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{{Redirect|TBS事件|報道・取材の自由に関する判例|TBSビデオテープ押収事件|1989年に発生した[[オウム真理教]]による[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]の発端になったとされる事件|TBSビデオ問題}}
{{Pathnav|成田国際空港|成田空港問題|三里塚闘争|成田デモ事件|frame=4}}
{{参照方法|date=2021年12月}}
{{Infobox 事件・事故
| 名称 = TBS成田事件
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| 対処 =与党による抗議
}}
'''TBS成田事件'''(ティービーエスなりたじけん)とは、[[1968年]]([[昭和]]43年)[[3月10日]]に、[[成田国際空港|新東京国際空港]]建設反対集会取材のさなか、[[
後の[[TBS闘争]]の原因の一つとなった。単に'''TBS事件'''、'''成田事件'''、'''(成田)プラカード事件'''、'''成田報道事件'''とも言われる。
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== 事件の背景 ==
[[1960年代]]後半より自民党は度々、TBSが[[左翼|左寄り]]の[[偏向報道]]だと非難していた。特に[[1967年]]2月9日放映の『現在の主役 日の丸』、同年10月30日『[[ハノイ]]―[[田英夫]]の証言』が閣議で偏向報道であると問題視された。前者は日の丸について多くの人に質問する内容で、後者は『[[JNNニュースコープ]]』[[ニュースキャスター]]の[[田英夫]]が[[ベトナム戦争]]中の[[北ベトナム]]で取材し、アメリカの報道が真実ではないとする内容である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=美智子上皇后は義弟の姉、テレビプロデューサー「大原れいこ」の華麗なる交流|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06141100/|website=週刊新潮|accessdate=2020-06-14|publisher=|date=2020-06-14|page=2}}</ref>。
後者を放送8日後の11月7日に、[[長谷川峻]]の招きで[[今道潤三]]社長、橋本博報道担当常務、島津国臣報道局長らが自民党本部で[[田中角栄]]、[[橋本登美三郎]]、[[新谷寅三郎]]らと懇談し、『ハノイ―田英夫の証言』は偏向報道だと咎められる。橋本
TBSは懇談後の3月5日に、テレビ報道局プロデューサーで『日の丸』担当の[[萩元晴彦]]はテレビニュース部へ、『ハノイ』担当の[[村木良彦]]はテレビ編成局編成部スタジオ課勤務へ、それぞれ3月10日付で[[人事異動]]すると発表した。今道は成田事件後の記者会見でTBSの偏向報道を認め、懇談以後の社長の態度は島津報道局長曰く「変幻自在」となった。
== 事件の概要 ==
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[[成田空港問題]]で反対派農民らに対して政府が[[機動隊]]投入等の強硬措置を執ったことから、[[三里塚芝山連合空港反対同盟]](以下、反対同盟)が展開していた[[三里塚闘争]]は実力闘争と化した。[[日本の新左翼|新左翼]]と手を結んだ反対同盟は、成田市営スタジアム(現・栗山近隣公園)での「成田空港反対3・10集会」開催を1968年3月10日に予定していた。
2月26日に同じ場所で開催された反対同盟・[[全日本学生自治会総連合|三派全学連]]・[[砂川闘争|砂川基地拡張反対同盟]]の3団体合同集会では、学生らの
[[報道機関|マスコミ]]各社も成田へ集まり、TBSもラジオとテレビの両ニュース部が共同で取材するためにTBSテレビ報道部からドキュメンタリー製作取材のディレクター及びスタッフらが訪れた。
