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[[ファイル:Kakuei Tanaka and Ichiro Ozawa cropped 1 Stanford R Ovshinsky Momoko Ito Kakuei Tanaka and Ichiro Ozawa.jpg|thumb|300px240px|[[田中角栄]](左)と[[小沢一郎]](右)]]
'''木曜クラブ'''(もくようクラブ)は、かつて存在した[[自由民主党の派閥]]。通称'''田中派'''。旧[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]の吉田派から佐藤派([[周山会]])の流れを汲んだ会長はむ。名目上の会長は[[西村英一]]→[[二階堂進]]だが、事実上のオーナーは一貫して[[田中角栄]]であり、自民党を離党した後も常にこの木曜クラブを通じて自民党ひいては[[日本]]政界に君臨し続けた。
 
== 経歴 ==
=== 田中派の旗揚げ ===
田中角栄は1972年5月15日の[[沖縄返還協定]]の発効が、[[佐藤栄作]]首相引退の花道になると踏んでいた。沖縄本土復帰に照準を合わせて、田中はクーデター計画の実行に移る。同年[[5月9日]]、佐藤派内の田中角栄擁立グループが[[台東区]]の[[柳橋 (花街)|柳橋]]の[[料亭]]「いな垣」に集まった。当日、田中本人は会場に顔を出さず、目白台の自宅で電話の前に座っていた。料亭の供待ち部屋で[[公設秘書|秘書]]の[[早坂茂三]]は小窓を少し開け、出席者が現れるたびに田中に連絡をした。最後の参加者を告げると田中は「よし、予定どおりだ。これで結構」と答えた{{Sfn|早坂|2001|pp=216-217}}。
*主な出席者(佐藤派田中系81人 [[衆議院]]40人(代理人7人)、[[参議院]]41人(代理人5人))
*[[田中角栄]]、[[橋本登美三郎]]、[[二階堂進]]、[[斎藤昇]]、[[西村英一]]
*[[郡祐一]]、[[前田佳都男]]、[[上田稔]]、[[梶木又三]]、[[徳永正利]]
*[[寺本広作]]、[[永野鎮雄]]、[[橘直治]]、[[白井勇]]、[[吉武恵市]]
*[[木村睦男]]、[[鬼丸勝之]]、[[岡本悟]]、[[川野辺静]]、[[細川護煕]]
*[[石井一]]、[[長谷川仁]]、[[大松博文]]、[[山本利寿]]、[[一龍齋貞鳳]]
*[[世耕政隆]]、[[渡部恒三]]、[[奥田敬和]]、[[斉藤滋与史]]、[[小沢辰男]]
*[[亀岡高夫]]、[[足立篤郎]]、[[高橋英吉]]、[[山下春江]]、[[安西愛子]]
*[[小沢一郎]]
 
この日、佐藤派102人から、[[衆議院|衆議院議員]]40人(うち代理人7人)、[[参議院|参議院議員]]41人(うち代理人5人)が集結{{Refnest|group="注"|集結した主な議員は以下のとおり。[[橋本登美三郎]]、[[二階堂進]]、[[斎藤昇]]、[[西村英一]]、[[郡祐一]]、[[前田佳都男]]、[[上田稔]]、[[梶木又三]]、[[徳永正利]]、[[寺本広作]]、[[永野鎮雄]]、[[橘直治]]、[[白井勇]]、[[吉武恵市]]、[[木村睦男]]、[[鬼丸勝之]]、[[岡本悟]]、[[川野辺静]]、[[細川護煕]]、[[石井一]]、[[長谷川仁]]、[[大松博文]]、[[山本利寿]]、[[一龍齋貞鳳]]、[[世耕政隆]]、[[渡部恒三]]、[[奥田敬和]]、[[斉藤滋与史]]、[[小沢辰男]]、[[亀岡高夫]]、[[足立篤郎]]、[[高橋英吉]]、[[山下春江]]、[[安西愛子]]、[[小沢一郎]]など。}}。合計81人の大派閥となり、これを機に佐藤派は田中派と[[福田赳夫|福田]]派に分裂した{{Sfn|伊藤|1982|p=78}}<ref>{{Cite web|和書|url= http://27.121.6.57/KUSUDA/kaidai.html | title= 楠田實資料(佐藤栄作官邸文書):解題 | publisher= ジャパン デジタル アーカイブズ センター |date= | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。
[[1972年]][[5月9日]]、佐藤派の派内派として発足{{Sfn|伊藤|1982|p=78}}<ref>{{cite web |url= http://27.121.6.57/KUSUDA/kaidai.html | title= 楠田實資料(佐藤栄作官邸文書):解題 | publisher= ジャパン デジタル アーカイブズ センター |date= | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。その後佐藤派から独立し、同年[[7月7日]]、田中が[[内閣総理大臣]]に就任したことから、「'''七日会'''」として正式に田中派が旗揚げされ、西村が会長に就任した。旗揚げ時は佐藤派102名のうち、[[衆議院]]から40名、[[参議院]]から41名が参加し、合計81名の大派閥であった。
 
