「タラート・パシャ暗殺事件」の版間の差分

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| 画像 = Trial of Talat Pasha.jpg
| 脚注 = 公判中の法廷(1921年6月)
| 場所 = {{DEU1919}},[[File:Flagge Preußen - Provinz Brandenburg.svg|25px]] [[:en:Province of Brandenburg|ブランデンブルク州]]<br/>[[ベルリン]],{{仮リンク|ベルリン=シャルロッテンブルク|en|Charlottenburg|label=ャルロッテンブルク}}
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[[File:Talat Pasha cropped.jpg|thumb|left|upright=0.8|alt=Photographic portrait of Talaat Pasha |[[タラート・パシャ]]]]
 
[[1918年]][[10月30日]]の[[ムドロス休戦協定]]締結の後、入念な準備を行い、タラートは統一と進歩委員会指導者([[エンヴェル・パシャ]]、[[ジェマル・パシャ]]、{{仮リンク|バハエッディン・シャキル|en|Bahaeddin Şakir}}、{{仮リンク|ナズム・ベイ|en|Doctor Nazım}}、オスマン・ベドリ、{{仮リンク|セマル・アズミ|en|Cemal Azmi}})とともに、[[11月1日]]から[[11月2日]]にかけての夜、ドイツの魚雷艇で[[コンスタンティノープル]]から逃亡した。ジェマルを除けば、全員が大量虐殺の主犯であった。彼らは罪の処罰を逃れ、抵抗運動を組織するために去った{{sfnm|1a1=Dadrian|1a2=Akçam|1y=2011|1p=24|2a1=Yenen|2y=2020|2p=74}}。[[ヴァイマル共和制|ドイツ]]の外相[[ヴィルヘルム・ゾルフ]]はコンスタンチノープルの大使館にタラートを援助するよう指示し、「タラートは我々に忠誠を尽くしており、我が国は引き続き彼に対して寛容である。」とし、オスマン・トルコ政府からの身柄引き渡しの要請を拒否した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=75|2a1=Kieser|2y=2018|2p=382|3a1=Hosfeld|3y=2005|3pp=11–12}}。
 
[[11月10日]]に[[ベルリン]]に到着したタラートは、[[アレクサンダー広場]]のホテルと[[ポツダム]]の[[バーベルスベルク]]の[[サナトリウム|療養所]]に滞在した後{{sfn|Hosfeld|2005|pp=12–13}}、現在の{{仮リンク|エルンスト・ロイター広場|en|Ernst-Reuter-Platz}}にあたる{{仮リンク|ハーデンベルク通り|de|Hardenbergstraße}}4番地の9部屋のアパートに移った{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=382|2a1=Hofmann|2y=2020|2pp=74–75|3a1=Hosfeld|3a2=Petrossian|3y=2020|3p=1}}。タラートはアパートの隣にオリエンタル・クラブを設立し、[[ムスリム]]や、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]に反対するヨーロッパ人が集った{{sfn|Kieser|2018|p=385}}。外務省は、[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング|フランクフルター・ツァイトゥング]]紙の元コンスタンチノープル特派員{{仮リンク|パウル・ヴァイツ|de|Paul Weitz (Journalist)}}を使って、このアパートでの出来事を監視した{{sfn|Hosfeld|2005|p=16}}。[[ドイツ社会民主党]]の[[ドイツ国首相|首相]][[フリードリヒ・エーベルト]]の法令により、タラートの在住は合法化された。[[1920年]]、タラートの妻ヘイリエが加わった{{sfn|Kieser|2018|p=382}}。ドイツ政府は、タラートの名前がアルメニア人殺し屋リストの筆頭に挙げられているという情報を入手し、[[メクレンブルク]]にある元オスマン帝国参謀総長{{仮リンク|フリッツ・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ|en|Fritz Bronsart von Schellendorf}}所有の人里離れた屋敷に滞在するよう提案した。タラートは、政治的扇動を続けるには首都のネットワークが必要だったため、これを拒否した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=75|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=12}}。統一と進歩委員会主導の抵抗運動は、やがて[[トルコ革命]]へとつながっていった{{sfn|Kieser|2018|p=319}}。タラートは当初、トルコの政治家[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]を傀儡として使おうと考え、ベルリンからトルコの将軍たちに直接命令を下した{{sfn|Hosfeld|2005|p=16}}。
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これらの志願兵の一人は、{{仮リンク|エルズルム・ヴィライエト|en|Erzurum vilayet}}の[[エルズィンジャン]]出身の{{仮リンク|ソゴモン・テフリリアン|en|Soghomon Tehlirian}}であった{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1pp=172–173|2a1=Jacobs|2y=2019|2p=33}}。戦争勃発時、テフリリアンは[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]にいた{{sfn|Jacobs|2019|p=36}}。反アルメニア的な残虐行為について聞いた後、彼は[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]]の{{仮リンク|アルメニア人義勇軍|en|Armenian volunteer units}}に参加した。部隊が西に進むと、ジェノサイドの余波を発見した。家族が殺されたことを知ったテフリリアンは、復讐を誓った{{sfn|MacCurdy|2015|pp=173–174, 186}}。回想録には、ジェノサイドで亡くなった85人の家族が記されている{{sfn|Hofmann|2020|p=82}}。テフリリアンは、現在[[心的外傷後ストレス障害]]と呼ばれているものに起因すると思われる、定期的な失神発作やその他の神経系障害に悩まされていた{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=40|2a1=MacCurdy|2y=2015|2pp=174, 272}}。
 
