削除された内容 追加された内容
m Category:吉田兼好を追加 (HotCat使用)
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加
 
(11人の利用者による、間の20版が非表示)
2行目:
{{Infobox 山
|名称=双ヶ丘
|画像 =[[Fileファイル:Narabigaoka140721NI2.jpg|250px300px]]
|画像キャプション=[[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]山麓から見た双ヶ丘<br /><small>(右から一の丘、二の丘、三の丘)</small>
|標高=116.2<ref name="角川">[[#角川日本地名大辞典編纂委員会1982|角川日本地名大辞典編纂委員会1982]]、pp.1058-1059</ref>
|緯度度 = 35|緯度分 = 1|緯度秒 = 22
|経度度 =135|経度分 = 42|経度秒 = 48
|地図国コード = JP-26
|所在地={{Flagicon|JPN}}[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[御室]]双岡町
|地図 = {{location map
|Japan Kyoto city#Japan Kyoto Prefecture#Japan
|relief = 1
|mark = RedMountain.svg
|marksizefloat =14 center
|lat_deg= 35|lat_min= 1|lat_sec= 22|lat_dir=N
|lon_deg= 135|lon_min= 42|lon_sec= 48|lon_dir=E
18 ⟶ 19行目:
|label=双ヶ丘
}}
|OSMズーム = 12
}}
'''双ヶ丘'''(ならびがおか)は、[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[御室]]双岡町に所在する古生層{{efn2|[[古生代]]に形成された[[地層]]}}の[[残丘|孤立丘]]、国の[[名勝]]に指定されている。[[京都盆地]]北西部にあり、標高は116m116[[メートル]]である。徒然草の作者である吉田[[卜部兼好|兼好法師]]が晩年を過ごした地とされている。
 
== 表記 ==
双ヶ丘のほかに、雙ヶ岡、双ヶ岡、双岡、並岡、雙丘、双岳など、様々な表記が存在する。
 
; 双ヶ丘 :「京都市立双ヶ丘中学校」、「双ヶ丘交差点」、京都市バス「双ヶ丘バス停」などが使用している。
* '''双ヶ丘'''
; 雙ヶ岡 : 名勝指定名称。また、京都市立双ヶ丘中学校」、「双ヶ丘交差点」、京都市バス「双ヶ丘バス停」観光Navi、きぬかけの道などが使用している。
; 双ヶ岡 : 「双ヶ岡古墳群」など。また、角川日本地名大事典などが使用している。
* '''雙ヶ岡'''
; 双岡 : 名勝指定名称。また、京都双岡病院」丘が存在する「右都観光Navi、きぬかけの道区御室双岡町」などが使用している。
* '''双ヶ岡'''
: 「双ヶ岡古墳群」など。また、角川日本地名大事典などが使用している。
* '''双岡'''
: 「京都双岡病院」、丘が存在する「右京区御室双岡町」などが使用している。
 
== 地理 ==
[[Fileファイル:Ukyo-ku & Mount Hiei (3811327584).jpg|thumbサムネイル|西南西から見た双ヶ丘<br />奥は[[比叡山]]]]
[[ファイル:Narabigaoka aerial photo 20200819.jpg|サムネイル|航空写真(2020年)]]
双ヶ丘とは南北に並ぶ3つの丘の総称であり、北から順に一の丘(標高116m)116メートル)、二の丘(標高102m)102メートル)、三の丘(標高78m)78メートル)と呼ばれる<ref name="{{r|京都の地名検証2"/>}}。付近の標高は、[[西日本旅客鉄道|JR]][[山陰本線]](嵯峨野線)[[花園駅 (京都府)|花園駅]]付近が約40m40メートル、[[京福電気鉄道|嵐電]][[京福電気鉄道北野線|北野線]][[御室仁和寺駅]]付近が約70m70メートルであり、双ヶ丘は付近の低地より40-50m50メートル突出している。山域の総面積は18.9ha9[[ヘクタール]]である。山麓の南側を東西に[[丸太町通]]が、それに並行して[[西日本旅客鉄道|JR]][[山陰本線]](嵯峨野線)が通り<ref name="{{r|京都の地名検証2"/>}}、西麓を南北に[[国道162号]](周山街道)が走っている。双ヶ丘の東麓には[[妙心寺]]、北麓には[[仁和寺]]が存在し、また三の丘の東側にある五位山の南麓と中腹に[[法金剛院|五位山法金剛院]]がある。その五位山には五位山古墳が存在するが、墳丘は既に破壊されていて詳細は不明である。三の丘と五位山古墳の間(現花園内畑町・花園段ノ岡町)にはかつて双池(ならびのいけ)と称された大きな天然池があり、双ヶ丘と双池はいずれも[[歌枕]]として広く和歌に詠まれた<ref name="京都の地名検証">[[#京都地名研究会2005|京都地名研究会2005]]、pp.270-272</ref>。双池の水面標高は約45m45メートルであり、南北80m80-90m90メートル、東西40m40-50m50メートル程度だったと推測されている<ref name="{{r|京都の地名検証"/>}}。『[[続日本後紀]]』には、冬季には水面に水鳥が群をなしていたことが記されている<ref name="{{r|京都の地名検証"/>}}。双池は江戸時代までに水が枯れて田となり、現在では住宅地となっている<ref name="{{r|京都の地名検証"/>}}ものの三の丘と五位山との間は池の名残からか周囲と比べて窪んでいる。
 
