「マウリッツ (オラニエ公)」の版間の差分

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{{複数の問題
[[Image:Michiel Jansz van Mierevelt - Maurits prins van Oranje.jpg|thumb|250px|オラニエ公マウリッツ]]
| 出典の明記 = 2016年9月
| 脚注の不足 = 2016年9月
}}
{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = マウリッツ
| 各国語表記 = Maurits
| 家名・爵位 = [[オランダ総督]]<br>[[オラニエ公]]
| 画像 = School of Michiel Jansz. van Mierevelt 001.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = マウリッツ
| 続柄 = [[ウィレム1世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム1世]]次男
| 称号 =
| 全名 = マウリッツ・ファン・ナッサウ<br />Maurits van Nassau
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = [[1567年]][[11月13日]]
| 生地 = [[ファイル:Arms of Nassau.svg|25px]] {{仮リンク|ナッサウ伯領|label=ナッサウ=ディレンブルク伯領|en|County of Nassau}}<br />[[ディレンブルク]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1567|11|13|1625|4|23}}
| 没地 = {{NLD1581}}<br />[[デン・ハーグ]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{NLD1581}}<br />[[デルフト]]<br />{{仮リンク|新教会 (デルフト)|label=新教会|en|Nieuwe Kerk (Delft)}}
| 配偶者1 =
| 子女 = [[ウィレム・ファン・ナッサウ (1601-1627)|ウィレム]](庶子)<br>[[ローデウェイク・ファン・ナッサウ=ベーフェルウィート|ローデウェイク]](庶子)
| 家名 = [[オラニエ=ナッサウ家]]
| 父親 = [[オラニエ公]][[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]]
| 母親 = [[アンナ・ファン・サクセン]]
| 役職 = [[オランダ総督]](ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、オーファーアイセル州、ヘルダーラント洲、フローニンゲン州総督)
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''マウリッツ・ファン・ナッサウ'''(Maurits van Nassau, [[1567年]][[11月13日]] - [[1625年]][[4月23日]])は、[[オランダ総督]]、[[オランジュ|オラニエ]]公。[[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]]の次男で、[[フィリップス・ウィレム (オラニエ公)|フィリップス・ウィレム]]の弟、[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|フレデリック・ヘンドリック]]の兄。父の死後、[[スペイン]]との[[八十年戦争]]において中心的な役割を果たした。
 
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== 生涯 ==
1567年に[[ドイツ]]西部の[[ディレンブルク]]で生まれた。父はウィレム1世、母[[アンナ・ファン・サクセン|アンナ]]は[[ザクセン君主一覧選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]の娘であった。母方の祖父の名を取ってマウリッツ(モーリッツ)と命名され、父方の叔父のナッサウ=ディレンブルク伯[[ヨハン6世 (ナッサウ=ディレンブルク伯)|ヨハン6世]]の元で育てられた。
 
[[1584年]]の父の[[暗殺]]後、[[1585年]]に[[ホラント州]]と[[ゼーラント州]]の総督となった。当初は[[イングランド王国|イングランド]]から派遣された[[レスター伯]][[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|ロバート・ダドリー]]がオランダを率いていたが、指導力不足から[[1587年]]にイングランドに帰国するとマウリッツがオランダを率いる立場に置かれ、[[1590年]]に[[ユトレヒト州]]・[[ヘルダーラント州]]・[[オーファーアイセル州]]総督も兼ねるようになった。
 
戦争は[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]総督の[[パルマ公国|パルマ]][[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]がオランダの都市を奪い続けていたが、[[1588年]]の[[アルマダの海戦]]でスペインが敗北すると、翌[[1589年]]にスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が[[フランス王国|フランス]]の内戦([[ユグノー戦争]])に介入してパルマ公をフランスへ出兵させたため、その隙に都市奪還を図り[[1590年]]に[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]、[[1591年]]に[[デーフェンター]]、[[ジュトフェン|ズトフェン]]、[[ナイメーヘン]]を、[[1592年]]に[[{{仮リンク|スティーンワイカーラント]]|en|Steenwijk}}、[[1593年]]に[[{{仮リンク|ヘールトラウデンベルフ]]|en|Geertruidenberg}}を奪還してオーファーアイセル州・ヘルダーラント州・[[北ブラバント州]]を回復、[[1594年]]には[[フローニンゲン州]]も取り戻してオランダの領土を拡大、[[1597年]]までに再び北部7州をまとめ上げた。[[1596年]]にはイングランド・フランスとグリニッジ条約を締結、2国からオランダの承認・対スペイン同盟締結でオランダの地位を固めた<ref>[[#ブロール、P48|ブロール]]・pp. 48-50. P50、[[#ウェッジウッド、P359|ウェッジウッド]]・pp. 359- P363。363.</ref>。
 
