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|市旗 =Flag of Kotor.jpg
|市章 =Coat of Arms of Kotor.png
|位置図 =Kotor-Position in Montenegro (2022).PNGsvg
|位置図サイズ指定 =225px
|位置図の見出し =
|位置図B = {{Location map|Montenegro#Balkans|float=center}}
|下位区分種類 =
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|最高行政執行者称号 =市長
|最高行政執行者名 =Marija Ćatović ([[モンテネグロ社会主義者民主党|DPS]])
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|成立日 =
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|備考 =
}}
'''コトル'''([[モンテネグロ語]]・{{lang-sr|Kotor/Котор}},{{lang-hr|Kotor}},{{lang-it|Càttaro}},{{lang-la|Acruvium}},{{lang-grc|Ἀσκρήβιον}})は[[東ヨーロッパ]]・[[モンテネグロ]]の都市および[[オプシュティナ|基礎自治体]][[コトル湾]]の静かな場所に位置している。

== 概要 ==
コトル市街の人口は13,510人で[[基礎自治体]]内の行政的な中心でもある。基礎自治体全体の人口は[[2003年]]現在22,947人である。古い[[地中海]]域のコトル港の周囲にある印象的な城壁は[[ヴェネツィア共和国]]によって築城されたもので、[[ヴェネツィア]]の強い影響が市内の建物には残されている。コトル湾は[[アドリア海]]ではもっとも陸側にしゅう曲した部分の一つで、時にヨーロッパ最南部の[[フィヨルド]]と呼ばれることもあるが実際は[[リアス式海岸]]の一部である。近隣には[[オリイェン]]や[[ロヴチェン]]などの石灰岩の張り出した崖があり、コトルやその周辺部の美しい地中海的な景観を特徴付けている。近年コトルはコトル湾と旧市街の美しい風景から多くの人々をひき付けていることから、観光客の数が安定的に増加している。また、コトルは'''「コトルの自然と文化歴史地域」'''として[[1979年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。
 
== 歴史 ==
[[ファイル:Kotor entrance.JPG|thumb|leftright|旧市街への入口のサイン]]
=== 古代から中世 ===
コトルが最初に言及されたのは[[古代ローマ]]期の紀元前168年で、その頃はアクルヴィウム(Acruvium)、アスクリヴィウム(Ascrivium)、アスクルヴィウム(Ascruvium)の名称で知られ[[ダルマチア]][[属州]]の一部であった。中世初期以来、コトル当時のカッターロ(Cattaro)では都市は要塞化され[[東ローマ帝国]]皇帝[[ユスティニアヌス1世]]により[[東ゴート族]]を追放された後、アクルヴィウムの上に[[535年]]要塞が築かれた。コトルは[[840年]]に[[サラセン人]]により略奪を受けていた。
 
第二の町が大きく成長したのは10世紀、[[コンスタンティヌス7世]]の頃で低コトルに関するとみられる記述がある。コトルは中世期には[[イリュリア人]]が[[ローマ化]]されたもっとも有力なダルマチアの[[都市国家]]の一つであった。[[11世紀]]までカッタロでは[[ダルマチア語]]が話されていた。[[1002年]]、町は[[第一次ブルガリア帝国]]の占領の下でダメージを受け、続いて[[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]により[[セルビア]]に割譲される。しかしながら、地元民はこの協定に[[ラグーサ共和国]]との同盟により抵抗した。[[13世紀]]、すでに司教区が見られ[[ドミニコ会]]や[[フランシスコ会]]の修道院が設立され[[ボゴミル派]]の広がりが監視されていた。[[14世紀]]、カッターロは商業で近隣のラグーサ共和国やヴェネツィア共和国と競っていた。コトルは[[1420年]]から[[1797年]]まで、[[1538年]]から[[1571年]]と[[1657年]]から[[1699年]]の[[オスマントルコ帝国]]支配期を除いて[[ヴェネツィア共和国]]領[[アルバニア・ヴェネタ]]の一部であった。4世紀にわたるヴェネツィアの支配は町にヴェネツィア様式を特徴付ける建物を残しコトルは世界遺産に選ばれている。<ref name="unesco_kotor">{{cite web | url=http://whc.unesco.org/en/list/125 | title=Natural and Culturo-Historical Region of Kotor | accessdate=2010-12-08 | publisher=Unesco World Heritage Convention}}</ref>この間、[[ルネサンス]]に関連した文学も大いに隆盛した。ヴェネツィア支配下のコトルでは2度のオスマントルコ帝国の支配や[[1572年]]の[[ペスト]]の流行、[[1563年]]と[[1667年]]の地震による破壊も経験している。
[[ファイル:Kotor Montenegro.jpg|thumb|leftright|200px|コトルの通り]]
 
