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{{イラクの歴史}}
この項では、'''[[イラク]]'''についての'''地域史'''を述べる。
 
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約6万年前のイラクには、[[ネアンデルタール人]]が住んでいた。
当時、ネアンデルタール人は、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアまで分布していた。
イラク北部の[[シャニダール洞窟]]で化石が発掘されているが、同時に数種類の花の花粉が発見されたことから、ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があったという説がある。
 
[[デオキシリボ核酸|DNA]]解析などの研究に基づき、ネアンデルタール人と現生人類との間には直接のつながりは無いとする説が有力である。
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[[紀元前1595年]]、[[アナトリア半島]](小アジア)の[[ヒッタイト]](ヒッタイト古王国)が東方に遠征し、古バビロニアは滅ぼされた。ヒッタイト人は[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する言語を用いた人々である。遠征直後にヒッタイト王[[ムルシリ1世]]が暗殺され、ヒッタイトが衰退したので、メソポタミアの統治は混乱した。
 
メソポタミア北部では[[フルリ人]]が[[ミタンニ]]王国を建立した。メソポタミア南部のバビロニア地域は、[[紀元前1475年]]頃に、[[カッシート人|カッシート王国]](バビロン第3王朝)が{{仮リンク|[[海の国第1王朝|en|Sealand Dynasty}}]](バビロン第2王朝)を滅ぼし統一された。カッシート人の出自は不明な点が多い。これによりオリエントは、ミタンニ王国とカッシート王国、北のアナトリア半島のヒッタイト、西のエジプトと、4強国が支配する状態'''四大国時代'''になった。
 
=== アッシリア帝国の成立 ===
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{{main|新バビロニア}}
 
[[紀元前800年]]代以降、バビロン周辺では[[セム語派]]のカルデア人が勢力を増した。[[紀元前626年]]、カルデアの王[[ナボポラッサル]]は、[[アッシリア]]帝国からバビロニア地方を奪取し、[[新バビロニア]](カルデア王国)を建国した。さらにナボポラッサルは、現イラン北西部を中心とする[[メディア王国]]と同盟を結び、[[紀元前612年]]にアッシリアの首都[[ニネヴェ]]を陥落させ、アッシリア帝国を滅ぼした。これにより[[オリエント]]は、新バビロニア、メディア、[[エジプト]]、[[アナトリア半島]]の[[リディア]]の'''四大国時代'''になった。
[[紀元前800年]]代以降、バビロン周辺では[[セム語派]]の[[カルデア]]人が勢力を増した。
[[紀元前626年]]、カルデアの王[[ナボポラッサル]]は、[[アッシリア]]帝国からバビロニア地方を奪取し、[[新バビロニア]](カルデア王国)を建国した。
さらにナボポラッサルは、現イラン北西部を中心とする[[メディア]]王国と同盟を結び、[[紀元前612年]]にアッシリアの首都[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]を陥落させ、アッシリア帝国を滅ぼした。
これにより[[オリエント]]は、新バビロニア、メディア、[[エジプト]]、[[アナトリア半島]]の[[リディア]]の四大国の時代になった。
 
新バビロニアの王の中では[[ネブカドネザル2世]]([[紀元前604年]]-[[紀元前562年]])が有名である。[[紀元前586年]]、ネブカドネザル2世は[[ユダヤ|ユダ王国]]を征服し、15,000人とも言われる捕虜をバビロニアに連れ去った([[バビロン捕囚]])。また伝説によると、ネブカドネザル2世は、[[世界の7不思議]]の一つ、[[バビロンの空中庭園]]を建造した
[[紀元前586年]]、ネブカドネザル2世は[[ユダヤ|ユダ王国]]を征服し、15,000人とも言われる捕虜をバビロニアに連れ去った([[バビロン捕囚]])。
また伝説によると、ネブカドネザル2世は、[[世界の7不思議]]の一つ、[[バビロンの空中庭園]]を建造した。
 
== ペルシアの支配 ==
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=== アケメネス朝ペルシア帝国 ===
[[ファイル:Map of the Achaemenid Empire.jpg|right|thumb|250px|アケメネス朝ペルシア帝国の最大版図]]
{{main|アケメネス朝}}
 
