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{{出典の明記|date=2008年11月}}
{{オランダの歴史}}
{{ネーデルラントの歴史}}
'''オランダの歴史'''(オランダのれきし)では、[[北ヨーロッパ|北欧]]の[[ネーデルラント]]({{Lang-nl|Nederland}}、{{lang-en|Netherlands}}; [[オランダ]])王国の域内で展開した歴史について解説する。なお、「オランダ」はネーデルラント連邦共和国・ネーデルラント王国の日本における通称なので、以下の本文ではこの地域をネーデルラントと呼ぶ。
 
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== 民族大移動時代 ==
 
4世紀以降の[[民族移動時代]]には、ネーデルラントは多くの[[ゲルマン人]]の通過経路となった。なお、この時代の記録はほとんど残されていない。北の[[フリース人]]、南の[[フランク人]]、東の[[サクソン人]]の勢力圏に囲まれていたと考えられている。
 
== フランク王国 ==
[[ファイル:843-870 Europe.jpg|thumb|right|843-870年 フランク王国<br/>(分割後)]]
[[民族大移動]]期にローマ帝国は[[フランク人]]の[[サリ族]]を[[傭兵]]として利用するために[[フォエデラティ]]の資格でネーデルラント南部のトクサンドリアに入植させたが、西ローマ帝国の衰退にともない、サリ族入植地から発展して成立した[[フランク王国]]に、ネーデルラント全体が取り込まれていった。フランク王国の初代国王[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]が[[カトリック教会|カトリック]]に改宗したことにより、ネーデルラントにもキリスト教がもたらされた。
 
フランク王国の史料によれば、7世紀から8世紀においても、ネーデルラント北部からドイツ北部の海岸線に沿った地域は[[フリースラント]]王国が独立を保っており、その中心地は[[ユトレヒト]]であった。734年のボールンの戦いでフランク王国がフリースラント王国を破り、現在の[[フリースラント州]]付近までがフランク王国の領土となった。その後、785年に[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]][[ヴィドゥキント]]が[[カール大帝]]に降伏し、ネーデルラントは完全にフランク王国の領土となった。この時点でのフランク王国の中心地は、現在のベルギーと北フランス一帯であった。
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== 神聖ローマ帝国 ==
:''[[{{seealso|リエージュ司教領]]も参照''}}
[[ファイル:HRR 10Jh.jpg|thumb|right|1000年 神聖ローマ帝国]]
10世紀から11世紀にかけては[[神聖ローマ帝国]]がネーデルラントを支配した。[[ナイメーヘン]]が皇帝の重要な滞在場所となるとともに、[[ユトレヒト]]が重要な商業港となった。ナイメーヘンでは何人かの皇帝が誕生し、そして死去した。1100年頃まで大部分の西ネーデルラント(現在の[[北ホラント州]]と[[南ホラント州]]付近)は未開の土地であった。1000年頃より[[フランドル]]地方や[[ユトレヒト]]の農民がこれらの沼地を購入し、排水して耕作地に変えていった。これらの土地は12世紀には[[ホラント州|ホラント]]と呼ばれるようになった。また、1000年ごろから農業技術の急速な発展に伴い、食糧増産が可能となった。それに伴い、人口も増加し商業も発展した。[[ギルド]]の形成や[[市場]]の設置も行われるようになった。通貨の導入も行われ、商業はますます盛んになった。このころのネーデルラントでは[[十字軍]]への参加も盛んに行われるようになっていた。
 
[[フランドル]]地方や[[ブラバント]]地方では町が急速に発展し、領主から[[都市権 (オランダ)|都市権]]を含む様々な権利を得るようになる。自治権などを持つ発展した街は、まるで独立国のようになっていった。このころ最も発達した街は[[ブルージュ]]と[[アントウェルペン]]であった(どちらも現在のベルギーの都市)。また、帝国内でそれぞれの領地を治めていた領主も帝国からの独立性を高めていった。神聖ローマ帝国はもはや各地を直接統治する権限を行使することが出来なくなり、単なる名目上のものになってしまった。ネーデルラントは[[ホラント伯]]、ゼーラント伯、[[エノー伯]]、ヘルダーラント伯、[[ユトレヒト]]司教がそれぞれ治め、神聖ローマ帝国の宗主権下に入る形となった。また、[[フリースラント]]と[[フローニンゲン]]は半独立を保っていた。
 