=== 近世から現代 ===
[[1797年]]の[[カンポ・フォルミオ条約]]によってハプ[[オーブルク君主トリア大公]]の支配に移る。しかしながら、[[1805年]]に[[プレスブルクの和約]]によって[[フランス第一帝政]]に隷属する[[ナポレオン1世]]の[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]となるが、事実上はロシア小艦隊、ドミトリー・セニャーヴィンの占領下となる。ロシア撤退後、[[1806年]]までイタリア王国の下にあり[[1810年]]に[[フランス帝国]][[イリュリア州]]となる。[[ナポレオン戦争]]が続く中、コトルはジョン・ハーパー提督率いる[[スループ]]船''HMS Saracen''による湾の攻撃により攻略された。コトル封鎖は風がない状態で、住民は岸に沿ってロープを引っ張った。Saracenの乗組員は後に艦の18ポンド砲をコトル近くのサン・ジョヴァンニ砦に運び、ウィリアム・ホステ大佐の艦''HMS Bacchante''を強化した。フランス側の守備隊は降伏する他に手段がなく、[[1814年]][[1月5日]]に降伏した。[[ウィーン会議]]により[[オーストリア帝国]]コトルは返還されることになった。第一次世界大戦時、コトルは3港ある[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の主要な軍港のうちの一つとなり[[前弩級戦艦]]と[[軽巡洋艦]]で構成されるオーストリア第五艦隊の母港であった。コトル周辺では地元のスラヴ系の[[モンテネグロ人]]と[[オーストリア=ハンガリー帝国]]との間で激しい争いもあった。[[1918年]]、[[ユーゴスラビア]]の一部になるとそれまで、カッターロと呼ばれていたものが公式にコトルとなった。[[1941年]]から[[1943年]]にかけてはイタリアに併合され、もともとのヴェネツィア名であったコトル湾を意味するボッケ・ディ・カッターロ"Bocche di Cattaro"と呼ばれ、イタリア人のダルマチア総督とカッターロ州が設立され1,075km² の面積に128,000人が居住していた。第二次世界大戦後の[[1945年]]、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]内の[[モンテネグロ社会主義共和国]]となる。[[1979年]][[4月15日]]、モンテネグロ沿岸部で大地震が発生し、100人以上の死傷者が出た<ref>{{Cite book|和書 |year = 2017 |title = 地球の歩き方 2017〜18 中欧 |publisher = ダイヤモンド・ビッグ社 |page = 375 |isbn = 978-4-478-06007-0}}</ref>。コトル旧市街はその半分以上が被災し、聖トリプン大聖堂(Katedrala([[:en:Katedrala Svetog Tripuna)Tripuna]])は部分的に被災している。
 
== みどころ ==
[[File:Kotor Cathedral church.jpg|thumb|right|200px|聖トリプン大聖堂{{R|泉}}]]
コトルは[[アドリア海]]沿岸でも中世の古い町並みが良く保存されたユネスコの世界遺産である<ref name="unesco_kotor"/>。1166年に建てられた聖トリプン大聖堂<ref>ルサンス様式の鐘楼や宝物室</ref>、[[セルビア正教会]]の聖ルカ教会はロマネスク様式の建物で、内部には多くのイコン(聖画)が飾ってある。そのほかには海洋博物館や中央広場の大時計(1602年)<ref>田中一生「世界遺産の中世都市」/ 柴宣弘編著『バルカンを知るための65章』明石書店 2005年 107頁)</ref>など多くの見所があり、総延長4.5kmの長さをほこる古代の城壁が市街地の上にそびえる。[[スヴェティ・ジョルジェ]]({{lang|sr|[[:en:Sveti Đorđe|Sveti Đorđe]]}})やゴスパ・オド・シュクピイェラ({{lang|sr|[[:en:Our Lady of the Rocks|Gospa od Škrpijela]]}})など[[ペラスト]]沖の小島もまたコトル周辺部ではポピュラーな目的地である。
{{wide image|Kotor and Boka kotorska - view from city wall.jpg|480px|城壁から眺めるコトルの街並みとコトル港}}
 
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**[[スロベニア人]] - 35人 (0.15%)
**[[イタリア人]] - 32人 (0.14%)
**[[ハンガリマジャ人]] - 32人 (0.14%)
**[[アッシュカリー]] - 20人 (0.09%)
**[[ボシュニャク人]] - 16人 (0.07%)
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|site_img_capt =
|site_img_width = 275px
|ja_name = コトルの自然と</br />文化歴史地域
|en_name = Natural and Culturo-Historical Region of Kotor
|fr_name = Contrée naturelle et culturo-historique de Kotor
|country = モンテネグロ
|area = 12,000 [[ヘクタール|ha]]
|criterion_c = (1),(2),(3),(4)
|rg_year = 1979年(ID125)
|ex_rg_year = 2003年
|remarks =
|url_no = 125
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|map_img_width = 240px
|}}
コトルの自然と文化歴史地域は、1979年、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された(ID125)。また、2017年、コトルの要塞都市として、世界遺産「[[16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール]]」の一部として登録された(ID1533)。
 
=== 登録基準 ===
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== 脚注 ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
{{Reflist|colwidth=30em
|refs=
 
*<ref name="泉">{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/聖トリフォン大聖堂-546042 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2019-03-23 }}</ref>
 
}}
 
==外部リンク==
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{{モンテネグロの世界遺産}}
{{モンテネグロの基礎自治体}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ことる}}
[[Category:コトル|*]]
[[Category:モンテネグロの世界遺産]]
[[Category:モンテネグロの都市]]
[[Category:モンテネグロの古都]]
[[Category:モンテネグロの基礎自治体]]
[[Category:モンテネグロの考古遺跡]]
[[Category:世界遺産_か行]]
[[Category:城郭都市]]
[[Category:1979年登録の世界遺産]]
[[Category:ヨーロッパの市街地の世界遺産]]
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{{Link GA|ru}}