=== 平安京の基準点説 ===
国語学者の[[吉田金彦]]は[[藤原京]]の[[大和三山]]と対比させるように、[[船岡山]](北区)、[[吉田山 (京都市)|吉田山]](左京区)、双ヶ丘を[[平安京]]の「[[葛野郡|葛野]]三山」と名付けている<ref name="古代地名">[[#吉田1987|吉田1987]]、pp.60-67</ref><ref name="京都の地名検証2">[[#京都地名研究会2007|京都地名研究会2007]]、pp.216-218</ref>。一般に[[船岡山]]の正中線が[[平安京]]の中心線とされるが、[[平安宮]]の[[大極殿]]は双ヶ丘と吉田山を結ぶ直線状にあり<ref name="{{r|古代地名"/>}}、吉田は双ヶ丘と吉田山が大極殿の位置の基準となったのではないかと考察している<ref name="{{r|古代地名"/>}}。平安京遷都の詔には「三山が鎮をなす」とあり、この三山はいずれも[[残丘|孤立丘]]である船岡山、吉田山、双ヶ丘だとする説がある<ref name="{{r|あるく"/>}}
 
== 歴史 ==
 
=== 双ヶ岡古墳群 ===
[[Fileファイル:Narabigaoka 1go-fun, zenkei.JPG|thumbサムネイル|220px|right220ピクセル|{{center|[[双ヶ岡1号墳]]}}{{small|[[清原夏野]](837年没)の墓とする碑が後世に建てられたが、実際は6世紀後半-7世紀初頭頃の豪族([[秦氏]]か)の首長墓。}}]]
双ヶ丘には6世紀後半から7世紀前半に築かれた24基の古墳があり、総称して[[双ヶ岡古墳群]]と呼ばれる<ref name="リーフレット京都">[http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/268.pdf 双ヶ岡一の丘の首長墓]リーフレット京都、268号、京都市埋蔵文化財研究所、2011年</ref><ref name="{{r|きぬかけの道">[http://kinukake.com/1159.html 雙ヶ岡(双ヶ丘)ならびがおか]きぬかけの道公式サイト</ref>}}。一の丘の頂上付近にある[[双ヶ岡1号墳|1号墳]]は直径44m44メートル・高さ8m8メートルの[[円墳]]であり、全長15.8m8メートル・玄室長6.8m8メートルの[[石室]]は、右京近辺では[[太秦]]面影町の[[蛇塚古墳]]の石室に次ぐ大きさである<ref name="{{r|リーフレット京都"/>}}。一号墳以外は直径10m10-20m20メートルの小型の円墳であり、一の丘と二の丘の間の谷筋、二の丘と三の丘の間の谷筋に集中している<ref name="{{r|リーフレット京都"/>}}。双ヶ丘の南西には[[秦氏]]の本拠地である太秦があることから、双ヶ岡古墳群は秦氏の首長の墓であるとされる<ref name="{{r|リーフレット京都"/><ref name="|きぬかけの道"/>}}。副葬品はほとんどが失われているが、[[須恵器]]、[[土師器]]、鉄製品、石棺の破片などが出土している<ref name="{{r|リーフレット京都"/>}}
 
