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{{イラクの歴史}}
この項では、'''[[イラク]]'''についての'''地域史'''を述べる。
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[[紀元前1595年]]、[[アナトリア半島]](小アジア)の[[ヒッタイト]](ヒッタイト古王国)が東方に遠征し、古バビロニアは滅ぼされた。ヒッタイト人は[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する言語を用いた人々である。遠征直後にヒッタイト王[[ムルシリ1世]]が暗殺され、ヒッタイトが衰退したので、メソポタミアの統治は混乱した。
メソポタミア北部では[[フルリ人]]が[[ミタンニ]]王国を建立した。メソポタミア南部のバビロニア地域は、[[紀元前1475年]]頃に、[[カッシート人|カッシート王国]](バビロン第3王朝)が
=== アッシリア帝国の成立 ===
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{{main|新バビロニア}}
[[紀元前800年]]代以降、バビロン周辺では[[セム語派]]のカルデア人が勢力を増した。[[紀元前626年]]、カルデアの王[[ナボポラッサル]]は、[[アッシリア]]帝国からバビロニア地方を奪取し、[[新バビロニア]](カルデア王国)を建国した。さらにナボポラッサルは、現イラン北西部を中心とする[[メディア王国]]
新バビロニアの王の中では[[ネブカドネザル2世]]([[紀元前604年]]-[[紀元前562年]])が有名である。[[紀元前586年]]、ネブカドネザル2世は[[ユダヤ|ユダ王国]]を征服し、15,000人とも言われる捕虜をバビロニアに連れ去った([[バビロン捕囚]])。また伝説によると、ネブカドネザル2世は、[[世界の7不思議]]の一つ、[[バビロンの空中庭園]]を建造した。
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=== アケメネス朝ペルシア帝国 ===
[[ファイル:Map of the Achaemenid Empire.jpg|right|thumb|250px|アケメネス朝ペルシア帝国の最大版図]]
{{main|アケメネス朝}}
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=== アルサケス朝パルティア ===
{{main|パルティア}}
[[紀元前3世紀]]中ごろ、セレウコス朝の支配力が衰え、イラン東北地方の'''[[パルティア]]'''と呼ばれるイラン系遊牧民が独立した。
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この王朝は、[[7世紀]]にアラブ系イスラム教徒(ムスリム)に占領されるまで続く。
現イラク地域はまだクバルバラと呼ばれていて、その中をさらにミシャン(''Mishān'')、アスリスタン(''Asuristān'')、アディアベーン(''Ādiābene'')、下メディアに区分されていた。サーサーン朝の南部と西部のアラビアの砂漠にはアラブ部族が住んでいて、サーサーン朝の支配を受けながら{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}[[ヒーラ|ヒーラ王国]]が治めていた。サーサーン朝の北部(イラクの北部)は[[東ローマ帝国]]に接していた。
サーサーン朝と東ローマ帝国と衝突を繰り返しており、イラク北部は東ローマ帝国に支配されることもあった。[[602年]]、[[ホスロー2世]]は東ローマ帝国に最後の大規模な遠征を行った。([[東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)]])。前半には東ローマの首都[[コンスタンティノポリス]]の間近まで迫ったが、後半は戦況が反転し、[[627年]]から[[628年]]には、[[ヘラクレイオス]]帝率いる東ローマ軍がサーサーン朝の首都[[クテシフォン]]を奪取した。このときは東ローマ軍はすぐに撤退したが、サーサーン朝の国力は大きく消耗した
サーサーン朝の時代のイラク地域には、ペルシア人、アラム語系住民の小作農、牧畜を営むアラブ人、ビザンチンから連れ帰ったギリシャ人奴隷など、多くの民族が暮らしていた。[[ザグロス山脈]]のふもとには[[クルド人]]が住んでいた。
サーサーン朝の国教は[[ゾロアスター教]]だが、信徒は主にペルシア人に限られていた。残る住民の多くは[[キリスト教]]徒だった。キリスト教徒は[[非カルケドン派正教会]]と[[ネストリウス派]]とに分かれていて、最も広まったのはネストリウス派だった。[[マニ教]]、[[マズダク教]]の住民もおり、古都バビロン周辺には[[ユダヤ教]]徒が住んでいた。さらに、国土の南部には、キリスト教からは異端とみなされている古バビロニアの[[マンダ教]]など[[グノーシス主義]]の諸派の教徒がいた。
== イスラム王朝の時代 ==
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{{main|正統カリフ}}
アラブに接するイラク南部の国境線の守備力も下がった。
現在のイラク南部には湿地帯が広がっているが、この混乱期に荒廃したと言われている。
