindustan Times]] |accessdate=2013-04-28 |date=2008-12-09}}</ref><ref>{{cite web |url=http://havanajournal.com/culture/entry/black_eyed_peas_go_dirty_dancing_havana_nights/ |title=Black Eyed Peas go Dirty Dancing - Havana Nights|publisher=Havana Journal |date=2004-02-08|accessdate=2013-04-28}}</ref>。1988年2月に発売された2枚目のアルバム『''[[::en:More Dirty Dancing|More Dirty Dancing]]'' 』も、何度かプラチナアルバムを獲得した<ref>{{cite web|url=http://www.whedon.info/article.php3?id_article=8624|title=Zuma Beach Ent. Appointments President and Completes Acquisition|date=2005-03-03|publisher=whedon.info|accessdate=2007-06-28}}</ref>。
 
アルバムからの曲でチャート入りしたものを以下に示す:<ref name=campbell/>
* ''[[::en:(I've Had) The Time of My Life|(I've Had) The Time of My Life]]'' 、[[ビル・メドレー]]&[[ジェニファー・ウォーンズ]]歌唱、フランク・プリヴァイト、ジョン・デニコラ、ドナルド・マーコウィッツ作曲 - ポップ・チャート第1位<ref name=billboard>{{cite web|url={{BillboardURLbyName|artist=soundtrack|chart=all}}|title=Dirty Dancing discography|publisher=Billboard.com|accessdate=2008-03-06|archiveurl = httphttps://web.archive.org/web/20080612131930/{{BillboardURLbyName|artist=soundtrack|chart=all}} |archivedate = June 12, 2008|deadurl=yes}}</ref>
* ''[[::en:She's Like the Wind|She's Like the Wind]]'' 、主演[[パトリック・スウェイジ]]歌唱、リー&ステイシー・ウィルデリッツ作曲 - 1988年、最高第3位
* ''[[::en:Hungry Eyes|Hungry Eyes]]'' 、[[エリック・カルメン]]歌唱、フランク・プリヴァイト、ジョン・デニコラ作曲 - 1988年、最高第4位
* ''Yes'' 、[[メリー・クレイトン]]歌唱、ニール・キャヴァナ、テリー・フライヤー、トム・グラフ作曲 - 1988年、最高第45位
 
この映画によりオールディーズの人気が再燃し、コントゥアズはシングル『''[[::en:Do You Love Me|Do You Love Me]]'' 』を再び出版した。この曲は映画で使用されたにも関わらず、最初のサウンドトラック・アルバムには含まれず、2枚目のサウンドトラック・アルバムに含まれた。1962年に第3位となっていたこの曲は再出版でまた大ヒットして最高第11位となった。
 
== 影響 ==
1990年代にグレイは鼻形成術を受けたため、もはやベイビーのキャラクターとはかけ離れてしまった<ref>{{cite web|url=httphttps://www.contactmusic.com/dirty-dancing/news.nsf/story/dirty-dancer-greys-nightmare-nose-job_1012171|date=October 29, 2006|accessdate=January 19, 2010|publisher=contactmusic.com|title=Dirty Dancing&nbsp;— Dirty Dancer Grey's nightmare nose job}}</ref>。『ダーティ・ダンシング』以降彼女は当たり役がない<ref>{{cite news|title=It's Like, Uh ... Jennifer Grey|author=Hamilton, Kendall |work=Newsweek|date=1999-03-22|pages=73–74}}</ref>。
 
興行収入で大成功をおさめたにも関わらず、ヴェストロン・ピクチャーズは資金不足に陥った。1990年、親会社のヴェストロン・ビデオは破産し<ref name=story/>、1991年1月、2,600万ドルでライヴ・エンタテイメントに買収された。現在『ダーティ・ダンシング』の権利は2003年にアーティザン・エンタテイメントを買収した[[ライオンズゲート]]が所有している<ref name=lion-1/>。
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映画撮影時にはすでにブロードウエイ俳優として成功をおさめていたオーバックは、その後も1991年のディズニー映画『[[美女と野獣 (アニメ映画)|美女と野獣]]』の燭台[[ルミエール (美女と野獣)|ルミエール]]の声、1992年から亡くなる2004年まで出演し続けた犯罪ドラマ『[[ロー&オーダー]]』のレニー・ブリスコー役など様々な分野で活躍した<ref>{{cite news|title=Master actor exits to ringing applause|date=2005-01-10|work=Newcastle Herald}}</ref>。
 