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アラビア語の「イラク(''Iraq'')」は、イラク南部の古代都市''Uruk''に由来があり、ペルシア語の ''Ērāk'' はこれを経由した言葉だが、この時代には未だ使われていなかった。
 
=== セレウコス朝シリマケドニ王国 ===
[[ファイル:MakedonischesReich.jpg|right|250px|thumb|アレキサンダー大王の征服範囲]]
{{main|アレクサンドロス3世|セレウコス朝マケドニア王国}}
 
[[紀元前331年]]、アケメネス朝ペルシア帝国は、[[アレクサンドロス3世]](大王)の遠征によって滅亡した。
アレキサンダー大王は古代[[マケドニア王国]](現ギリシャの一部)の国王で、短期間のうちにインドに至るまでの広い範囲を征服し、[[紀元前323年]]に自ら帝国の首都に定めていたイラクの[[バグダード]]南方90㎞に位置するバビロンで没した。
 
=== セレウコス朝シリア ===
{{main|セレウコス朝}}
アレキサンダー大王の死後、後継者争いが起こった([[ディアドコイ戦争]])。
この結果、[[バビロニア]]を基盤にする[[セレウコス1世]]が、イラン、シリアの支配も獲得し、[[ギリシア]]系の'''[[セレウコス朝]]シリア'''(シリア王国)を起こした。
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=== アルサケス朝パルティア ===
{{main|パルティア}}
{{main|[[パルティア|アルサケス朝パルティア]]|{{仮リンク|パルティア (地域)|en|Parthia|label=パルティア}}}}
 
[[紀元前3世紀]]中ごろ、セレウコス朝の支配力が衰え、イラン東北地方の'''[[パルティア]]'''と呼ばれるイラン系遊牧民が独立した。
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=== サーサーン朝ペルシア帝国 ===
{{main|サーサーン朝|ジャーヒリーヤ}}
 
この後、現イランの[[ペルセポリス]]で独立した[[アルダシール1世]]が、[[226年]]にパルティアを滅ぼして'''[[サーサーン朝]]ペルシア'''を起こし、[[230年]]には現イラク地域を支配下に収めた。
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この王朝は、[[7世紀]]にアラブ系イスラム教徒(ムスリム)に占領されるまで続く。
 
現イラク地域はまだクバルバラと呼ばれていて、その中をさらにミシャン(''Mishān'')、アスリスタン(''Asuristān'')、アディアベーン(''Ādiābene'')、下メディアに区分されていた。サーサーン朝の南部と西部のアラビアの砂漠にはアラブ部族が住んでいて、サーサーン朝の支配を受けながら{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}[[ヒーラ|ヒーラ王国]]が治めていた。サーサーン朝の北部(イラクの北部)は[[東ローマ帝国]]に接していた。
サーサーン朝の南部と西部のアラビアの砂漠にはアラブ部族が住んでいて、サーサーン朝の支配を受けながら{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}{{仮リンク|ヒーラ|en|Al-Hirah|label=ヒーラ王国}}が治めていた。
サーサーン朝の北部(イラクの北部)は[[東ローマ帝国|ビザンチン帝国]]に接していた。
 
サーサーン朝と東ローマ帝国と衝突を繰り返しており、イラク北部は東ローマ帝国に支配されることもあった。[[602年]]、{{仮リンク|[[ホスロー2世|en|Khosrau II}}]]ビザンチン東ローマ帝国に最後の大規模な遠征を行った([[:en:Byzantine–Sassanid東ローマ・サーサーン戦争 War of 602–628(602年-628年)]])。前半にはビザンチン東ローマの首都[[コンスタンティノポリス]]の間近まで迫ったが、後半は戦況が反転し、[[627年]]から[[628年]]には、[[ヘラクレイオス]]帝率いるビザンチン東ローマ軍がサーサーン朝の首都[[クテシフォン]]を奪取した。このときはビザンチン東ローマ軍はすぐに撤退したが、サーサーン朝の国力は大きく消耗した
サーサーン朝とビザンチン帝国と衝突を繰り返しており、イラク北部はビザンチン帝国に支配されることもあった。
[[602年]]、{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}はビザンチン帝国に最後の大規模な遠征を行った([[:en:Byzantine–Sassanid War of 602–628]])。前半にはビザンチンの首都[[コンスタンティノポリス]]の間近まで迫ったが、後半は戦況が反転し、[[627年]]から[[628年]]には、[[ヘラクレイオス]]帝率いるビザンチン軍がサーサーン朝の首都[[クテシフォン]]を奪取した。このときはビザンチン軍はすぐに撤退したが、サーサーン朝の国力は大きく消耗した。
 