=== 天皇の遊猟地と貴族の山荘地 ===
[[ファイル:Yoshida Kenko.jpg|thumbサムネイル|双ヶ丘で晩年を過ごした[[吉田卜部兼好|兼好法師]]]]
中世には天皇の遊猟地であり、高位貴族の山荘地でもあった。8世紀には大納言の[[清原夏野]]が双ヶ丘の南東部に山荘を営んだ。夏野は後に双岡大臣(ならびがおかのおとど)と呼ばれ、『[[類聚国史]]』によれば天長7年(830年)に[[淳和天皇]]が[[北野 (京都市)|北野]]を行幸した折には夏野の山荘を訪れている<ref name="{{r|角川"/><ref name="|京都の地名検証2"/>}}。夏野の死後に山荘を寺に改めたものが[[法金剛院]]の前身とされる。承和15年(848年)には、「天皇遊猟の際に四望する地」として東墳(現在の五位山古墳)が従五位下を授けられている<ref name="{{r|角川"/>}}。9世紀には左大臣の[[源常]]も山荘を構え、『[[続日本後紀]]』によれば[[仁明天皇]]が常の山荘に行幸したという<ref name="{{r|京都の地名検証2"/>}}。[[菅原孝標女]]は『[[更級日記]]』に「南はならびの岡の松風、いと耳近う心細く聞こえて」と記し、双ヶ岡丘近の寂しさを描写している。[[吉田卜部兼好|兼好法師]]は『兼好法師家集』に「契り置く 花とならびの岡の辺に 哀れ幾世の 春をすぐさむ」という歌を残している。兼好は双ヶ丘西麓の庵で余生を過ごし、この地で『[[徒然草]]』を執筆したため、一の丘の東麓にある[[長泉寺 (京都市)|長泉寺]]には兼好の墓や歌碑が建てられているが<ref name="{{r|角川"/><ref name="|京都の地名検証2"/><ref name="京都観光Navi">[http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000049 雙ヶ岡]|京都観光Navi</ref>}}、これは兼好を偲んで江戸時代に建てられた記念物であるとされる。17世紀後半に[[黒川道祐]]が書いた山城国の地誌『[[雍州府志]]』には「雙の岡」として登場する。
 
=== 日本キネマ撮影所 ===
54 ⟶ 52行目:
 
=== 戦後の開発計画と自然保護活動 ===
1941年11月13日、双ヶ丘は「[[京都盆地]]における卓越した展望地点」として国の[[名勝]]に指定(指定名称は雙ヶ岡)された<ref name="京都市ウェブサイト">[http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005651.html 名勝 雙ヶ岡]京都市</ref>。1949年には東麓に[[京都市立双ヶ丘中学校]]が開校し、1954年には南西麓に十全会精神科京都双岡病院(現:新生十全会グループ京都ならびがおか病院)が開設認可(翌1955年には医療法人としての『医療法人十全会精神科京都双岡病院』の設立が認可)された。しかし所有者の[[仁和寺]]が経済的事情から売却を図り、1964年に土地の購入希望者がホテル建設などの観光開発を計画したが、国の名勝指定がなされていた事や、都市計画法の風致地区であった事、更には建築基準法の住宅専用地区であった事などから問題となり行政と市民の反対でこれはすぐに流れてしまった。しかし今度は別の人物が「京都工科大学」<ref>{{efn2|京都市下京区にある専門学校YIC京都工科大学校(:専門学校YIC京都工科自動車大学校)とは異なる。</ref>}}なるものを建設しようとし、国会でも取り上げられる騒動になり<ref name="国会会議録">[httphttps://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU#/syugiin/051/0106/05103290106014a.htmldetail?minId=105104103X01419660329 衆議院会議録 第051回国会 決算委員会 第14号]国会会議録</ref>、衆議院[[決算委員会]]で質疑が行われたが、結局大学が建設されることはなかった。なおこの際に[[第三国人]]の手に移り破壊されると言う噂{{要出典|date=2021年6月}}<ref>{{efn2|これまでの版でこの記述がありそれを少し文章を変えた上で残しましたが、参考文献に該当の記述がありませんので出典をご存知の方の明示を求めます</ref>}}があったともされる。
 
