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{{Infobox 山
|名称=双ヶ丘
|画像 =[[ファイル:Narabigaoka140721NI2.jpg|250ピクセル300px]]
|画像キャプション=[[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]山麓から見た双ヶ丘<br><small>(右から一の丘、二の丘、三の丘)</small>
|標高=116.2<ref name="角川">[[#角川日本地名大辞典編纂委員会1982|角川日本地名大辞典編纂委員会1982]]、pp.1058-1059</ref>
|緯度度 = 35|緯度分 = 1|緯度秒 = 22
|経度度 =135|経度分 = 42|経度秒 = 48
|地図国コード = JP-26
|所在地={{Flagicon|JPN}}[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[御室]]双岡町
|地図 = {{location map
|Japan Kyoto city#Japan Kyoto Prefecture#Japan
|relief = 1
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|label=双ヶ丘
}}
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}}
'''双ヶ丘'''(ならびがおか)は、[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[御室]]双岡町に所在する古生層{{efn2|[[古生代]]に形成された[[地層]]}}の[[残丘|孤立丘]]、国の[[名勝]]に指定されている。[[京都盆地]]北西部にあり、標高は116[[メートル]]である。徒然草の作者である[[吉田卜部兼好|兼好法師]]が晩年を過ごした地とされている。
 
== 表記 ==
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== 歴史 ==
=== 双ヶ岡古墳群 ===
[[ファイル:Narabigaoka 1go-fun, zenkei.JPG|サムネイル|220ピクセル|{{center|[[双ヶ岡1号墳]]}}{{small|[[清原夏野]](837年没)の墓とする碑が後世に建てられたが、実際は6世紀後半-7世紀初頭頃の豪族([[秦氏]]か)の首長墓。}}]]
双ヶ丘には6世紀後半から7世紀前半に築かれた24基の古墳があり、総称して[[双ヶ岡古墳群]]と呼ばれる<ref name="リーフレット京都">[http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/268.pdf 双ヶ岡一の丘の首長墓]リーフレット京都、268号、京都市埋蔵文化財研究所、2011年</ref>{{r|きぬかけの道}}。一の丘の頂上付近にある[[双ヶ岡1号墳|1号墳]]は直径44メートル・高さ8メートルの[[円墳]]であり、全長15.8メートル・玄室長6.8メートルの[[石室]]は、右京近辺では[[太秦]]面影町の[[蛇塚古墳]]の石室に次ぐ大きさである{{r|リーフレット京都}}。一号墳以外は直径10-20メートルの小型の円墳であり、一の丘と二の丘の間の谷筋、二の丘と三の丘の間の谷筋に集中している{{r|リーフレット京都}}。双ヶ丘の南西には[[秦氏]]の本拠地である太秦があることから、双ヶ岡古墳群は秦氏の首長の墓であるとされる{{r|リーフレット京都|きぬかけの道}}。副葬品はほとんどが失われているが、[[須恵器]]、[[土師器]]、鉄製品、石棺の破片などが出土している{{r|リーフレット京都}}。
 
=== 天皇の遊猟地と貴族の山荘地 ===
[[ファイル:Yoshida Kenko.jpg|サムネイル|双ヶ丘で晩年を過ごした[[吉田卜部兼好|兼好法師]]]]
中世には天皇の遊猟地であり、高位貴族の山荘地でもあった。8世紀には大納言の[[清原夏野]]が双ヶ丘の南東部に山荘を営んだ。夏野は後に双岡大臣(ならびがおかのおとど)と呼ばれ、『[[類聚国史]]』によれば天長7年(830年)に[[淳和天皇]]が[[北野 (京都市)|北野]]を行幸した折には夏野の山荘を訪れている{{r|角川|京都の地名検証2}}。夏野の死後に山荘を寺に改めたものが[[法金剛院]]の前身とされる。承和15年(848年)には、「天皇遊猟の際に四望する地」として東墳(現在の五位山古墳)が従五位下を授けられている{{r|角川}}。9世紀には左大臣の[[源常]]も山荘を構え、『[[続日本後紀]]』によれば[[仁明天皇]]が常の山荘に行幸したという{{r|京都の地名検証2}}。[[菅原孝標女]]は『[[更級日記]]』に「南はならびの岡の松風、いと耳近う心細く聞こえて」と記し、双ヶ岡丘近の寂しさを描写している。[[吉田卜部兼好|兼好法師]]は『兼好法師家集』に「契り置く 花とならびの岡の辺に 哀れ幾世の 春をすぐさむ」という歌を残している。兼好は双ヶ丘西麓の庵で余生を過ごし、この地で『[[徒然草]]』を執筆したため、一の丘の東麓にある[[長泉寺 (京都市)|長泉寺]]には兼好の墓や歌碑が建てられているが{{r|角川|京都の地名検証2|京都観光Navi}}、これは兼好を偲んで江戸時代に建てられた記念物であるとされる。17世紀後半に[[黒川道祐]]が書いた山城国の地誌『[[雍州府志]]』には「雙の岡」として登場する。
 