サーサーン朝の時代のイラク地域には、ペルシア人、アラム語系住民の小作農、牧畜を営むアラブ人、ビザンチンから連れ帰ったギリシャ人奴隷など、多くの民族が暮らしていた。
[[ザグロス山脈]]のふもとには[[クルド人]]が住んでいた。
 
サーサーン朝の時代のイラク地域には、ペルシア人、アラム語系住民の小作農、牧畜を営むアラブ人、ビザンチンから連れ帰ったギリシャ人奴隷など、多くの民族が暮らしていた。[[ザグロス山脈]]のふもとには[[クルド人]]が住んでいた。
サーサーン朝の国教は[[ゾロアスター教]]だが、信徒は主にペルシア人に限られていた。
 
残る住民の多くは[[キリスト教]]徒だった。
サーサーン朝の国教は[[ゾロアスター教]]だが、信徒は主にペルシア人に限られていた。残る住民の多くは[[キリスト教]]徒だった。キリスト教徒は[[単性論非カルケドン正教会]]と[[ネストリウス派]]とに分かれていて、最も広まったのはネストリウス派だった。[[マニ教]]、[[マズダク教]]の住民もおり、古都バビロン周辺には[[ユダヤ教]]徒が住んでいた。さらに、国土の南部には、キリスト教からは異端とみなされている古バビロニアの[[マンダ教]]など[[グノーシス主義]]の諸派の教徒がいた。
[[マニ教]]、[[マズダク教]]の住民もおり、古都バビロン周辺には[[ユダヤ教]]徒が住んでいた。
さらに、国土の南部には、キリスト教からは異端とみなされている古バビロニアの[[マンダ教]]など[[グノーシス主義]]の諸派の教徒がいた。
 
== イスラム王朝の時代 ==
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=== アラブによる征服とイスラム帝国 ===
{{main|イスラム帝国}}

==== 正統カリフ ====
[[ファイル:Age of Caliphs.png|250px|thumb|leftright|イスラム帝国初期の[[正統カリフ]]時代]]
{{main|正統カリフ}}
{{main|イスラム帝国|アッバース朝}}
 
{{仮リンク|[[ホスロー2世|en|Khosrau II}}]]が[[ビザンチン東ローマ帝国]]に敗戦した後、[[サーサーン朝]]は消耗し、国内は混乱した。
アラブに接するイラク南部の国境線の守備力も下がった。
現在のイラク南部には湿地帯が広がっているが、この混乱期に荒廃したと言われている。
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当時、物質的に貧しかったアラブ人の軍隊は十分な装身具も得られない中、その時代の世界帝国の一つと呼ぶに相応しいサーサーン朝帝国と対峙し、戦争は激しいものとなった。
[[633年]]、{{仮リンク|ヒーラの戦い|en|Battle of Hira}}で正統カリフのイスラム軍がサーサーン朝と{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}の連合軍を破った。
[[636年]]頃の{{仮リンク|[[カーディスィーヤの戦い|en|Battle of al-Qādisiyyah}}]]でイスラム軍がペルシアの主力軍隊を破り、そのままペルシア帝国の首都[[クテシフォン]]を奪い取った。
[[638年]]には、イスラム軍はクバルバラ地方(現イラク)をほとんど征服した。[[642年]]に[[ニハーヴァンドの戦い]]でサーサーン軍は敗れ、[[651年]]に皇帝[[ヤズデギルド3世]]が暗殺され、サーサーン朝は名実ともに滅びた。
 
