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'''満済准后日記'''(まんさいじゅごうにっき)は、[[室町時代]]前期の[[醍醐寺]][[座主]]であった[[満済]]の[[日記]]。'''法身院准后記'''(ほっしんいんじゅごうき)とも。
 
記名は本来なく、いずれも後人の命名による。自筆本の大部分が現存し、[[応永]]18年([[1411年]])1月及び同20年([[1413年]])から同29年([[1422年]])までの巻子本11軸が[[国立国会図書館]]に、応永30年([[1423年]])から[[永享]]7年([[1435年]])までの冊子本38冊が[[醍醐寺]][[三宝院]]に所蔵される(ともに[[重要文化財]])他、1軸が[[東京大学史料編纂所]]に、1冊が[[京都大学]]に所蔵される。巻子本が当年の[[具注暦]]を用いて覚書のような簡略な記述を行うに留まる一方、冊子本が白紙や反故文書の紙背を用いて詳密な記事を残していることから、恐らく満済が日記を書いていく過程で、次第に記事が増えたために暦に書き切れず、途中から改めて冊子を用いることになったと推測される。
 
満済は[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]・[[足利義教|義教]]の[[護持僧]]として近侍したので、初期には禳災祈祷の記事が多いが、やがて「[[黒衣の宰相]]」と称されるごとく幕政の枢密にも携わるようになると、[[室町幕府|幕府]]内外の政治・外交の機微に関わる記述が豊富となる。また、満済は将軍と[[管領]]以下の諸大名との意思疎通の役割を果たしていたため、[[守護大名]]の複雑な動向を窺う上で格好の史料である。当時の記録として[[貞成親王]]の『[[看聞日記]]』と双璧を成すが、彼が好奇心から噂話までも書き留めたのに対し、満済は情報を客観的に捉えようとし、直接関与・見聞したことにのみ記述を限定しようとする自制的な態度すら認められる。したがって、史料としての信憑性は極めて高いと言えよう。当代きっての学僧・文化人であるゆえに、将軍・[[朝廷 (日本)|朝廷]]から民衆に至るまでその見識は広く、室町前期の[[年中行事]]や世相・文化・思想を知る上でも欠かせない根本史料である。
 
刊本としては、『京都帝国大学文科大学叢書4』(全3冊)・『[[続群書類従]]補遺1』(全2冊)の2種が出版されており、後者の方が比較的普及しているものの、誤字・脱字がまま見られる。なお、冊子本には[[奉公衆]]の書状など840通余りの[[紙背文書]]があり、これらも『[[大日本古文書]]』[[醍醐寺文書]]別集(全3冊)として既刊である。
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* {{Google books|4WjvQl16KHIC|満済准后日記下(続群書類従)}}、正長2年([[1429年]])から永享7年まで
* [http://www002.upp.so-net.ne.jp/shikado/muromachi/mansai.htm 『満済准后日記』を読む(史華堂)]
 
 
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