同年7月5日に行われた[[1972年自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]には田中、福田、[[大平正芳]]、[[三木武夫]]([[三角大福]])が立候補し、田中が当選した。[[7月7日]]、田中は[[内閣総理大臣]]に就任した。
派閥の特色としては、田中が首相在任中に[[日中国交正常化]]を成し遂げたこともあり、[[台湾]]([[中華民国]])とは距離を置く[[親中派]]が多かった。また、[[道路]]や[[郵政]]などの[[公共事業]]による集金、集票力のある利権と深い関係を持つ[[族議員]]が圧倒的に多かった。また、議員数の増加によって自民党内の全ての[[政策部会]]に族議員化した田中派所属議員を抱えるようになると、[[地方公共団体|地方自治体]]の首長などから「田中派に所属すれば地元からのあらゆる[[陳情]]を派内で処理して貰える」という暗黙の了解が形成されるようになり、[[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|田中内閣]]崩壊後も求心力を維持し続ける効果を齎した。田中は自らの派閥を[[総合病院]]と評した。
 
=== 七日会 ===
[[1976年]]、派閥のオーナーである田中と、派閥幹部の[[橋本登美三郎]]が、[[ロッキード事件]]に関与したとして[[逮捕 (日本法)|逮捕]]される。逮捕直後に田中は自民党離党届と七日会退会届を提出する。取り調べの後に[[保釈]]された田中は、[[被告人|刑事被告人]]ながらなおも実質的な七日会のオーナーであり続けた。田中と田中派が世間から厳しい目を向けられたこの時も派閥からの脱落者は一名も出さず、田中派の結束の強さを示す。しかし、これは裏を返せば、田中に楯突いたり反目すれば、政治生命を脅かす報復が待っていることの表れとも見られた(この時の選挙で初当選した[[相澤英之]]は田中派入りを断ったため長く冷遇されたといわれる)。
1972年7月7日の内閣総理大臣就任に伴い、「'''七日会'''」として正式に田中派が旗揚げされた。[[西村英一]]が会長に就任した。
 
=== 七日会 ===
;最高顧問
*[[田中角栄]]
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;副会長
*[[二階堂進]]、[[江真澄]]、[[吉武恵市]]、[[徳永正利]]
 
;理事
46 ⟶ 38行目:
*[[戸塚進也]]、[[山東昭子]]
 
派閥の特色としては、田中が首相在任中に[[日中国交正常化]]を成し遂げたこともあり、[[台湾]]([[中華民国]])とは距離を置く[[親中派]]が多かった。また、[[道路]]や[[郵政]]などの[[公共事業]]による集金、集票力のある利権と深い関係を持つ[[族議員]]が圧倒的に多かった。また、議員数の増加によって自民党内の全ての[[政策部会]]に族議員化した田中派所属議員を抱えるようになると、[[地方公共団体|地方自治体]]の首長などから「田中派に所属すれば地元からのあらゆる[[陳情]]を派内で処理して貰える」という暗黙の了解が形成されるようになり、[[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|田中内閣]]崩壊後も求心力を維持し続ける効果を齎した。田中は自らの派閥を[[総合病院]]と評した。
[[1977年]]、党内の派閥解消の流れで一時「七日会」の看板を降ろすが、翌年の[[福田赳夫]]、[[大平正芳]]による[[自由民主党総裁選挙|総裁選]]を境に派閥活動を復活させ「'''政治同友会'''」(会長・西村英一)を発足させた。[[1980年]]、政治同友会から「'''木曜クラブ'''」に派閥名を改め、選挙で落選した西村に代わり、二階堂が木曜クラブ会長に就任。かつて佐藤派が「'''木曜研究会'''」という派閥名だったことが由来している。
 