振付師のオルテガは1992年の映画『[[ニュージーズ]]』<ref name=ode/>、2006年開始の『[[ハイスクール・ミュージカル]]』シリーズなど著名な作品で振付を行なった<ref>{{cite news|title=How a Disney made-for-TV movie suddenly became ... A 'high school' craze|date=2007-01-21|work=St. Louis Post Dispatch|author=Newmark, Judith }}</ref>。また『ダーティ・ダンシング』に出演していたケリー・ビショップが主演した『[[ギルモア・ガールズ]]』のいくつかのエピソードなど、映画やテレビの監督としても活躍している<ref name="gg">[httphttps://www.imdb.com/title/tt0238784/fullcredits Full cast and crew for ''Gilmore Girls''] on Internet Movie Database. Retrieved on 2008-04-12.</ref>。
 
[[ノースカロライナ州]][[レイク・ルーア (ノースカロライナ州)|レイク・ルーア]]ではア・ルーア・ダンサーズによるダーティ・ダンシング・レビュー、挿入歌『''Stay'' 』のソウル歌手モーリス・ウイリアムズ、ビリー・スコット・アンド・ザ・プロフェッツなどが登場するダーティ・ダンシング・フェスティバルが毎年開催される<ref>{{cite web|url=httphttps://www.dirtydancingfestival.com/ |title=HOME |publisher=Dirtydancingfestival.com |date= |accessdate=2014-03-19}}</ref>。
 
夏季の間、ケラーマンのホテルの舞台となった[[バージニア州]]ペンブロークにあるマウンテン・レイク・ロッジは月に一度「ダーティ・ダンシング・ウイークエンド」を開催している<ref>{{cite web|url=httphttps://www.mountainlakehotelmtnlakelodge.com/ |title=Mountain Lodge Virginia – Resorts in Virginia &#124; Mountain Lake Lodge |publisher=Mountainlakehotel.com |date= |accessdate=2014-03-19}}</ref>。
 
『ダーティ・ダンシング』の台詞やシーンはポピュラー・カルチャーに取り入れられている。ジョニーの台詞「誰もベイビーを離したりしないさ(''Nobody puts Baby in a corner.'' )」は『[[ヴェロニカ・マーズ]]』第2シーズン29話『''[[::en:Nobody Puts Baby in a Corner|Nobody Puts Baby in a Corner]]'' 』(邦題『反省ノート』)、[[フォール・アウト・ボーイ]]の曲など、題名や歌詞として取り入れられている。またドラマ『[[スーパーナチュラル]]』ではディーン([[ジェンセン・アクレス]])が大事な[[シボレー・インパラ|インパラ]]と弟のサム([[ジャレッド・パダレッキ]])のことを心配し、スウェイジの映画から「''Nobody puts Baby in a corner.'' 」「''Swayze always gets a pass.'' 」と語る。またウエブコミック『''[[::en:Looking for Group|Looking for Group]]'' 』でパロディ化され、リチャードが自分の名前を含めてこの台詞を語る。『[[ファミリー・ガイ]]』ではベイビーの両親が娘の若さからジョニーを責めるパロディを製作した。フェミニスト芸術団体シスター・オブ・ジャムは[[スウェーデン]]の[[ウメオ]]・バス・スクエアと[[カールスタード]]大学に白いネオンで「''Nobody puts Baby in a corner'' 」の看板を掲げた<ref>{{cite web|url=http://sistersofjam.com/category/nobody-puts-baby-in-a-corner/|title=Nobody Puts Baby In a Corner|publisher=|accessdate=2014-03-19}}</ref>。
 
『ファミリー・ガイ』では他にジョニーが踊っているところをベイビーが初めて見るシーンをパロディ化した。『[[ママと恋に落ちるまで]]』ではバーニー・スティンソン([[ニール・パトリック・ハリス]])が現実の自分の経験が酷いものであったために『''[[::en:Love Is Strange|Love Is Strange]]'' 』のシーンでジョニーを自分に置き換えようとする。
 
