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}}
'''双ヶ丘'''(ならびがおか)は、[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[御室]]双岡町に所在する古生層{{efn2|[[古生代]]に形成された[[地層]]}}の[[残丘|孤立丘]]、国の[[名勝]]に指定されている。[[京都盆地]]北西部にあり、標高は116[[メートル]]である。徒然草の作者である[[吉田卜部兼好|兼好法師]]が晩年を過ごした地とされている。
 
== 表記 ==
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=== 天皇の遊猟地と貴族の山荘地 ===
[[ファイル:Yoshida Kenko.jpg|サムネイル|双ヶ丘で晩年を過ごした[[吉田卜部兼好|兼好法師]]]]
中世には天皇の遊猟地であり、高位貴族の山荘地でもあった。8世紀には大納言の[[清原夏野]]が双ヶ丘の南東部に山荘を営んだ。夏野は後に双岡大臣(ならびがおかのおとど)と呼ばれ、『[[類聚国史]]』によれば天長7年(830年)に[[淳和天皇]]が[[北野 (京都市)|北野]]を行幸した折には夏野の山荘を訪れている{{r|角川|京都の地名検証2}}。夏野の死後に山荘を寺に改めたものが[[法金剛院]]の前身とされる。承和15年(848年)には、「天皇遊猟の際に四望する地」として東墳(現在の五位山古墳)が従五位下を授けられている{{r|角川}}。9世紀には左大臣の[[源常]]も山荘を構え、『[[続日本後紀]]』によれば[[仁明天皇]]が常の山荘に行幸したという{{r|京都の地名検証2}}。[[菅原孝標女]]は『[[更級日記]]』に「南はならびの岡の松風、いと耳近う心細く聞こえて」と記し、双ヶ岡丘近の寂しさを描写している。[[吉田卜部兼好|兼好法師]]は『兼好法師家集』に「契り置く 花とならびの岡の辺に 哀れ幾世の 春をすぐさむ」という歌を残している。兼好は双ヶ丘西麓の庵で余生を過ごし、この地で『[[徒然草]]』を執筆したため、一の丘の東麓にある[[長泉寺 (京都市)|長泉寺]]には兼好の墓や歌碑が建てられているが{{r|角川|京都の地名検証2|京都観光Navi}}、これは兼好を偲んで江戸時代に建てられた記念物であるとされる。17世紀後半に[[黒川道祐]]が書いた山城国の地誌『[[雍州府志]]』には「雙の岡」として登場する。
 
=== 日本キネマ撮影所 ===
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'''出典'''
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<ref name="きぬかけの道">{{citeCite web|和書
| url = http://kinukake.com/1159.html
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<ref name="京都観光Navi">{{citeCite web|和書
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[[Category:右京区の歴史]]
[[Category:山城国]]
[[Category:吉田卜部兼好]]