[[656年]]に第4代正統カリフとなった[[アリー・イブン=アビー=ターリブ]]のとき、首都をイラクの[[クーファ]]に移したが、内部の対立によってアリーは[[661年]]に暗殺された。
アリーの暗殺後、'''[[ウマイヤ朝]]'''が成立し、首都を[[シリア]]の[[ダマスカス]]に移して世襲王朝を築いた。
 
==== ウマイヤ朝 ====
イスラム帝国支配下のイラク地域は'''イラク'''(`Irāq)の呼び名で知られるようになり、[[アラビア半島]]から多くのアラブ人が、また[[バルカン半島]]から研究目的や労働目的でギリシャ人が移住してきた。
{{main|ウマイヤ朝}}
アリーの暗殺後、'''[[ウマイヤ朝]]'''が成立し、首都を[[シリア]]の[[ダマスカス]]に移して世襲王朝を築いた。イスラム帝国支配下のイラク地域は'''イラク'''(`Irāq)の呼び名で知られるようになり、[[アラビア半島]]から多くのアラブ人が、また[[バルカン半島]]から研究目的や労働目的でギリシャ人が移住してきた。
 
ウマイヤ朝では、イスラム教徒([[ムスリム]])であるアラブ人が異民族を支配した。
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非アラブ人だけが人頭税([[ジズヤ]])と地租([[ハラージュ]])の納税義務を負った。
 
==== アッバース朝 ====
{{main|イスラム帝国|アッバース朝}}
[[8世紀]]半ば、イスラム帝国の'''[[アッバース朝]]'''が起こり(これを[[アッバース革命]]と呼ぶ)、イラクの[[バグダード]]を帝国の首都とした。
この頃、イスラム帝国は、西は北アフリカ、東は中央アジア、インドまで勢力を広げて、イスラム国家としては過去最大の版図を実現した。
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=== モンゴルによる支配 ===
[[ファイル:1413世紀フレグ・ウルス.PNGpng|right|thumb|250px|1413世紀のイルハン朝(フレグ・ウルス)]]
{{main|イルハン朝|ジャライル朝|ティムール朝}}
 
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イルハン朝の首都は現イランの[[タブリーズ]]に置かれ、イラン高原を中心に、[[アム川]]からイラク、[[アナトリア]]東部までを支配した。モンゴル研究者には、フレグ一門の[[ウルス]](国家)という意味で、イルハン朝を'''フレグ・ウルス'''とよぶ者も多い。
 
当初、イルハン朝は[[ビザンツ東ローマ帝国]]と友好関係にあり、親キリスト教であった([[:en:Franco-Mongol alliance]])。
[[アイン・ジャールートの戦い]]で敗れてシリアを喪失し、[[マムルーク朝]]と対立していたが、[[1262年]]になると、フレグと[[ジョチ・ウルス]]の[[ベルケ]]とが、[[アゼルバイジャン]]の支配権をめぐる対立から{{仮リンク|ベルケ・フレグ戦争|en|Berke–Hulagu war}}を始めた。
 
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大ハサンはバグダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、[[1340年]]、イラクを中心に自立して'''[[ジャライル朝]]'''をおこした。
この後、大ハサンの子の[[シャイフ・ウヴァイス]]はタブリーズを奪還して、ジャライル朝の版図を旧イルハン朝の西半まで広げた。
[[ファイル:timuridTimurid1405.png|right|thumb|300px|ティムール没時のティムール朝(1405年)]]
 
同じ時期に、[[中央アジア]]においては、モンゴル系遊牧勢力を統合した[[ティムール]]が、'''[[ティムール朝]]'''(ティムール帝国)と呼ばれる支配を確立した。
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サファヴィー朝は、イラン・イラク地域を支配した王朝としては初めて[[シーア派]]の一派[[十二イマーム派]]を国教としたので、住民の多くがシーア派となり、多くの[[スンニ派]]のモスクは破壊された。
 