終戦後、テフリリアンはコンスタンティノープルに赴き、オスマン帝国の秘密警察に勤務し、{{仮リンク|アルメニア知識人の国外追放(1915 (1915年4月24日)|en|Deportation of Armenian intellectuals on 24 April 1915|label=1915年4月24日に国外追放されたアルメニア人知識人}}のリスト作成に貢献したハルチウン・ムグディティチアンを暗殺した。この殺害により、ネメシスの工作員はタラート・パシャの暗殺を彼に託すことを確信した{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=77|2a1=MacCurdy|2y=2015|2pp=177, 186}}。1920年半ば、ネメシス組織はテフリリアンに渡米費を支払い、ガロは彼に、主要な実行犯に対して宣告された死刑判決が執行されていないこと、殺人犯が亡命先から反アルメニア活動を続けていることを説明した。その年の秋、[[アルメニア・トルコ戦争|トルコの民族主義運動がアルメニアに侵攻した]]。テフリリアンは、ネメシスが行方を追っていた統一と進歩委員会の指導者7人の写真を受け取り、ヨーロッパに出発し、まず[[パリ]]に向かった。[[ジュネーブ]]で機械工学の学生としてベルリン行きのビザを取得し、[[12月2日]]に出発した{{sfn|MacCurdy|2015|pp=187–188}}。
 