2010年のフランス映画『[[ハートブレイカー (2010年の映画)|ハートブレイカー]]』はオマージュとしてシーンや構想を似せており、主役2人がダンスでリフトを行なうシーンを再現している。
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== 派生作品 ==
=== 舞台版 ===
2004年、『ダーティ・ダンシング: クラシック・ストーリー・オン・ステージ』として舞台化された。650万ドルかけてエレノア・バーグステン脚本、オーストラリアのジェイコブスン・エンターテイメントのプロデュースにより、映画と同じ音楽に新曲を数曲追加して製作された。2000年の[[シドニーオリンピック]]の作曲家であるチョン・リム演出し、キム・ヴァレンタインがベイビー役、シドニー・ダンス・カンパニーのジョセフ・ブラウンがジョニー役に配役された。評価は賛否両論であったが<ref name=cnn/>、6ヶ月公演で20万枚のチケットを売り上げ商業的に成功した<ref name=Age/>。2006年10月23日、ドイツとロンドンのウエスト・エンドの[[オールドウィッチ]]劇場で完売し、ロンドン史上最高の前売数となり、600万ポンド(1(1,200万ドル)をあげた<ref name=guardian/><ref name=bbc/><ref name=cnn/>。2011年3月現在、ロンドンで100万人以上が観劇し、前売券が6ヶ月分完売した<ref>{{cite web |url=http://www.visitcardiff.com/site/latest-news/2011/3/18/dirty-dancing-to-make-welsh-debut-at-wales-millennium-centre-in-2012-a287 |title=Dirty Dancing to make Welsh debut at Wales Millennium Centre in 2012 - Cardiff |publisher=Visitcardiff.com |date=2011-03-18 |accessdate=2011-07-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111003173224/http://www.visitcardiff.com/site/latest-news/2011/3/18/dirty-dancing-to-make-welsh-debut-at-wales-millennium-centre-in-2012-a287 |archivedate=2011年10月3日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。2011年7月、オリジナルのウエスト・エンド公演が5年間のロングランの幕を閉じ、2年間の全国ツアーを開始した<ref>{{cite web|url=httphttps://www.whatsonstage.com/news/theatre/london/E8831297730873/Dirty+Dancing+Closes+9+Jul,+Prior+to+National+Tour.html |title=Dirty Dancing Closes 9 Jul, Prior to National Tour |publisher=Whatsonstage.com |date= |accessdate=2011-07-10}}</ref>。2013年7月13日から2014年2月22日までウエスト・エンドのピカディリー劇場に戻り、その後[[イギリス]]、[[アイルランド]]のツアーを再開した<ref>{{cite web|title=Dirty Dancing returns to give West End audiences the time of their lives!|url=httphttps://www.bestoftheatre.co.uk/blog/post/dirty-dancing-returns|work=BestofTheatre.co.uk|accessdate=1 June 2013}}</ref>。
 
2006年、ニューヨーク公演が企画されたが<ref name=cnn/>、[[北アメリカ]]の別の都市で初演された。2007年5月、[[カナダ]][[オンタリオ州]][[トロント]]でチケット発売初日に200万ドルを売り上げ興行記録を更新した。2007年11月15日、ベイビー役にモニカ・ウエスト、ペニー役にブリタ・ラゼンガ、ジェイク役にアル・サピエンザが配役され、ロイヤル・アレクサンドラ劇場にて全てカナダ人による公演が開始された。トロント公演以降、2008年9月28日に[[シカゴ]]でプレビュー公演が行われ、10月19日に正式に開幕し、2009年1月17日に閉幕した<ref>{{cite web|url=httphttps://www.dirtydancingtourdirtydancingontour.com/dd.htm|title=Dirty Dancing: The Classic Story on Stage|accessdate=2008-03-17|archiveurl=httphttps://web.archive.org/web/20080310041958/http://www.dirtydancingtour.com/dd.htm <!--Added by H3llBot-->|archivedate=2008-03-年3月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。その後2009年2月7日から3月15日まで[[ボストン]]と[[ロサンゼルス]]で上演された。[[ブロードウェイ・シアター|ブロードウエイ]]での公演は予定されていない<ref>{{cite news|author=Sams, Christine |date=2007-05-07|title=Dirty moves directed at US|accessdate=2007-05-26|work=The Sydney Morning Herald|url=httphttps://www.smh.com.au/newsentertainment/artsart-and-design/dirty-moves-directed-at-us/2007/05/06/1178390120944-20070507-gdq2rv.html}}</ref><ref>Jones, Kenneth.[httphttps://www.playbill.com/news/article/122470.html "Dirty Dancing, Musical Based on Hit Film, Opens in Chicago Oct. 19"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081022082934/http://www.playbill.com/news/article/122470.html |date=2008年10月22日 }}, playbill.com, October 19, 2008</ref><ref>Jones, Kenneth.[httphttps://www.playbill.com/news/article/122415.html "More Chances to Feel Dirty in Chicago; Dirty Dancing Gets Six Extra Weeks"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081019053104/http://www.playbill.com/news/article/122415.html |date=2008年10月19日 }}, playbill.com, October 16, 2008</ref>。
 
2014年9月、[[ワシントンD.C.]]の国立劇場にて、31都市をめぐる全米ツアーが開始された。8月26日にプレビュー公演が開始され、9月2日に正式に開幕した。
 