一方、[[13世紀]]末にアナトリア西北部で建国したトルコ系の'''[[オスマン帝国]]'''は、[[1453年]]、[[ビザンツ東ローマ帝国]]を滅ぼした([[コンスタンティノープルの陥落]])。
これ以後、[[コンスタンティノープル]]はオスマン帝国の首都となり、やがて[[イスタンブル]]とよばれるようになる。オスマン帝国は、西は[[モロッコ]]から東は[[アゼルバイジャン]]、イラクに至り、北は[[ウクライナ]]から南は[[イエメン]]に至る領域を支配した。
[[16世紀]]には、オスマン帝国はサファヴィー朝を破りイラクはオスマン帝国の一部となったが、その後もこの地域を巡る両者の係争は続いた。サファヴィー朝は[[アッバース1世]]時代の[[1623年]]にはバグダードをオスマン帝国から奪取し、[[1638年]]までおよそ15年の間支配している。
 
このサファヴィー朝による支配の後、イラクは再びオスマン帝国の支配下に入り、その支配は[[第一次世界大戦]]まで続いた。[[18世紀]]には土着化した[[マムルーク]]出身の総督たちが州の実権を握り([[イラクのマムルーク朝]]、イスタンブルの中央政府から半ば自立した支配を行ったが、[[19世紀]]に入ると中央集権化が図られ、[[タンジマート|タンズィマート]]と呼ばれる改革の結果、現在のイラクに相当する地域はモースル、バグダード、バスラの3州に再編された。またバグダード州の総督を務めた[[ミドハト・パシャ]]のように、州の総督も中央から官吏が派遣されるようになった。このような中央集権化の試みは都市部ではある程度成功したが、一方で地方の実力者である部族の首長などには総督の力はあまり及ばず、後にオスマン帝国の支配を離れて[[イギリス]]を頼り、[[クウェート]]の首長となる[[サバーハ家]]のような存在も残る結果となった。
 
[[18世紀]]以降、[[産業革命]]が急速に波及する西欧諸国に比べオスマン帝国の経済力は劣勢となっていたが、19世紀以降オスマン帝国への西欧諸国の経済的進出は激しさを増した。それはイラクにおいても例外ではなく、[[シャッタルアラブ川]]の航行権や[[バグダード鉄道]]計画など、西欧諸国への様々な利権の供与が行われた。
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[[サイクス・ピコ協定]]により、イラクはオスマン帝国から分割され、フランスとイギリスの勢力下に治められた。
[[1920年]][[11月11日]]、イラクは国連からイギリスに[[委任統治]]され、'''イギリス委任統治領イラク'''と呼ばれることになった。
一方でイギリスは、[[1915年]]には、[[フサイン=マクマホン協定]]によってアラブの独立を認めていた。この協定とサイクス・ピコ協定とは矛盾しており、この矛盾が後は[[1921年]][[3月21日]]の[[:en:Cairo Conference (1921)]]おいて中東の混乱の一因として確定的なものになった。
 