=== 日本キネマ撮影所 ===
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=== 戦後の開発計画と自然保護活動 ===
1941年11月13日、双ヶ丘は「[[京都盆地]]における卓越した展望地点」として国の[[名勝]]に指定(指定名称は雙ヶ岡)された<ref name="京都市ウェブサイト">[http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005651.html 名勝 雙ヶ岡]京都市</ref>。1949年には東麓に[[京都市立双ヶ丘中学校]]が開校し、1954年には南西麓に十全会精神科京都双岡病院(現:新生十全会グループ京都ならびがおか病院)が開設認可(翌1955年には医療法人としての『医療法人十全会精神科京都双岡病院』の設立が認可)された。しかし所有者の[[仁和寺]]が経済的事情から売却を図り、1964年に土地の購入希望者がホテル建設などの観光開発を計画したが、国の名勝指定がなされていた事や、都市計画法の風致地区であった事、更には建築基準法の住宅専用地区であった事などから問題となり行政と市民の反対でこれはすぐに流れてしまった。しかし今度は別の人物が「京都工科大学」{{efn2|京都市下京区にある専門学校YIC京都工科大学校(現:専門学校YIC京都工科自動車大学校)とは異なる。}}なるものを建設しようとし、国会でも取り上げられる騒動になり<ref name="国会会議録">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=105104103X01419660329 衆議院会議録 第051回国会 決算委員会 第14号]国会会議録</ref>、衆議院[[決算委員会]]で質疑が行われたが、結局大学が建設されることはなかった。なおこの際に[[第三国人]]の手に移り破壊されると言う噂{{要出典|date=2021年6月}}{{efn2|これまでの版でこの記述がありそれを少し文章を変えた上で残しましたが、参考文献に該当の記述がありませんので出典をご存知の方の明示を求めます}}があったともされる。
 
これら[[高度経済成長]]期における双ヶ丘での騒動は、[[若草山]]でのレクリエーション施設建設開発や旧[[東大寺]]境内のホテル建設計画などとともに、国が1966年に[[古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法|古都保存法]]を制定するきっかけのひとつとなった<ref name="古都指定都市の概要">[https://www.mlit.go.jp/toshi/rekimachi/toshi_history_tk_000008.html 古都指定都市の概要]国土交通省</ref>。その後は国の援助を受け、1976年には京都市が仁和寺から山域を一部買収して保全活動を行っている{{r|あるく}}<ref name="京都市ウェブサイト">[http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005651.html 名勝 雙ヶ岡]京都市</ref><ref name="リーフレット京都">[http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/268.pdf 双ヶ岡一の丘の首長墓]リーフレット京都、268号、京都市埋蔵文化財研究所、2011年</ref>。1996年には「御室・衣笠」の一部として古都保存法における歴史的風土特別保存地域に指定された<ref name="指定状況">[https://www.mlit.go.jp/crd/park/joho/database/toshiryokuchi/rekishi_fudo/hyou2_shitei.html 歴史的風土保存区域及び歴史的風土特別保存地区指定状況]国土交通省</ref>。また、[[都市計画法]]の風致地区でもある<ref name="あるく">[[#京都新聞出版センター2010|京都新聞出版センター2010]]、pp.128-129</ref>。
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'''出典'''
{{reflist|refs=
<ref name="きぬかけの道">{{citeCite web|和書
| url = http://kinukake.com/1159.html
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20140810154803/kinukake.com/1159.html
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| archivedate = 2014-8-10
| deadlinkdate = 2022年5月17日 }}</ref>
<ref name="京都観光Navi">{{citeCite web|和書
| url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000049
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20160304210323/kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000049
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* [https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005651.html 雙ヶ岡](京都市)
 
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect1=双ヶ岡古墳群
|1-1=京都府の古墳
|1-2=右京区の歴史
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[[Category:山岳名目録]]
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[[Category:右京区の歴史]]
[[Category:山城国]]
[[Category:吉田卜部兼好]]