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3月7日の番組会議でTBSのテレビ報道部製作のドキュメンタリー番組『カメラ・ルポルタージュ』のディレクター[[宝官正章]]は、3月12日放送分の企画として成田の農民と学生の農学共闘を取材する「成田二十四時」を提出した。本企画は予定されていた「沖縄もの」が[[ビザ]]発行の遅延で製作が間に合わず代替する企画だが、時勢な題材として採用されて宝官は当日に成田へ向かった。
宝官は反対同盟の農民達に取材を依頼するが、マスコミ取材を受けない統一方針の農民
=== 3月10日の動き ===
午前8時にTBS取材スタッフは宿泊場所を出発する。ニュース部の主だったスタッフは集会予定地の市営球場近くにある洋裁店を借りた前線取材本部へ、「ルポルタージュ」スタッフはマイクロバスで天神峰にある石橋宅へ向かう。大原と簗瀬以下の「婦人ニュース」スタッフは、前日に石橋の仲介で取材許可を得た農家の老人宅に向かったが取材直前に拒否され、石橋
午前10時頃に宝官が反対同盟の本部でもある
午前11時半頃、石橋宅の庭に農婦達を乗せた1台の小型トラックが到着する。数分後、石橋
社旗をつけたマイクロバスは、1つ目の検問所を通過したが、正午過ぎに2つ目の検問所で機動隊に止められ、機動隊員がバスに乗っていた反対同盟員を見咎め、他のマスコミもバスを囲んでいた。
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前線取材本部に到着した大原が事件の経緯を伝えると宝官はすぐに訪れ、テレビ報道局部長吉兼実も[[ヘリコプター]]で急いで訪れた。取材本部の外で一斉検挙が行われる最中に[[千葉県警察]]本部の[[刑事]]が訪問して事情聴取が行われ、マイクロバスを使用した理由を「弁当を運ぶためであった」と宝官は弁解した。吉兼は成田にいた他の新聞やテレビ局の取材スタッフに清酒を送り、プラカードの件について黙殺するよう根回しに奔走した。
その後も事件についてスタッフ間で話し合いが行われたが、これといった善後策が出ることは無く終了し、宝官・簗瀬・大原は取材を再開して3人は石橋宅に戻る。石橋
だが、この日自民党は国会議員を含む70名ものマスコミ監視団を成田に派遣し([[日本社会党]]も警察の「過剰警備」を監視するため、議員団を当日派遣している)、TBS取材本部には[[8ミリ映画|8ミリ]]による監視がされていたことをTBSのスタッフたちは気付いていなかった。
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=== 反対派集会の暴動化 ===
{{Main|成田デモ事件#第2次成田デモ事件}}
TBS取材班らが反対派を送り届けたこの日の集会には総勢4500人が集結した。予てから予想されていたとおり集会後に参加者が暴徒化し、墓地に隠していた凶器等で武装したデモ隊と機動隊との間で大規模衝突が発生した。付近には火が放たれ、市役所には投石が行われた。機動隊は[[ガス弾]]でもデモ隊を止められなかったが、催涙剤を混ぜて放水することで漸く沈静化させた。機動隊の負傷者は453人。空港反対派は100人以上の逮捕者を出し、負傷者は1000人以上。[[成田赤十字病院]]には600人以上もの双方の負傷者があふれかえった{{Sfn|ドキュメント成田空港|1978|p=88}}。
=== 処分まで ===
3月11日
3月12日
3月13日
3月15日
3月19日
3月22日
* 宝官正章(報道局テレビ報道部ディレクター) - 無期限休職処分
* [[濱口浩三]](報道局次長兼テレビニュース部長) - テレビニュース部長に
* 島津国臣(報道局長) - 報道局次長に降格
* 簗瀬潮音・大原麗子(両者報道局テレビ報道部ディレクター) - [[譴責]]処分
* 吉兼実(報道局テレビ報道部長) - 減俸1
* 宇野昭・松橋尚(両者報道局副部長) - 戒告処分
この処分について今道社長は事件について「不偏不党という会社の路線に反した」ので、報道機関として厳しい処分を行い、そして「政府その他外部からの干渉は一切ない」と述べた。それに対し労働組合は賞罰委員会の中で会社側は「一部から圧力があるのでやむをえまいということを何度もいっていた」と述べ、処分について「こうした圧力筋へ差し出すイケニエ」と見て、「処分撤回の闘いを進めていく」と語った
== その後 ==
3月25日、報道局の集会において「報道局声明」を発表。この事件についての詳細な資料が添えられた声明は事件について「この種の不注意な行為によって、我々の正当な放送内容に疑念が持たれることは、報道機関の自殺行為というべきであろう」として報道に対する姿勢を厳しく律することを述べ、続けて「処分は常識的範囲をはるかに超えた過酷なもの」として受け止め、「自由な報道活動への挑戦に対しては、結束して闘うことを改めて声明する」と会社上層部へ警告した。