[[1976年]]、派閥のオーナーである田中と、派閥幹部の[[橋本登美三郎]]が、[[ロッキード事件]]に関与したとして[[逮捕 (日本法)|逮捕]]される。逮捕直後に田中は自民党離党届と七日会退会届を提出する。取り調べの後に[[保釈]]された田中は、[[被告人|刑事被告人]]で自民党籍を持たない[[無所属]]衆議院議員(いわゆる「自民党周辺居住者」)ながら派閥領袖として田中派を通じて裏舞台から政界に影響力を維持し、なおも実質的な七日会のオーナーであり続け、マスコミからは「闇将軍」と呼ばれた。田中と田中派が世間から厳しい目を向けられたこの時も派閥からの脱落者は一名も出さず、田中派の結束の強さを示した。しかし、これは裏を返せば、田中に楯突いたり反目すれば、政治生命を脅かす報復が待っていることの表れとも見られた。この時の選挙で初当選した[[相澤英之]]は田中派入りを断ったため長く冷遇されたといわれる{{要出典|date=2022年5月}}。
木曜クラブへの衣替えと同時に、田中は積極的な派閥拡大を進め始める。[[裁判|刑事裁判]]とロッキード政局の長期化により自民党復党がかなわない田中は、「自民党周辺居住者」と自称しながらも田中派を掌握し、[[船田中]]派や[[水田三喜男]]派などの旧中間派・無派閥議員を次々と田中派に入会させた。1980年には99名、その後も入会者を増やし、ロッキード事件第一審判決の年の[[1983年]]の[[第37回衆議院議員総選挙|総選挙]]でも自民党が大敗する中で田中派は2人の議員を減らしたにとどまり(ただし、各選挙区に田中派の候補を大量擁立していたため田中派の落選者も多かった)、[[1984年]]には118名と、田中派は年月を経るごとにさらに膨張していった。さらに、様々な事情で表向きは田中派にこそ所属していなかったものの、所謂「隠れ田中派」の無派閥議員も存在しており、同派は「'''田中軍団'''」と呼ばれて政界の内外で恐れられるようになる。
 
[[1977年]]、党内の派閥解消の流れで一時「七日会」の看板を降ろすが、翌年の[[福田赳夫]]、[[大平正芳]]による[[自由民主党総裁選挙|総裁選]]を境に派閥活動を復活させ「'''政治同友会'''」(会長・西村英一)を発足させた。
 
=== 木曜クラブ ===
[[1980年]]、政治同友会から「'''木曜クラブ'''」に派閥名を改めた。選挙で落選した西村に代わり、二階堂が会長に就任。かつて佐藤派が「'''木曜研究会'''」という派閥名だったことが由来している。
 
;会長
*[[二階堂進]]
 
;副会長
*[[江真澄]]、[[郡祐一]]
 
;代表幹事
68 ⟶ 64行目:
;広報担当
*[[渡部恒三]]
 
木曜クラブへの衣替えと同時に、田中は積極的な派閥拡大を進め始める。[[裁判|刑事裁判]]とロッキード政局の長期化により自民党復党がかなわない田中は、田中派を掌握し、[[一新会 (自民党)|船田派]]や[[巽会|水田派]]などの旧中間派・無派閥議員を次々と田中派に入会させた。1980年には99名、その後も入会者を増やし、ロッキード事件第一審判決の年の[[1983年]]の[[第37回衆議院議員総選挙|総選挙]]でも自民党が大敗する中で田中派は2人の議員を減らしたにとどまり(ただし、各選挙区に田中派の候補を大量擁立していたため田中派の落選者も多かった)、[[1984年]]には118名と、田中派は年月を経るごとにさらに膨張していった。さらに、様々な事情で表向きは田中派にこそ所属していなかったものの、所謂「隠れ田中派」の無派閥議員も存在しており、同派は「'''田中軍団'''」と呼ばれて政界の内外で恐れられるようになる。
 