教養人でもあったマウリッツは、[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]時代の軍事に関する文献を踏まえつつ、自らの軍隊に独自の教練を施して軍の強化に成功し、[[1597年]]の[[{{仮リンク|トゥルンハウトの戦い (1597年)|en|Battle of Turnhout (1597)|label=トゥルンハウトの戦い]]}}、[[1600年]]の[[{{仮リンク|ニーウポールトの戦い]]|en|Battle of Nieuwpoort}}で勝利を重ね八十年戦争を優勢に進めた。しかし[[1603年]]から参戦したスペインの将軍[[アンブロジオ・スピノラ]]が南部の都市を奪還して回り、[[1604年]]にグリニッジ同盟が解散、スペインが国家破産を宣言するなど深刻な財政難に陥っていたスペイン・オランダ両国は次第に戦争を継続することが困難になり、[[1608年]]より[[デン・ハーグ|ハーグ]]で和平交渉が行われ、最終的には[[1609年]]に[[アントウェルペン]]で12年間の休戦協定が成立した。
 
戦時中の[[1602年]]に[[オランダ東インド会社]]が設立されてオランダがアジアに進出、毛織物貿易が盛んに行われオランダは黄金時代を迎えることとなる([[オランダ海上帝国]])。一方で父が暗殺されたようにオランダ内部では絶えず政争が続いていて、休戦協定はホラント州法律顧問の[[{{仮リンク|ヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト]]|en|Johan van Oldenbarnevelt}}が商人層を代表して結んだが、庶民派とマウリッツは協定に不満で両者は対立関係となり、った。宗教問題で[[カルヴァン主義]]の[[予定説]]をどう解釈すべきか政治問題に発展、オルデンバルネフェルトは予定説を柔軟に解釈すべきとする[[レモンストラント派|寛容派]]に属したが、マウリッツは厳格に解釈しようとする[[オランダ改革派|厳格派]]に肩入れした。[[1618年]]に開かれた[[ドルト会議|ドルトレヒト会議]]で厳格派が主流となり[[ドルト信仰基準]]が採択され、[[1619年]]にオルデンバルネフェルトを処刑して自らの政権を維持した<ref>[[#ブロール、P52|ブロール]]・pp. 52-69. P69、[[#森田、P251編|森田編]]・pp. 251-253. P253、[[#ウェッジウッド、P363|ウェッジウッド]]・pp. 363- P366。366.</ref>。
 
[[1621年]]に停戦が終わるとスピノラと再戦、[[1624年]]にスペイン軍に包囲されたブレダを救援しようとしたが、1625年、決着が着く前にハーグで57歳で死去した。生涯独身を通し嫡子がなかったため、家督と地位は異母弟のフレデリック・ヘンドリックに受け継がれた。ただし、庶子に[[ウィレム・ファン・ナッサウ (1601-1627)|ウィレム]]、[[ローデウェイク・ファン・ナッサウ=ベーフェルウィート|ローデウェイク]]がおり、ローデウェイクの息子である孫[[ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク|ヘンドリック]]は[[オランダ侵略戦争]]、[[大同盟戦争]]、[[スペイン継承戦争]]で従軍してアウウェルケルク卿と名乗り、この家系はナッサウ=アウウェルケルク家として続いた。
 
== 軍事革命 ==
マウリッツが従兄のナッサウ=ジーゲン伯[[ヨハン7世 (ナッサウ=ジーゲン伯)|ヨハン7世]](叔父ヨハン6世の子)と共に行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にもその動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また訓練を通じて、[[傭兵]]の寄せ集めでしかなかった軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。
 
これらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(『武器の操作、[[火縄銃]]・[[マスケット銃]]・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す』、日本語未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの[[基本教練]]を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。
 
さらにマウリッツは、[[パイク]]の[[方陣]]([[テルシオ]])による[[白兵戦]]が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、[[歩兵]]・[[騎兵]]に[[砲兵]]を加えた[[三兵戦術]]の基盤を築いた。マウリッツが生きている間は、それでも名将スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダは当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たすことができた。
 
またマウリッツはまた、[[将校]]を育成するための[[士官学校]]も創設した。この士官学校の卒業者の中には、後に[[バルト海]]一帯の覇権を握る[[スウェーデン]]王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]に仕える者もいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように、[[軍事史]]におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった<ref>[[#菊池、P133|菊池]]・pp. 133- P140。140.</ref>。
 
加えてマウリッツは、軍隊に[[シモン・ステヴィン]]、[[ジャック・アローム]]等の優れた数学者・技師などを招き、新兵器の開発も振興した。
 
== 日本との交渉 ==
{{出典の明記|date=2015年4月|section=1|ソートキー=人1625年没}}
1609年([[慶長]]14年)、[[日本]]([[江戸幕府]])に進出したオランダ東インド会社はマウリッツをオランダ「'''国王'''」とする書簡を[[駿府]]で前[[征夷大将軍|将軍]]([[大御所 (江戸時代)|大御所]])[[徳川家康]]に提出し、朱印状による交易を認められた。以後、オランダ東インド会社はオランダ総督を「国王」とするフィクションを維持することになる。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[モーリス・{{Cite book|和書|first=ブロール]]著、|last=モーリス|others=[[西村六郎]]訳|title=オランダ史|date=1994-03|publisher=[[白水社]]、1994年。|series=[[文庫クセジュ]] 752|isbn=978-4-560-05752-0|ref=ブロール}}
* {{Cite book|和書||others=[[森田安一]]編『新版 世界各国史14 |title=スイス・ベネルクス史|date=1998-04|publisher=[[山川出版社]]、1998年。|series=新版 世界各国史 14|isbn=978-4-634-41440-2|ref=森田編}}
* [[{{Cite book|和書|author=菊池良生]]『|authorlink=菊池良生|title=傭兵の二千年史|date=2002-01|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]、2002年。 1587|isbn=978-4-06-149587-6|ref=菊池}}
* [[{{Cite book|和書|last=ウェッジウッド|first=シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド]]著、|authorlink=:en:Veronica Wedgwood|others=[[瀬原義生]]訳|title=オラニエ公ウィレム オランダ独立の父』[[|date=2008-03|publisher=文理閣]]、2008年。|series=|isbn=978-4-89259-561-5|ref=ウェッジウッド}}
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Maurice of Nassau}}
* [[モーリシャス島]]
* [[日蘭関係]]
* [[ニューネーデルラント]]
* [[サラディナーサ]]
* [[ナッサウ湾]]
 
{{先代次代|[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]]|1618年 - 1625年|[[フィリップス・ウィレム (オラニエ公)|フィリップス・ウィレム]]|[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|フレデリック・ヘンドリック]]}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:まうりつつ}}
[[Category:マウリッツ (オラニエ公)|*]]
[[Category:オランダ総督]]
[[Category:オラニエ公]]
[[Category:軍事学者]]
[[Category:軍事改革]]
[[Category:16世紀の学者]]
[[Category:17世紀の学者]]
[[Category:オラニエ=ナ16世紀ヨーロサウパの政治家]]
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[[Category:16世紀ヨーロッパの統治者]]
[[Category:17世紀ヨーロッパの統治者]]
[[Category:16世紀オランダの人物]]
[[Category:17世紀オランダの人物]]
[[Category:オラニエ公ウィレム1世の子女]]
[[Category:オラニエ=ナッサウ祖家]]
[[Category:1567年生]]
[[Category:1625年没]]
{{Link FA|nl}}