これら[[高度経済成長]]期における双ヶ丘での騒動は、[[若草山]]でのレクリエーション施設建設開発や旧[[東大寺]]境内のホテル建設計画などとともに、国が1966年に[[古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法|古都保存法]]を制定するきっかけのひとつとなった<ref name="古都指定都市の概要">[httphttps://www.mlit.go.jp/toshi/rekimachi/toshi_history_tk_000008.html 古都指定都市の概要]国土交通省</ref>。その後は国の援助を受け、1976年には京都市が仁和寺から山域を一部買収して保全活動を行っている<ref name="{{r|あるく"/>}}<ref name="京都市ウェブサイト">[http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005651.html 名勝 雙ヶ岡]京都市</ref><ref name="リーフレット京都">[http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/268.pdf 双ヶ岡一の丘の首長墓]リーフレット京都、268号、京都市埋蔵文化財研究所、2011年</ref>。1996年には「御室・衣笠」の一部として古都保存法における歴史的風土特別保存地域に指定された<ref name="指定状況">[httphttps://www.mlit.go.jp/crd/park/joho/database/toshiryokuchi/rekishi_fudo/hyou2_shitei.html 歴史的風土保存区域及び歴史的風土特別保存地区指定状況]国土交通省</ref>。また、[[都市計画法]]の風致地区でもある<ref name="あるく">[[#京都新聞出版センター2010|京都新聞出版センター2010]]、pp.128-129</ref>。
 
== アクセス ==
; '''鉄道'''
* [[西日本旅客鉄道|JR]][[山陰本線]](嵯峨野線)[[花園駅 (京都府)|花園駅]]から南麓まで徒歩5分
* [[京福電気鉄道|嵐電]][[京福電気鉄道北野線|北野線]][[御室仁和寺駅]]から北麓まで徒歩3分
 
; '''バス<ref>'''{{efn2|京都市バスも京都バスも読みは「ならびがおか」だが、「ケ」と「ヶ」、「丘」と「岡」というように表記が異なる。</ref>}}
* [[京都市バス]] 「花園扇野町」「双ケ丘」「御室仁和寺」などから徒歩すぐ
* [[京都バス]]「双ヶ岡」などから徒歩すぐ
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
* '''双岡注釈'''
{{notelist2}}
'''出典'''
{{reflist}}|refs=
<ref name="きぬかけの道">{{Cite web|和書
| url = http://kinukake.com/1159.html
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20140810154803/kinukake.com/1159.html
| title = 雙ヶ岡(双ヶ丘)ならびがおか
| website = きぬかけの道公式サイト
| accessdate = 2014-7-23
| archivedate = 2014-8-10
| deadlinkdate = 2022年5月17日 }}</ref>
<ref name="京都観光Navi">{{Cite web|和書
| url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000049
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20160304210323/kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000049
| title = 雙ヶ岡
| website = 京都観光Navi
| accessdate = 2014-7-23
| archivedate = 2016-3-4
| deadlinkdate = 2022年5月17日 }}</ref>
}}
 
== 参考文献 ==
71 ⟶ 93行目:
|author = 角川日本地名大辞典編纂委員会
|date = 1982
|journal = [[角川日本地名大 <]]〈26> 京都府
|title =
|publisher = [[角川書店]]
|journal = 角川日本地名大事典 <26> 京都府
|issue = 
|publisher = 角川書店
|pages =
|ref = 角川日本地名大辞典編纂委員会1982
}}
81 ⟶ 100行目:
|author = 京都新聞出版センター
|date = 2010
|title =
|journal = 中村武生とあるく 洛中洛外
|publisher = [[京都新聞|京都新聞社]]
|issue = 
|publisher = 京都新聞社
|pages =
|ref = 京都新聞出版センター2010
}}
91 ⟶ 107行目:
|author =京都地名研究会
|date = 2005
|title =
|journal = 京都の地名検証
|publisher = [[勉誠出版]]
|issue = 
|publisher = 勉誠出版
|pages =
|ref = 京都地名研究会2005
}}
101 ⟶ 114行目:
|author = 京都地名研究会
|date = 2007
|title =
|journal = 京都の地名検証2
|issue = 
|publisher = 勉誠出版
|pages =
|ref = 京都地名研究会2007
}}
111 ⟶ 121行目:
|author = 吉田金彦
|date = 1987
|title =
|journal = 京都滋賀古代地名を歩く
|issue = 
|publisher = 京都新聞社
|pages =
|ref = 吉田1987
}}
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Narabigaoka}}
* [httphttps://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005651.html 雙ヶ岡]京都市
 
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect1=双ヶ岡古墳群
|1-1=京都府の古墳
|1-2=右京区の歴史
|1-3=秦氏
}}
{{DEFAULTSORT:ならひかおか}}
[[Category:アジアの岳名目録]]
[[Category:京都府の山]]
[[Category:京都府の自然景勝地]]
139 ⟶ 138行目:
[[Category:右京区の歴史]]
[[Category:山城国]]
[[Category:吉田卜部兼好]]