大平、[[鈴木善幸]]、[[中曽根康弘]][[政権]]樹立の大きな原動力となり、総理・[[自由民主党総裁|総裁]]を目指すには、田中派の協力なしでは不可能と言われていた。しかし、この頃から派内で「他派の候補ばかりを担いで自派から総理・総裁を出さないのは士気が下がる」との声が漏れるようになった。田中は、自身の影響力低下を恐れ、また将来の復権を考えていたため、田中派内から自分に取って代わる人間、つまりは[[竹下登]]の総裁選出馬を許さないと考えていたと言われる。しかし、田中の意を体して竹下を抑えつける立場であった[[二階堂進]]会長自身が党内の反中曽根派の使嗾に乗って総裁選出馬の意欲を一時示す([[二階堂擁立構想]])など、自前の総裁候補を出そうという機運が派内に充満した。
 
=== 創政会、経世会の結成 ===
[[1985年]]2月7日、竹下を頭とする派中派の「[[創政会]]」が、[[金丸信]]、[[橋本龍太郎]]、[[小沢一郎]]、[[梶山静六]]らによって結成された<ref name="nikkei20110828">{{cite news |author= 安藤俊裕 |url= https://www.nikkei.com/news/print-article/%3FR_FLG%3D0%26bf%3D0%26ng%3DDGXNASFK1902K_V20C11A8000000%26uah%3DDF270720112232 | title= 田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5) | newspaper= 日本経済新聞 | date= 2011-8-28 | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。当初は勉強会だという表向きの説明を信じて容認していた田中は派中派と知るや憤慨してこれを抑えつけたが、やみくもな飲酒がたたり{{Sfn|立花|2005|pp=88-91}}{{Sfn|佐藤|2001|p=219}}、同年2月27日、[[脳梗塞]]で倒れた。
1984年12月18日、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[国際赤坂ビル|日商岩井ビル]]にある[[フランス料理|フランス料理屋]]に竹下、[[梶山静六]]、[[金丸信]]、[[小渕恵三]]、[[羽田孜]]、[[小沢一郎]]、[[遠藤要]]の7人が集まり、次期[[自由民主党総裁選挙|自民党総裁選]]で竹下擁立を図る計画の話し合いがもたれた{{Sfn|マスコミ研究会|1985|pp=164-165}}{{Sfn|早坂|1991|pp=38-39}}。
 
[[1985年]]2月7日、竹下を頭とする派中派の「[[創政会]]」が結成された<ref name="nikkei20110828">{{cite news |author= 安藤俊裕 |url= https://www.nikkei.com/news/print-article/%3FR_FLG%3D0%26bf%3D0%26ng%3DDGXNASFK1902K_V20C11A8000000%26uah%3DDF270720112232 | title= 田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5) | newspaper= 日本経済新聞 | date= 2011-8-28 | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。当初は勉強会だという表向きの説明を信じて容認していた田中は派中派と知るや憤慨してこれを抑えつけたが、やみくもな飲酒がたたり{{Sfn|立花|2005|pp=88-91}}{{Sfn|佐藤|2001|p=219}}、同年2月27日、[[脳梗塞]]で倒れた。
[[1987年]]7月4日、木曜クラブから113人が参加して、[[平成研究会|経世会]]の結成大会が行われた<ref name="nikkei20110828" />{{Sfn|佐藤|2001|p=233}}。二階堂系だった田村グループや、創政会結成を痛烈に批判し派内の一本化を目指していた[[奥田敬和]]らも経世会の旗揚げに参加した。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ、(3)中立系の3つのグループに分かれることとなった。
 