さらにこの時、TBS・報道局間では別の問題が発生していた。先に述べた[[萩元晴彦]]・[[村木良彦]]の人事異動を、報道局組合側が「懲罰人事」だとして人事の撤回を求めていた。そして3月27日『[[JNNニュースコープ]]』の[[田英夫]]がキャスターを突然降板。これをきっかけに翌日28日、報道局組合員は「''報道の自由は死んだ''」との[[喪章]]を着け、TBS闘争と呼ばれる100日近くにわたる労働闘争が開始された。労働組合は萩元と村木の人事異動撤回、田の『ニュースコープ』への復帰、そして成田事件の処分撤回の三本柱を軸に闘争を進めていく。
4月12日に今道社長は「私の心境」と題するTBS従業員に対しての一文を社内で配る。その文の中で「成田事件に関して、政府や与党のなかで怒り騒いだということは知っている。しかし、それは私の悲痛なる処分の決定となんの関係があろう。私は外部と関係を絶って考えに考えたのだ」と事件の処分に
その後、6月11日付
宝官
== 事件を題材にした作品 ==
* 平田敬『小説TBS闘争』[[新潮社]]、1973年9月。
TBS闘争を小説化した作品で、闘争のきっかけの1つとして成田事件が登場。人物名は実際の人物から変えられており、宝官正章は堀越勉となり、「成田24時」は「千丈ヶ原の春」に変えられている。
== 脚注 ==▼
{{脚注ヘルプ}}▼
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
== 参考文献 ==
* 萩元晴彦、村木良彦、今野勉『お前はただの現在にすぎない テレビにはなにが可能か』田畑書店、1969年
** {{Cite book|和書|author=萩元晴彦、村木良彦、今野勉|title=お前はただの現在にすぎない テレビにはなにが可能か|publisher=[[朝日文庫]]|series=|date=2008-10|isbn=978-4022615978|ref={{sfnref|お前はただの現在にすぎない テレビにはなにが可能か|2008}}}}
* 東京放送編『TBS50年史』東京放送、2003年▼
* {{Cite book|和書|author=飯高春吉|title=北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録|publisher=[[千葉日報社]]出版局|series=|date=1976|isbn=|ref={{sfnref|飯高|1976}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[大坪景章]]編|title=ドキュメント成田空港|publisher=[[東京新聞出版局]]|series=|date=1978-4|isbn=|ref={{sfnref|ドキュメント成田空港|1978}}}}
* {{Cite book|和書|author=メディア総合研究所編|title=放送中止事件50年―テレビは何を伝えることを拒んだか|publisher=[[花伝社]]|series=メディア総研ブックレット|date=2005-7|isbn=978-4763404442|ref={{sfnref|放送中止事件50年―テレビは何を伝えることを拒んだか|2005}}}}
* {{Cite book|和書|author=テレビマンユニオン編|title=テレビマンユニオン史 1970-2005|publisher=[[テレビマンユニオン]]|series=|date=2005-2|isbn=|ref={{sfnref||2005}}}}
* {{Cite book|和書|author=加藤仁|title=わが警察人生に悔いなし―厳しい人も優しい人も皆わが師だ|publisher=日新報道|series=|date=2014-5|isbn=978-4817407733|ref={{sfnref|加藤|2014}}}}
* 「お蔵入り テレビ放送中止事件:2 戦後50年 TBS「成田24時」朝日新聞1995年8月4日朝刊
▲== 脚注 ==
▲{{脚注ヘルプ}}
▲{{Reflist}}
{{TBSグループ}}
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