「ウルバヌス2世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2018年1月7日 (日) 02:15 (UTC)}}
{{ infobox 教皇
| 敬称1 =
| 日本語名 =福者ウルバヌス2世
| 敬称2 =
| タイトル =第159代ローマ教皇
| 画像 = [[ファイル:BlUrban_II.png|200px220px]]
| 画像説明 =
| 就任 = [[1088年]][[3月]]
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| 本名 = ラゲリウスのオド (Odo Lageriae)<br/>ウード・ド・シャティヨン (Eudes de Châtillon)
| 生年月日 = [[1042年]]
| 生地 = [[File:Royal Flag of France.svg|25px]][[フランス王国]]、[[File:Blason région fr Champagne-Ardenne.svg|30px20px]] [[シャンパーニュ伯]]領、[[ラジュリー]]
| 没年月日 = 1099年7月29日
| 没地 = [[File:War flag of the Holy Roman Empire (1200-1350).svg|25px]][[神聖ローマ帝国]]、[[File:CoA Pontifical States 02.svg|25px]][[教皇領]]、[[ローマ]]
| 埋葬地 =
| 原国籍 =
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| 曖昧 = ウルバヌス
}}
'''ウルバヌス2世'''(Urbanus II, [[1042年]] - [[1099年]][[7月29日]])は、[[11世紀]]の[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1088年]] - 1099年)。[[福者]]。本名'''ラゲリウスのオド'''(Odo({{lang-la-short|Odo Lageriae)Lageriae}})または'''ウード・ド・シャティヨン'''(Eudes({{lang-fr-short|Eudes de Châtillon)Châtillon}})。[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]によって引き立てられ、その遺志をついで教会改革を達成した。[[1095年]]の[[クレルモン教会会議]]において、[[第1回十字軍]]の派遣を呼びかけた人物としても知られる。
 
== 生涯 ==
ラゲリウスのオドはフランスの地方貴族[[シャティヨン]](同家からはのちに[[第2回十字軍]]に参加して[[アンティオキア公国|アンティオキア公]]となった[[ルノー・ド・シャティヨン]]が出ている)に生まれ、聖職者になるべく教育を受けた。[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で[[ケルンのブルーノ]]に学び、[[クリュニー修道院]]に入った。院長を務めたあと、クリュニーとかかわりがあった教皇[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]の招きで[[ローマ]]に赴き、[[オスティア]]の[[司教枢機卿]]となった。
 
グレゴリウス7世のもとで推進された教会の自己改革([[グレゴリウス改革]])においては教皇の右腕として活躍し、特に教皇代理としてのドイツでの外交政策において卓抜した手腕を示した。オドが晴れて教皇に選出されたのは、[[ウィクトル3世 (ローマ教皇)|ウィクトル3世]]の死後であった。
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また、グレゴリウス7世以来続いていた[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]との抗争も継続した。ハインリヒ4世に対抗するため、[[トスカーナ辺境伯|トスカーナ女伯]][[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルダ]]と[[バイエルン大公|バイエルン公]]子[[ヴェルフ2世 (バイエルン公)|ヴェルフ5世]]の結婚をとりもち、ハインリヒ4世の妻アーデルハイトと長男[[コンラート (イタリア王)|コンラート]]のハインリヒ4世への反乱を支援した。また、離婚問題から[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ1世_(フランス王)|フィリップ1世]]を[[破門]]している。
 
ウルバヌス2世の以上のような改革達成における業績はあまり知られていないが、[[1095年]]11月に[[クレルモン=フェラン|クレルモン]]で行われた[[クレルモン教会会議]]の最終日に呼びかけた[[第1回十字軍]]の派遣を訴える演説は非常によく知られている。[[1071年]]の[[マラズギルトの戦い]]以降[[セルジューク朝]]に圧倒されつつあった[[東ローマ帝国]]の皇帝[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシウス1世]]からの援助要請を奇貨として、1095年の[[ピアチェンツァ]]教会会議]]で援軍の派遣を提案したのであるが、結果として十字軍による東地中海域の侵略・破壊・虐殺に道を開いた。<!--キリスト教は20世紀に社会主義が登場するまでは人類史上最悪の虐殺者であったが、十字軍の惨禍はアメリカ大陸原住民の虐殺と並んで最大の罪過である。-->クレルモン教会会議において、彼はフランス人たちに対して、[[聖地]]を[[サラセン人]]の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現を引用して軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に神のために武器をとるようにと呼びかけると、人々は「[[デウス・ウルト|神の御心のままに!]]」(Dieu le veult!)と答えたという。ウルバヌス2世は、教会改革の支持者であり、十字軍を呼びかける演説に対しても熱狂的に応えたル・ピュイ司教[[アデマール・ド・モンテイユ|アデマール]]を、十字軍を指揮する教皇使節に任命した。
 
ウルバヌス2世は、十字軍による[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム占領]]の14日後にこの世を去ったが、この知らせを聞くことはなかった。
 
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{{ローマ教皇|159代:1088年 - 1099年}}
{{Normdaten}}
 
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[[Category:教皇]]
[[Category:ウルバヌス2世|*]]
[[Category:11世紀の教皇]]
[[Category:シャティヨン家]]
[[Category:第1回十字軍]]
[[Category:福者]]
[[Category:1042年生]]
[[Category:1099年没]]