暗殺を企てる共謀者たちは、[[アルメニア第一共和国|アルメニア共和国]]副領事リバリット・ナザリアントの邸宅で会合を持った。テフリリアンは12月中旬に[[腸チフス]]で倒れた後も、この会合に出席していた{{sfn|MacCurdy|2015|pp=187–188}}。彼はシャキルの追跡中に倒れ、1週間休養を余儀なくされたほどであった。ダシュナク中央委員会は、他の犯人を排除してタラートに焦点を当てるよう命じた{{sfn|MacCurdy|2015|pp=189–190}}。2月末、共謀者たちは、タラートが[[ローマ]]に向かうために[[ベルリン動物園駅]]から出発するのを発見し、タラートの居場所を突き止めた。ヴァハン・ザカリアンツは宿を探している男を装って調査し、タラートがハーデンベルク通り4番地に住んでいることを突き止めた{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1pp=189–190|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=23}}。身元を確認するため、テフリリアンは向かいのハーデンベルク通り37番地に[[ペンション]]を借り、タラートのアパートに出入りする人々を観察した。ナタリーからの命令はこうだった。「国家第一の殺人者の頭蓋骨を爆破しても、逃げようとはするな。死体の上に足を置いてそこに立ち、警察に投降しなさい。警察が来てあなたに手錠をかけるだろう。」{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1pp=189–190|2a1=Hofmann|2y=2020|2p=81}}
==暗殺==
[[File:Berlin Hardenbergstraße 008309.jpg|thumb|暗殺現場となったハーデンベルク通り27番地の前の街路]]
雨の降る火曜日([[1921年]][[3月15日]])午前10時45分頃、タラートは手袋を買いにアパートを出た。テフリリアンは反対方向からタラートに近づき、彼を認識し、通りを横切り、背後から詰め寄り、人通りの多い街角のハーデンベルク通り27番地の外で彼のうなじを至近距離から撃ち、即死させた{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=226|2a1=Kieser|2y=2018|2p=403|3a1=Bogosian|3y=2015|3p=12}}。弾丸は[[脊髄]]を貫通し、タラートの左目の上から出て脳を破壊した{{sfnm|1a1=Bogosian|1y=2015|1p=12|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=7}}。タラートは前のめりに倒れ、血の海に横たわった{{sfn|Suny|2015|p=344}}。テフリリアンは最初、死体の上に立っていたが、野次馬が叫ぶと、自分の指示を忘れて逃げ出した{{sfn|Bogosian|2015|p=13}}。暗殺に使った[[9x19mmパラベラム弾|口径9ミリ]]の[[ルガーP08|パラベラム・ピストル]]を捨て、ファサネン通りを通って逃走し、そこで店員のニコラウス・ジェッセンに逮捕された。群衆の中にいた人々は彼をひどく殴り、テフリリアンは片言のドイツ語で「大丈夫だ。私は外国人で、彼は外国人だ!」と叫んだ{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=226|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=7|3a1=Suny|3y=2015|3p=344}}。その直後、彼は警察に「私は犯人ではない、彼が犯人だ。と言った{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=226|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=8}}。
 
警察は遺体を封鎖した。同じ統一と進歩委員会の亡命者ナズム・ベイがまもなく現場に到着し、ハーデンベルク通り4番地にあるタラートのアパートに向かった。午前11時30分、タラートとしばしば会っていた外務省職員で親トルコ活動家の{{仮リンク|エルンスト・イェック|en|Ernst Jäckh}}も到着した{{sfn|Kieser|2018|p=404}}。シャキルも暗殺を知り、警察のために遺体の身元を確認した{{sfn|Suny|2015|p=344}}。イェックとナズムは暗殺現場に戻った。イェックは外務省職員としての権限を行使して遺体を引き渡すよう警察を説得しようとしたが、殺人課が到着する前に警察はそれを拒否した。イェックは、「トルコの[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]」を通行人が見とれるような状態で外に置いておくわけにはいかないと訴えた{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=404|2a1=Hosfeld|2y=2005|2pp=8–9}}。結局、彼らは遺体を運ぶ許可を得て、[[ドイツ赤十字社|赤十字]]の車で{{仮リンク|ベルリン=シャルロッテンブルク|en|Charlottenburg|label=シャルロッテンブルク}}の霊安室に送られた{{sfn|Hosfeld|2005|p=9}}。暗殺の直後、シャキルとナズムは警察の保護を受けた{{sfn|Hosfeld|2005|p=9}}。他の統一と進歩委員会亡命者たちは、次は自分たちになるのではないかと心配していた{{sfn|Göçek|2015|p=334}}。
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当初、タラートの友人たちは[[アナトリア半島|アナトリア]]での埋葬を望んでいたが、コンスタンティノープルのオスマン帝国政府もアンカラのトルコ民族主義運動も遺体を望まなかった。第一次世界大戦の最悪の犯罪者とされる人物と関係を持つことは、政治的な責任となるからだ{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。タラートの葬儀にはヘイリエとオリエンタル・クラブからの招待状が送られ、3月19日、参列者の多い中、{{仮リンク|旧聖マティウス墓地|en|Alter St.-Matthäus-Kirchhof}}に埋葬された{{sfnm|1a1=Hosfeld|1y=2005|1p=9|2a1=Kieser|2y=2018|2p=405}}。午前11時、トルコ大使館の[[イマーム]]、シュクリ・ベイによる礼拝がタラートのアパートで行われた。その後、大行列が棺を従えてマティウスに向かい、そこでタラートは埋葬された{{sfn|Hosfeld|2005|p=9}}。
 