イラクの政体は[[ハーシム家]]の君主制となった。
[[1921年]][[8月23日]]に初代国王となった[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]は、[[メッカ]]の[[スンナ派]]ハーシム家の一員で、第一次世界大戦中はオスマン帝国に対抗してアラブ独立運動を指導してきた。
イラク内には多様な民族・宗教の集団があり、特に北部の[[クルド人]]は独立を強く求めたが、その意見はイギリスの政策にほとんど反映されなかった。
その結果、特に1920年から1922年にかけて多くの内乱が起きたが、イギリスによって鎮圧された。
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[[1945年]]、イラクは[[国際連合]]に加盟し、[[アラブ連盟]]の設立メンバーとなった。
同じ年、[[ムッラー]]・{{仮リンク|ムスタファ・バルザーニ|en|Mustafa Barzani}}が指導する[[クルド人]]が自治を求め反乱をおこしたが、失敗し、バルザーニの一党は[[ソビエト連邦]]に逃れた。
[[1948年]]、イラクなどアラブ5カ国は新しく建国された[[イスラエル]]を[[国家の承認|承認]]せず、[[第一次中東戦争]]が勃発した。
戦争は[[1949年]]5月まで続いたが、このときの[[停戦協定]]にイラクは署名していない。
戦争によってイラク経済は悪化した。
[[1955年]]1月、イラク・トルコ共同宣言を導き、共同宣言の原則、その実施詳細に関する正式な合意は2月に調印された<ref>この合意にイギリスも加わり、後にバグダード条約と知られるようになった。この年の後半になってイランとパキスタンが加盟した。アメリカは参加しなかったが、全面的に協力した。([[#トリップ|トリップ(2004) 211ページ]])</ref>。
[[1956年]]、ソ連に対抗することを目的に[[中条約機構]](METO)が発足した。
機構本部は[[バグダード]]に設置され、イラク、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[パキスタン]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、イギリスが参加した。
[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]]大統領は、アラブにイギリスの勢力が残ることを嫌って機構に反対し、イラク君主の正当性にも懐疑を唱え始めた。
[[1957年]]2月、反政府勢力は、統一国民戦線を結成し、独立党、愛国民主党、[[イラク共産党]]、初期のバアス党<ref>1940年代にシリアで創設された。1951年以降はシーア派の[[フアード・リカービー]]の指揮下にあった。アラブ民族主義を掲げ、漠然とした社会主義を志向しており、アラブ世界における土地所有制度の不平等を厳しく非難していたバアス党の主張は、学生や保守的・排他的なアラブ民族主義者のもとで虐げられていた人々に支持され、シーア派の若い世代に広まっていた。([[イラクの歴史#トリップ|トリップ(2004) 214-215ページ]])</ref>が参加した。この組織の目標は、政府に批判的で、民主主義、憲法上の自由、戦時法の廃止、バグダード条約からの脱退、「積極的な中立主義」の追求であった。
 
=== アラブ連邦 ===
{{main|アラブ連邦|:en:Arab Federation}}
[[1958年]]2月、エジプトと[[シリア]]が合併し[[アラブ連合共和国]]が樹立されたことに対抗して、イラクと[[ヨルダン]]は、ハーシム家君主国家同士による連邦である[[アラブ連邦]]を結成した。
イラクは、この連邦に[[クウェート]]の参加を望んだが、クウェートの独立を認めないイギリスと対立することになり、結果としてイラク君主は後ろ盾を失った。
 
=== 旧・イラク共和国 ===
{{main|:7月14日革命|en:History of Iraq under Qasim and the rise of Arab nationalism}}
ナーセル大統領に感化され、[[アブド・アカリーム・カーシム]]准将と{{仮リンク|[[アブドサラーム・アーリフ]]大佐が率いる{{仮リンク|自由将校団 (イラク)|en|AbdulHomeland SalamOfficers' ArifOrganization|label=アブドゥッ=サラーム・アーリフ}}大佐が率いる[[自由将校団]]}}がクーデター([[7月14日革命]])を起こし、[[1958年]][[7月14日]]、ハーシム君主制は終焉した。君主[[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]と元[[摂政]][[アブドゥル=イラーフ]]と前首相[[ヌーリー・アッ=サイード]]は処刑された。
君主[[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]と摂政[[:en:'Abd al-Ilah|アブドゥッ=イラーフ]]と前首相[[:en:Nuri as-Said|ヌリ・パシャ・アルサイード]](Nuri Pasha al-Said)は処刑された。
 
新政府はイラクを共和制とし、[[条約機構]](METO)からは脱退した。新憲法は、イラクが共和国であることを宣言した。国家の指導者として、3名の主権評議会を設立。国民を代表する組織は作られなかった。カーシムが首相・国防大臣・最高司令官を兼任し、副首相兼内務大臣にアーリフ、自由将校団から数名登用、愛国民主党とアラブ民族主義の文民を登用。
この後、カーシム首相はエジプトと距離を置いたため、親エジプト派と対立した。カーシムとアーリフ(ナーセルの信奉者・アラブ民族主義者)の間には、イラクのアイデンティティという問題が存在していた。つまり、イラクは国民国家であるのか、あるいは、広い意味でアラブの一行政区域であるのかという問題である<ref>[[#トリップ|トリップ(2004) 225-231ページ]]</ref>。
親エジプト派の抵抗を抑えるために、カーシム首相はソ連に亡命中のクルド人指導者[[ムッラー]]・{{仮リンク|ムスタファ・バルザーニ|en|Mustafa Barzani}}の帰国を許可し、さらに、親エジプトのアーリフを罷免し投獄した。
 