[[1987年]]7月4日、木曜クラブから113人が参加して、[[平成研究会|経世会]]の結成大会が行われた<ref name="nikkei20110828" />{{Sfn|佐藤|2001|p=233}}。二階堂系だった田村グループや、創政会結成を痛烈に批判し派内の一本化を目指していた[[奥田敬和]]らも経世会の旗揚げに参加した。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ、(3)中立系の3つのグループに分裂した。二階堂会長、[[江﨑真澄]]、[[小坂徳三郎]]、[[山下元利]]ら木曜クラブの残留組は「二階堂グループ」と呼ばれることとなった<ref>{{cite news |author= [[後藤謙次]] |url= https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/33444 | title= 特別企画 砂防会館あの日あの時 壁に刻まれた刀傷 | newspaper= 日本記者クラブ | date= 2016-6 | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。分裂時の各グループの内訳は下記のとおり{{Sfn|朝日新聞政治部|1987|pp=24-25}}。
同年9月1日、『国会便覧』第76版が発行される。この時点における3派の所属議員は以下のとおり<ref>{{Cite book |和書
|author =
|title = 国会便覧 昭和62年8月新版
|edition = 第76版
|date = 1987年9月1日
|publisher = 日本政経新聞社
|page = 333-336
}}</ref>{{Sfn|立花|2005|p=86}}。
 
{| class="wikitable"
! 派閥 !! 議員数 !! 議員名
|-
| 竹下派 || align="right" | 114113 || (省略)
|-
| 木曜クラブ{{nowrap|二階堂グループ}} || align="right" | 15 || [[江真澄]]、[[久野忠治]]、[[二階堂進]]、[[松野幸泰]]、[[山下元利]]、[[稲村利幸]]、[[小坂徳三郎]]、[[田村良平]]、<br />[[林義郎]]、[[有馬元治]]、[[保岡興治]]、[[田中直紀]]、[[井上吉夫]]、[[川原新次郎]]、[[吉川芳男]]
|-
| 中立系 || align="right" | 1213 || [[小沢辰男]]、[[渡辺紘三]]、[[戸井田三郎]]、[[後藤田正晴]]、[[戸井田三郎今枝敬雄]]、[[木村睦男]]、[[大鷹淑子]]、[[河本嘉久蔵]]、[[世耕政隆]]、<br />[[長谷川信大鷹淑子]]、[[森下泰]]、[[長谷川信]]、[[浦田勝]]、[[海江田鶴造]]
|}
 
木曜クラブに残留した二階堂会長、江崎、小坂、[[山下元利]]らは以降二階堂グループと呼ばれ、引き続き独立勢力を維持したが、少人数で閣僚ポストの獲得もままならず、政界への影響力は低下した。なお、中立系も[[内閣官房長官]]を務めていた後藤田を除き総裁選直前に竹下支持に動いている<ref>[[鈴木棟一]]『田中角栄VS竹下登』3巻P109、講談社+α文庫、2000年</ref>
 
1989年6月8日、政府・自民党首脳会議での閣僚・党役員の派閥離脱方針に沿った措置として、二階堂([[自由民主党副総裁|副総裁]]経験者として自民党最高顧問)と、北海道・沖縄開発庁長官として入閣した[[井上吉夫]]は二階堂グループを一定期間のみ離脱した。後任の会長には江崎が就任した<ref>『中日新聞』1989年6月9日付朝刊、2面、「木曜ク後任会長に江崎氏」。</ref>。
[[1990年]]の総選挙で田中角栄、小坂、[[久野忠治]]が政界を引退し(ただし、久野は1回落選している)、[[保岡興治]]、田中の女婿である[[田中直紀]]が落選。大量に所属メンバーを減らしたことで、同年2月、木曜クラブは解散を表明し、田中政治の終焉を告げた。
 