元外相の{{仮リンク|リヒャルト・フォン・キュールマン|en|Richard von Kühlmann}}や[[アルトゥール・ツィンメルマン]]、元[[ドイツ銀行]]頭取、元::[[バグダード鉄道]]局長、戦時中にオスマン帝国に従軍した軍人数名、亡命した[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の代理として参列した{{仮リンク|アウグスト・フォン・プラテン・ハレルミュンデ|en|August von Platen-Hallermünde}}など、多くの著名なドイツ人が弔問した{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。ドイツ外務省からは、「偉大な政治家と忠実な友人に捧ぐ 」と書かれたリボンのついた花輪が送られた{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=232|2a1=Hosfeld|2y=2005|2p=10}}。シャキルはかろうじて平静を保っていたが、{{仮リンク|オスマン帝国国旗|en|Flags of the Ottoman Empire}}で覆われた棺が墓に下ろされる間、弔辞を読んだ{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。彼は、暗殺は「[[イスラム世界|イスラム諸国]]に対する[[帝国主義]]政治の結果」であると主張した{{sfn|Kieser|2018|p=405}}。
 
4月下旬、[[ドイツ人民党]]の国民的リベラル派の政治家[[グスタフ・シュトレーゼマン]]が、タラートを称える公的な記念式典を提案した{{sfnm|1a1=Kieser|1y=2018|1p=407|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=268}}。{{仮リンク|ドイツ・トルコ協会|de|Deutsch-Türkische Vereinigung}}はこれを断った{{sfn|Ihrig|2016|p=268}}。シュトレーゼマンはジェノサイドをよく知っており、少なくとも100万人のアルメニア人が殺されたと信じていた{{sfn|Ihrig|2016|p=269}}。タラアトの遺品はベルリン公安局長のワイスマンの手に渡り、彼の手記はシャキルに渡され、出版された{{sfn|Dadrian|Akçam|2011|p=155}}。
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===ジェノサイドに関する他の証言===
裁判所は、暗殺とその直後の目撃者である警察官と検視官、そしてテフリリアンの2人の女主人から話を聞いた後、ベルリンでテフリリアンと交流のあったアルメニア人に証言を求めた。これらの証人はアルメニア人虐殺に関する情報を提供した。レボン・エフティアンは法廷で、ジェノサイドの間、彼の家族はエルズルムにいて、両親は殺されたが、他の親戚はなんとか逃げ延びたと語った。テフリアンの通訳ザカリアンツもその日のうちに証言し、1890年代の[[ハミディイェ]]虐殺で父、母、祖父、兄弟、叔父を失ったと述べた。ベルリンのアルメニア人タバコ職人であるテルジバシアン氏は、ジェノサイドの際にエルズルムにいた友人や親戚はすべて殺されたと証言した{{sfn|Ihrig|2016|pp=240–241}}。
 