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==== ウマイヤ朝 ====
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アリーの暗殺後、'''[[ウマイヤ朝]]'''が成立し、首都を[[シリア]]の[[ダマスカス]]に移して世襲王朝を築いた。イスラム帝国支配下のイラク地域は'''イラク'''(`Irāq)の呼び名で知られるようになり、[[アラビア半島]]から多くのアラブ人が、また[[バルカン半島]]から研究目的や労働目的でギリシャ人が移住してきた。
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=== モンゴルによる支配 ===
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{{main|イルハン朝|ジャライル朝|ティムール朝}}
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大ハサンはバグダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、[[1340年]]、イラクを中心に自立して'''[[ジャライル朝]]'''をおこした。
この後、大ハサンの子の[[シャイフ・ウヴァイス]]はタブリーズを奪還して、ジャライル朝の版図を旧イルハン朝の西半まで広げた。
[[ファイル:
同じ時期に、[[中央アジア]]においては、モンゴル系遊牧勢力を統合した[[ティムール]]が、'''[[ティムール朝]]'''(ティムール帝国)と呼ばれる支配を確立した。
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機構本部は[[バグダード]]に設置され、イラク、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[パキスタン]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、イギリスが参加した。
[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]]大統領は、アラブにイギリスの勢力が残ることを嫌って機構に反対し、イラク君主の正当性にも懐疑を唱え始めた。
[[1957年]]2月、反政府勢力は、統一国民戦線を結成し、独立党、愛国民主党、[[イラク共産党]]、初期のバアス党<ref>1940年代にシリアで創設された。1951年以降はシーア派の[[フアード・リカービー]]の指揮下にあった。アラブ民族主義を掲げ、漠然とした社会主義を志向しており、アラブ世界における土地所有制度の不平等を厳しく非難していたバアス党の主張は、学生や保守的・排他的なアラブ民族主義者のもとで虐げられていた人々に支持され、シーア派の若い世代に広まっていた。([[イラクの歴史#トリップ|トリップ(2004) 214-215ページ]])</ref>が参加した。この組織の目標は、政府に批判的で、民主主義、憲法上の自由、戦時法の廃止、バグダード条約からの脱退、「積極的な中立主義」の追求であった。
=== アラブ連邦 ===
{{main|アラブ連邦|
[[1958年]]2月、エジプトと[[シリア]]が合併し[[アラブ連合共和国]]が樹立されたことに対抗して、イラクと[[ヨルダン]]は、ハーシム家君主国家同士による連邦である[[アラブ連邦]]を結成した。
イラクは、この連邦に[[クウェート]]の参加を望んだが、クウェートの独立を認めないイギリスと対立することになり、結果としてイラク君主は後ろ盾を失った。
=== 旧・イラク共和国 ===
{{main|7月14日革命|
ナーセル大統領に感化され、[[アブドルカリーム・カーシム]]准将と[[アブドッサラーム・アーリフ]]大佐が率いる{{仮リンク|自由将校団 (イラク)|en|Homeland Officers' Organization|label=自由将校団}}がクーデター([[7月14日革命]])を起こし、[[1958年]][[7月14日]]、ハーシム君主制は終焉した。君主[[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]と元[[摂政]][[アブドゥル=イラーフ]]と前首相[[ヌーリー・アッ=サイード]]は処刑された。
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[[2001年]][[9月11日]]、アメリカで[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]が発生した。
これをきっかけに、アメリカ政府は[[対テロ戦争]]を宣言し、まずはイスラム原理主義の[[ターリバーン]]を排除する
続いて、2003年3月19日、国連決議に反して大量破壊兵器を保有していると
圧倒的な軍事力を誇る米英連合軍はバグダードを含む主要都市を短期間で破壊・占領し、2003年5月1日に「戦争終結宣言」を発して形式的にはイラクへの攻撃を終了した。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=
== 関連項目 ==
*[[イラク]]
{{アジアの題材|歴史|mode=4}}
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