[[1961年]]、イギリスはクウェートを独立させた。
イラクはクウェートの支配権を主張したが、イギリスはこれに反発してクウェートに軍を派遣した。
[[1963年]]2月、クウェート支配を主張するカーシム首相は暗殺クーデター([[ラマダーン革命]])により処刑され、代わりに[[バアス党]]が軍事政権を作った(第1次[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]])。
 
1963年10月になって、イラクはクウェートの自治を承認した。
 
バアス党が政権を作った9ヵ月後、{{仮リンク|アブドサラーム・アーリフ|en|Abdul Salam Arif|label=アブドゥッ=サラーム・アーリフ}}大統領は、政権内部のクーデター([[1963年11月イラククーデター]])により、バアス党を駆逐した。
[[1966年]]、アーリフ大統領はヘリコプター[[航空機事故]]で死亡し、彼の兄{{仮リンク|[[アブド・アル=ラフマーン・アーリフ|en|Abdul Rahman Arif}}]]が大統領となった。
 
=== バアス党政権 ===
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{{main|イラン・イラク戦争|サッダーム・フセイン}}
 
[[1979年]]の[[イラン革命]]を切っ掛けに[[中央条約機構]](CENTO/旧中東条約機構)が崩壊すると、中東全体が全く新しい軍事バランスに向かって動き出した。
[[1979年]]、バクル大統領が辞任し、[[サッダーム・フセイン]]が大統領と[[革命指導評議会]](RCC)議長の座を譲り受けた。
イランとイラクとの国境をめぐり、[[1980年]]から[[1988年]]にかけて[[イラン・イラク戦争]]が勃発した。
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1991年[[2月28日]]、アメリカは停戦を宣言し、同年4月にイラクと国際連合とは正式に停戦合意を結んだ。
 
=== イラク戦争による旧・イラク共和国の滅亡、新・イラク共和国の独立 ===
{{main|イラク戦争|イラク戦争の年表}}
 
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[[2001年]][[9月11日]]、アメリカで[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]が発生した。
これをきっかけに、アメリカ政府は[[対テロ戦争]]を宣言し、まずはイスラム原理主義の[[ターリバーン]]を排除するためにとして[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタンに侵攻]]した。
続いて、2003年3月19日、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとの疑いで主張し、アメリカとイギリスの連合軍はイラクに対しての開戦を宣言した([[イラク戦争]])。
 
圧倒的な軍事力を誇る米英連合軍はバグダードを含む主要都市を短期間で破壊・占領し、2003年5月1日「戦争終結宣言」を発して形式的にはイラクへの攻撃を終了した。
これによって旧イラク共和国名実ともに滅亡し独立国としてのイラクの歴史にも一旦終止符が打たれる。これ以降は名目上[[アメリカ国防総省]]人道復興支援室および[[連合国暫定当局]](CPA)の統治下に入って復興が行われることになったが、実際には正式な編入・併合こそ行われなかったものの事実上[[アメリカ合衆国の海外領土]]に組み込まれる
[[2004年]]6月、[[イラク暫定政権]]が発足し、[[2005年]]1月てアメリカ領時代選挙幕が下ろされ、新・イラク共和国として再独立行っ
[[2005年4]]1に選挙が行われ2005年4月に[[イラク移行政府]]が発足し、同年末までに憲法を制定した。
憲法に基づく選挙が行われ、2006年5月正式政府が発足した。
しかし現在も尚、イラク国内は戦闘状態が続いている。
 
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[チャールズ・トリップ]] |year=2004|title=イラクの歴史 |others=[[大野元裕]]監修 |publisher=明石書店 |series=世界歴史叢書 |year=2004 |isbn=978-4-7503-1841-74750318417 |ref=トリップ}}
 
== 関連項目 ==
*[[イラク]]
 
 
 
{{アジアの題材|歴史|mode=4}}
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{{DEFAULTSORT:いらくのれきし}}
[[Category:イラクの歴史|*]]
 
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