====クリスティーン・テルジバシアンの証言====
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弁護側は、アルメニア人ジャーナリスト、{{仮リンク|アラム・アンドニアン|en|Aram Andonian}}が収集した{{仮リンク|ナイム・ベイの回顧録|en|The Memoirs of Naim Bey|label=タラート・パシャの電報}}数通を証拠として読み上げ、大量虐殺におけるタラートの罪を証明しようとした{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=250|2a1=Mouradian|2y=2015|2pp=256–257}}。アンドニアンは証言の準備をしてベルリンにやってきて、現在は紛失している電報の原本を何通か持参した{{sfn|Akçam|2018|pp=43–45}}。弁護側は、[[アレッポ]]の元ドイツ領事{{仮リンク|ヴァルター・レスラー|de|Walter Rößler}}に証言を求めたが、タラートが「アルメニア人の絶滅を望み、組織的に実行した」と信じていると証言すると告げたため、外務省の上司はこれを阻止した{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1pp=262–263|2a1=Hosfeld|2y=2013|2pp=10–11}}。外務省は、レスラーが大量虐殺に関するドイツの知識と加担を暴露するのではないかと心配したのである{{sfn|Dean|2019|p=40}}。弁護団の要請で、レスラーはアンドニアンの電報を調査し、本物である可能性が高いと結論づけた{{sfn|Akçam|2018|pp=44, 231–232}}。検察官は、テフリリアンがタラトに責任を負わせたことに疑いはないという理由で異議を唱えたので、アンドニアンは証言せず、彼の電報は証拠採用されなかった。結局、弁護側は、タラートの有罪に関するさらなる証拠の提出要求を取り下げた{{sfn|Ihrig|2016|pp=250–251}}。このときすでに、陪審員たちはテフリリアンの有罪よりもタラートの有罪に集中していた{{sfnm|1a1=Dean|1y=2019|1p=37|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=251}}。
 
タラートの電報は、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙などの報道で取り上げられた{{Sfn|Hosfeld|Petrossian|2020|pp=9-10}}。召喚されながら聴取されなかった他の証人には、ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ、兵士の{{仮リンク|エルンスト・パラキン|de|Ernst Paraquin}}と{{仮リンク|フランツ・カール・エンドレス|de|Franz Carl Endres}}、衛生兵の{{仮リンク|アルミン・T・ヴェグナー|en|Armin T. Wegner}]}、エルズルムの副領事として虐殺を目撃した[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター]]などがいた{{sfn|Ihrig|2016|p=262}}。
 
===精神状態===
5人の専門家証人が、テフリリアンの精神状態と、それがドイツの法律に従って彼の行動の刑事責任を免責するかどうかについて証言した{{sfn|Hofmann|2020|p=80}}。全員が、彼が1915年に経験したことのために、定期的に「てんかん」の発作に苦しんでいることに同意した{{sfn|Garibian|2018|p=226}}。アイリグによると、どの医師もテフリリアンの状態を明確に理解していなかったが、彼らの理解は、後の心的外傷後ストレス障害という病気に似ていた{{sfn|Ihrig|2016|p=251}}。ロバート・ストーマー医師が最初に証言し、彼の意見では、テフリリアンの犯行は計画的な殺人であり、彼の精神状態に起因するものではないと述べた{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=251|2a1=Garibian|2y=2018|2p=226}}。{{仮リンク|フーゴー・リープマン|en|Hugo Liepmann}}によると、テフリリアンは1915年に目撃したことが原因で「精神病質者」になっており、したがって自分の行動に完全な責任はなかった{{sfn|Ihrig|2016|pp=251–252}}。神経学者であり教授であった{{仮リンク|リヒャルト・カッシーラー|en|Richard Cassirer}}は、「感情の乱れが彼の症状の根本原因」であり、「影響てんかん」が彼の人格を完全に変えてしまったと証言している{{sfnm|1a1=MacCurdy|1y=2015|1p=191|2a1=Ihrig|2y=2016|2p=252}}。エドマンド・フォースターは、戦争中のトラウマ体験が新たな病態を引き起こすことはなく、すでに存在していた病態を顕在化させたに過ぎないが、テフリリアンの行動には責任がないことに同意した{{sfn|Ihrig|2016|p=252}}。最後の専門家であるブルーノ・ハーケも「影響てんかん」と診断し、テフリリアンが自分の意志で行動を起こした可能性を完全に否定した{{sfn|Ihrig|2016|pp=252–253}}。
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この暗殺事件は、事件当日のドイツの多くの新聞の見出しを飾ったが、ほとんどの報道はタラートへの同情的なものだった{{sfn|Ihrig|2016|p=227}}。翌日、ドイツのほとんどの新聞が暗殺を報じ、多くの新聞が追悼記事を掲載した。報道の典型的な例は『{{仮リンク|フォッシェ・ツァイトゥング|en|Vossische Zeitung}}』であり、同紙は「(アルメニア人の)到達可能な部族をすべて絶滅」させようとしたタラートの役割を認めつつも、大量虐殺を正当化するいくつかの理由を述べた{{sfn|Ihrig|2016|p=228}}。他の新聞は、タラートはアルメニア人の復讐の対象としては間違っていたと指摘した{{sfn|Ihrig|2016|pp=228–229}}。『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』紙は、テフリリアンが行ったような裏切りや殺人が「真のアルメニア人のやり方」であると主張し、反アルメニアキャンペーンを展開した{{sfnm|1a1=Hosfeld|1y=2005|1p=11|2a1=Ihrig|2y=2016|2pp=229–231|3a1=Hofmann|3y=2016|3p=95}}。当初、暗殺者に同情的だった唯一の新聞は、『{{仮リンク|フライハイト|en|Die Freiheit (1918)}}』であった{{sfn|Ihrig|2016|p=231}}。
 