=== ツアーおよびテレビ番組 ===
舞台版以外に、1988年、[[ビル・メドレー]]、[[エリック・カルメン]]が出演する『ダーティ・ダンシング・ライヴ・イン・コンサート』が3ヶ月90都市で行われた<ref name=campbell/><ref name=story/>。また1988年、[[CBS]]で連続ドラマ『''[[::en:Dirty Dancing (1988 TV series)|Dirty Dancing]]'' 』が放送されたが、オリジナル・キャストおよびスタッフは参加していない。このドラマは数エピソードが放送されただけで打ち切りとなった。
 
=== リ・イメージ ===
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=== 20周年版 ===
2007年、20周年を記念して未公開シーンを含めた劇場版が公開され、また未公開シーンと作家のコメントを含むDVDが再度出版された<ref>{{cite web |accessdate=2007-06-24 |url=httphttps://www.codemasters.com/dirtydancing/ |title=Dirty Dancing Video Game&nbsp;– official site |publisher=Codemasters |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070630005627/http://www.codemasters.com/dirtydancing/ |archivedate=2007年6月30日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。同時に[[コードマスターズ]]はビデオ・ゲーム版を出版した<ref>{{cite web |url=httphttps://blogwww.wired.com/games/2007/05/coming_soon_to_.html/ |title=Coming soon to your PC: Dirty Dancing, the Video Game |date=2007-05-29 |accessdate=2007-06-24 |work=Wired magazine blog network |author=Arendt, Susan |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070609224258/http://blog.wired.com/games/2007/05/coming_soon_to_.html |archivedate=2007年6月9日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。イギリスではマウンテン・レイクを舞台に、映画を基にした[[リアリティ番組]]『''[[::en:Dirty Dancing: The Time of Your Life|Dirty Dancing: The Time of Your Life]]'' 』が放送された。
 
[[Channel Five]]ではドキュメンタリー『''Seriously Dirty Dancing'' 』が放送された。ジャーナリストおよび『ダーティ・ダンシング』中毒を自認するドウン・ポーターの司会であった。このドキュメンタリーは大変成功し、2007年の局のドキュメンタリーでは最高視聴率となった。ポーターは映画のセットを訪れ、他の『ダーティ・ダンシング』マニアたちと会い、ダンスを練習して番組の最後に家族や友人たちの前で踊った。
 
== リメイク ==
2011年8月、[[ライオンズゲート]]は『ダーティ・ダンシング』をリメイクすることを発表した。『ダーティ・ダンシング』の振付師[[ケニー・オルテガ]]が監督することを認めた。ライオンズゲートのジョー・ドレク会長は「時代背景を現代に置き換えるのは絶好のタイミングであり、ケニー・オルテガを監督に迎えることを誇りに思う」と語り、この計画について説明した。2009年9月にスウェイジが亡くなり、代役については発表されなかった<ref>{{cite web |url=httphttps://www.upi.com/Entertainment_News/2011/08/09/UPI-NewsTrack-Entertainment-News/UPI-93711312912800/?ur3=1 |title=Kenny Ortega to helm 'Dancing' remake|accessdate=201108092011-08-09}}</ref>。[[ノースカロライナ州]]西部で連続ドラマ版の撮影の予定が立てられたが<ref>[http:2011//www.wlos.com/news/features/top-stories/stories/dirty-dancing-film-tv-miniseries-wnc-20826.shtml#.VWN6Dtm9Kc0 Dirty Dancing to Film TV Miniseries in WNC <!-- Bot generated title -->]{{deadlink|date=2015-12-18}}</ref>、2015年7月29日、この連続ドラマの企画は保留となった<ref>[httphttps://www.charlotteobserver.com/news/local/article29272366.html Producers put Asheville ‘Dirty Dancing’ miniseries in a corner <!-- Bot generated title -->]</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* {{Official website|httphttps://www.dirtydancinglionsgate.com/site.phpmovies/dirty-dancing}}{{en icon}}
* [https://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=41843 ダーティ・ダンシング KING RECORDS OFFICIAL SITE]{{ja icon}}
* {{tcmdb title|id=18187|title=Dirty Dancing}}
* {{Rotten-tomatoes|id=dirty_dancing|title=Dirty Dancing}}
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* {{IMDb title|0092890|Dirty Dancing}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たあていたんしんく}}
[[Category:1987年の映画]]
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[[Category:アカデミー賞受賞作]]
[[Category:ニューヨーク州を舞台とした映画作品]]
[[Category:ノースカロライナ州で製作された映画作品]]
[[Category:バージニア州で製作された映画作品]]
[[Category:妊娠中絶を題材とした映画]]
[[Category:アメリカ合衆国のフェミニスト映画]]