[[1990年]]2月18日、[[第39回衆議院議員総選挙]]が行われる。このときすでに[[稲村利幸]]は[[政策科学研究所|渡辺派]]に移っていた<ref name="binran199002">{{Cite book |和書
|author =
|title = 国会便覧 平成2年2月新版
|edition =
|date = 1990年4月10日
|publisher = 日本政経新聞社
|page = 342-345
}}</ref><ref name="asahi19900220">『朝日新聞』1990年2月20日付朝刊、2面、「二階堂グループが解散状態に 総選挙で田中氏落選、参院2人宮沢派へ」。</ref>。選挙後、田中角栄および、稲村を除く二階堂グループ(木曜クラブ)の議員14人が辿った道は以下のとおり。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
! !! 氏名 !! 2月18日 !! 2月19日 !! 2月26日 !! 3月8日
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[田中角栄]] || 不出馬 || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[江﨑真澄]] || || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[久野忠治]] || 不出馬 || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[二階堂進]] || || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[松野幸泰]] || 不出馬 || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[山下元利]] || || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[小坂徳三郎]] || 不出馬 || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[田村良平]] || 不出馬 || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[林義郎]] || || || || 宮沢派に入会<ref>『朝日新聞』1990年3月8日付朝刊、2面、「林義郎氏、宮沢派に加入へ」。</ref>
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[有馬元治]] || 落選 || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[保岡興治]] || 落選 || || ||
|-
| style="background-color:#e6e6fa;" | 衆 || align="left" | [[田中直紀]] || 落選 || || ||
|-
| style="background-color:#fffacd;" | 参 || align="left" | [[井上吉夫]] || || || 竹下派に入会<ref name="asahi19900227" /> ||
|-
| style="background-color:#fffacd;" | 参 || align="left" | [[川原新次郎]] || || 宮沢派入りが内定<ref name="asahi19900220" /> || ||
|-
| style="background-color:#fffacd;" | 参 || align="left" | [[吉川芳男]] || || 宮沢派入りが内定<ref name="asahi19900220" /> || ||
|}
 
同年2月26日、江崎、山下、二階堂は協議し、二階堂グループは事実上解散状態にあるとの認識で一致した<ref name="asahi19900227">『朝日新聞』1990年2月27日付朝刊、2面、「二階堂グループ、活動に“終止符” 江崎氏ら3氏を除き他派閥へ」。</ref>。4月10日、『国会便覧』が発行される。この時点で二階堂は無派閥となり、木曜クラブの所属議員は江崎と山下の2人だけになった<ref name="binran199002" />。こうして田中政治は終焉を告げた。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
110 ⟶ 151行目:
|ref = {{SfnRef|伊藤|1982}}
}}
* {{Cite book|和書 |editor=マスコミ研究会|title=暗闘 田中角栄VS竹下登|publisher=国会通信社|date=1985年2月 |ref= {{SfnRef|マスコミ研究会|1985}} |isbn= }}
* {{Cite book|和書 |editor=朝日新聞政治部 |title=田中支配とその崩壊 |publisher=朝日新聞社 |series=朝日文庫 |date=1987-9-20 |ref= {{SfnRef|朝日新聞政治部|1987}} |isbn=978-4022604729 }}
* {{Cite book|和書
|author = [[立花隆]]
|year = 2005-8-10
|title = 政治と情念
|publisher = [[文文庫]]
|series = [[文春文庫]]
|isbn = 978-4167330187
|ref = {{SfnRef|立花|2005}}
122 ⟶ 166行目:
|year = 2001-3-1
|title = 決定版 私の田中角栄日記
|publisher = [[新潮文庫]]
|series = [[新潮文庫]]
|isbn = 978-4101486314
|ref = {{SfnRef|佐藤|2001}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[早坂茂三]]
|year = 2001-11-29
|title = 怨念の系譜
|publisher = [[東洋経済新報社]]
|isbn = 4-492-06129-0
|ref = {{SfnRef|早川|2001}}
}}
 
== 関連項目 ==
* [[保守本流]]
* [[金竹小]]
* [[創政会]]
* [[保守本流平成研究会]]
 
{{自由民主党 (日本)}}
139 ⟶ 193行目:
[[Category:橋本龍太郎]]
[[Category:小沢一郎]]
[[Category:1972年設立の政党・政治団体]]
[[Category:1990年廃止の政党・政治団体]]