裁判の報道はその後1ヵ月にわたって広まり、[[1933年]]に[[ナチ党の権力掌握|ナチスが政権を掌握する]]まで、テフリリアンの功績は政治的な議論の場で取り上げられ続けた{{sfn|Ihrig|2016|pp=271–272}}。裁判の後、ドイツの新聞は、政治的なスペクトルを超えて、大量虐殺の現実を受け入れた{{{sfn|Ihrig|2016|p=293}}。ほとんどの新聞がレプシウスとテフリリアンの証言を大々的に引用した{{sfn|Ihrig|2016|p=265}}。無罪判決に対するドイツの反応はさまざまで、アルメニア人や普遍的[[人権]]に同情的な人々の間ではおおむね好意的であった{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=264|2a1=Kieser|2y=2018|2p=408}}。平和主義雑誌『{{仮リンク|ディ・ヴェルトビューネ|en|Die Weltbühne}}』に寄稿したジャーナリストの[[エーミール・ルートヴィヒ]]は、「国家社会が国際秩序の保護者として組織されたときにのみ、いかなるアルメニア人殺人者も処罰されずに残ることはないだろう。なぜなら、いかなるトルコのパシャも、国民を砂漠に送る権利はないからだ。」{{sfnm|1a1=Ihrig|1y=2016|1p=268|2a1=Kieser|2y=2018|2p=408}}裁判の数ヵ月後、ウェグナーはその全記録を出版した。彼は序文で、テフリリアンの「民族のために自らを犠牲にする英雄的な覚悟」を賞賛し、これを机上で大量虐殺を命令するのに必要な勇気の欠如と対比させた{{sfnm|1a1=Garibian|1y=2018|1p=221|2a1=Gruner|2y=2012|2p=11}}。
 
反アルメニア的な傾向のあるナショナリスト側の意見では、反アルメニア的な記事を多く掲載し{{sfn|Ihrig|2016|pp=272–273, 293}}、判決を「司法スキャンダル」と呼んだフマンの『ドイツ・オールゲマイネ・ツァイトゥング』に続き{{sfn|Hofmann|2016|p=95}}、多くの新聞がジェノサイドの否定から正当化に転じた。民族主義的な新聞によって広く受け入れられた大量絶滅を正当化する論拠{{sfn|Ihrig|2016|p=356}}は、{{仮リンク|[[アルメノイド|en|Armenoid race|label=アルメニア人の想定される人種的特徴}}]]に基づいており、{{仮リンク|人種的反ユダヤ主義|en|Racial antisemitism}}の理論と容易に結びついた{{sfn|Ihrig|2016|pp=293–294}}。[[1926年]]、[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の思想家[[アルフレート・ローゼンベルク]]は、テフリリアンの無罪判決を歓迎したのは「ユダヤ人新聞」だけだと主張した{{sfn|Ihrig|2016|p=296}}。彼はまた、「アルメニア人は、ドイツに対するユダヤ人と同様に、トルコ人に対するスパイ活動を主導した。」と主張し、タラートの彼らに対する行動を正当化した{{sfn|Hofmann|2020|p=86}}。
===オスマン帝国===
タラートの暗殺後、アンカラの新聞は彼を偉大な革命家、改革者として賞賛し、トルコの民族主義者たちはドイツ領事に、彼は「彼らの希望であり偶像」であり続けたと語った{{sfn|Hosfeld|2005|p=10}}。{{仮リンク|イェニ・ギュン|tr|Yeni Gün}}は「我々の偉大な愛国者は祖国のために死んだ。タラートはトルコが生んだ最も偉大な人物であり続けるだろう。」と述べた{{sfn|Bogosian|2015|p=202}}。コンスタンティノープルでは、彼の死に対する反応は様々であった。一部の者はタラートに敬意を表した{{sfn|Kieser|2018|p=406}}が、リベラルな日刊紙『{{仮リンク|アレムダール|tr|Alemdar (gazete)}}』は、タラートは自分のコインで返済され、「彼の死は彼の行いの償いである」とコメントした{{sfn|Hosfeld|2005|p=11}}。『{{仮リンク|ハキミエト・イ・ミリエ|en|Hakimiyet-i Milliye}}』は、テフリリアンはイギリスが彼を送ったと自白したと主張した<ref>{{cite news |last1=Sarıhan |first1=Zeki |title=Talat Paşa'nın katli: Türkiye basınında nasıl karşılandı? |url=https://www.indyturk.com/node/146526/t%C3%BCrkiyeden-sesler/talat-pa%C5%9Fa%E2%80%99n%C4%B1n-katli-t%C3%BCrkiye-bas%C4%B1n%C4%B1nda-nas%C4%B1l-kar%C5%9F%C4%B1land%C4%B1 |access-date=28 March 2021 |work=Independent Türkçe |date=15 March 2020 |language=tr |archive-date=30 April 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210430134543/https://www.indyturk.com/node/146526/t%C3%BCrkiyeden-sesler/talat-pa%C5%9Fa%E2%80%99n%C4%B1n-katli-t%C3%BCrkiye-bas%C4%B1n%C4%B1nda-nas%C4%B1l-kar%C5%9F%C4%B1land%C4%B1 |url-status=live }}</ref>。多くの記事は、タラートの貧しい始まりから権力の高みへの道のりを強調し、彼の反アルメニア政策を擁護した{{sfn|Kieser|2018|p=406}}。イスタンブールの新聞『イェニ・シャーク』は1921年にタラートの回想録を連載した{{sfn|Adak|2007|p=166}}。コンスタンティノープルで発行された彼の新聞で、アルメニア人社会主義者{{仮リンク|ディクラン・ザヴェン|hy|Զավեն Տիգրան}}は、「自国の真の利益を認識しているトルコ人は、この元大臣を優秀な政治家に数えないだろう」と期待を表明した{{sfn|Kieser|2018|pp=407, 426}}。[[1922年]]、[[アンカラ政府]]はタラートの有罪判決を取り消し{{sfn|Petrossian|2020|pp=99–100}}、その2年後、アルメニア人虐殺の中心的加害者であるタラートとシャキルの家族に年金を与える法律を可決した。タラートの家族は、{{仮リンク|トルコにおけるアルメニア人財産の没収|en|Confiscation of Armenian properties in Turkey|label=没収されたアルメニア人の財産}}から得られる他の補償金も受け取った{{sfn|Dadrian|Akçam|2011|p=105}}。
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歴史家の{{仮リンク|ハンス=ルーカス・キーザー|en|Hans-Lukas Kieser}}は、「暗殺は、復讐を求める被害者と、反抗的な否定に凝り固まった加害者という病んだ関係を永続させた。」と述べている{{sfn|Kieser|2018|p=408}}。タラートとテフリリアンはともに、それぞれの側から英雄視されている。アルプ・イェネンはこの関係を「タラート・テフリリアン・コンプレックス」と呼んでいる{{sfn|Yenen|2022|pp=2–3}}。
 
トルコではテロリストとみなされていたテフリリアンだが{{sfn|Jacobs|2019|p=36}}、{{仮リンク|アルメニアのナショナリズム|en|Armenian nationalism|Vlabellabel=アルメニア人にとって英雄となった}}{{sfn|Suny|2015|p=344}}。1950年代、トルコの諜報員は[[カサブランカ]]でテフリリアンを追跡し、命を脅かしたため、[[アメリカ]]に移住せざるを得なかった{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=77|2a1=MacCurdy|2y=2015|2pp=275–280}}。この動きによって、テフリリアンは離散したアルメニア人から注目されるようになったが、彼の息子によれば、彼は暗殺における自分の役割について話したがらなかったという。彼の死後、[[カリフォルニア州]][[フレズノ]]の{{仮リンク|アララト墓地|en|Ararat Cemetery}}に記念碑が建てられた{{sfn|Yenen|2022|p=20}}。アルメニア共和国からの国家的な後援もあるが、テフリリアンの記憶は主に離散したアルメニア人によって分散的に広められている。これとは対照的に、トルコのタラート記念は国家主導で行われている。{{sfn|Yenen|2022|p=3}}。[[1943年]]、トルコ政府の要請により、タラートは掘り起こされ、[[1909年]]の{{仮リンク|3月31日事件|en|31 March incident|label=オスマン・トルコの反乱}}を防いで命を落とした人々に捧げられた{{仮リンク|イスタンブールの自由の記念碑|en|Monument of Liberty, Istanbul}}で{{仮リンク|タラート・パシャの国葬|en|State funeral of Talaat Pasha|label=国葬}}が行われた{{sfn|Kieser|2018|p=419}}。タラートが暗殺されたときに着ていたシャツは、{{仮リンク|イスタンブール軍事博物館|en|Istanbul Military Museum}}に展示されている{{sfn|Garibian|2018|p=234}}。{{as of|2020|lc=yes}}現在、トルコやその他の国々の多くのモスク、学校、宅地開発、通りにはタラートの名前が付けられている{{sfnm|1a1=Hofmann|1y=2020|1p=76|2a1=Garibian|2y=2018|2p=234}}。
 
[[2005年]]以来、暗殺現場に記念碑を建立し{{sfn|Hofmann|2020|p=88}}、[[3月15日]]に彼の墓で記念式典を行おうとするベルリンのトルコ人による試みがあった{{sfn|Yenen|2022|p=24}}。[[2006年]]3月、トルコの民族主義団体は暗殺を記念し、「大虐殺の嘘」に抗議する目的でベルリンで2つの集会を開催した。ドイツの政治家たちはこの行進を批判し、参加者は少なかった{{sfnm|1a1=Fleck|1y=2014|1pp=268–270|2a1=von Bieberstein|2y=2017|2p=259}}。[[2007年]]、トルコ系アルメニア人ジャーナリスト、[[フラント・ディンク]]がトルコの超国家主義者によって白昼堂々と暗殺された。ディンク殺害とタラート殺害の関連性は複数の著者によって指摘されている{{sfn|Yenen|2022|p=23}}。
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[[Category:1921年3月]]
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[[Category:アルメニア人虐殺]]
[[Category:暗殺]]
[[Category:ドイツの殺人事件]]
[[Category:ベルリンの歴史]]