:''[[リエージュ司教領]]も参照''
 
== ブルゴーニュ領ネーデルラント ==
:''[[{{seealso|ブルゴーニュ領ネーデルラント]]、[[|ネーデルラント17州]]も参照''}}
15世紀になると[[ブルゴーニュ公]][[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]がこれらの伯領を統一し、ネーデルラント一帯は[[ブルゴーニュ公国]]の一部([[ブルゴーニュ領ネーデルラント]])となる。この頃のネーデルラントは毛織物生産により経済的先進地となり、[[ヘント]]、[[アントウェルペン]]などの富裕な都市を生みだしている。しかし1477年[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル大胆公]]が[[ナンシーの戦い]]で急に戦死し、ブルゴーニュ公家はここで断絶してしまう。一人娘の[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー]]はオーストリア大公[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン]](後の[[神聖ローマ皇帝]])と結婚し、ネーデルラント地域は[[ハプスブルク家]]の所領となった。他方、ブルゴーニュ公領は、フランスのルイ11世(在位1461〜1481年)が接収した。
 
:''[[ブルゴーニュ領ネーデルラント]]、[[ネーデルラント17州]]も参照''
 
== ハプスブルク領ネーデルラント ==
=== カール5世のネーデルラント政策 ===
[[ファイル:CharlesVtit.jpg|thumb|left|150px|皇帝カール5世]]
マクシミリアンとマリーの孫で自らもネーデルラントで生まれ育った神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は、[[ネーデルラント17州]]すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後にハプスブルク領がオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・[[スペイン・ハプスブルク朝|ハプスブルク家]]に分割されると、ネーデルラントは[[スペイン]]の支配下に入った。
 
 
また、1530年代には[[アナバプテスト|再洗礼派]]がネーデルラントに流入し、アムステルダムを中心におおう(^_-)8->勢力を伸ばし(^^た。1534年には[[ヤン・マティス]]を指導者として再洗礼派がアムステルダムを掌握、さらに再洗礼派には[[ヤン・ベーケルスゾン]]が指導者として加わり、[[ミュンスター]]を中心とした「[[ミュンスターの反乱|ミュンスター千年王国]]」を建設したが、1535年にはプロテスタント諸侯とカトリック諸侯の連合軍によってミュンスターは陥落した。
 
1545年、カール5世はネーデルラント諸州に[[異端審問官]]を設置、1550年にはこれらの異端審問官を皇帝直属機関とした。しかしこうした政策は主に経済面への悪影響を懸念するネーデルラント各都市からの反発を受けたため、カール5世によるプロテスタントへの圧力は弱まった。一方、1540年代には[[カルヴァン派]]もネーデルラントに流入し、都市部の商人や手工業者を中心に勢力を広げた<ref>[[#森田編 1998|森田編 1998]], pp. 240-243.</ref>。
 
このように、カール5世のネーデルラント政策はプロテスタントへの弾圧が目立つものであったが、一方でネーデルラント諸州が政治的一体性を持ち、また「ネーデルラント」としての統一的なアイデンティティを獲得し始めた時期にも相当する<ref>[[#森田編 1998|森田編 1998]], pp. 227-231.</ref>。
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[[ファイル:WilliamOfOrange1580.jpg|thumb|left|150px|オラニエ公ウィレム1世]]
1566年、再び強化された異端審問に反発し、ネーデルラント諸州の下級貴族たち300名ほどがマルゲリータに異端審問の中止を要求した。マルゲリータはこの要求を容れたが、その結果、亡命中だったプロテスタントの指導者たちがネーデルラント諸州に舞い戻り、活発な野外説教を行うようになった。8月にはカトリックの教会や修道院を標的にした打ち壊しが[[フランドル|フランドル州]]で発生し、他の州にも広がっていった([[聖像破壊運動]])。これらの一連の動きの背景には、この年の極端な冷害による食料不足もあった。
 
1567年、フェリペ2世は事態を収拾するために[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]を指揮官とする1万の部隊をネーデルラントに派遣した。8月にネーデルラント入りしたアルバ公は、徹底的なプロテスタントの取り締まりを行い、12月には穏健派のマルゲリータに代わってネーデルラント全州総督となった。一方、ネーデルラント諸州の貴族の中でも最有力者であった[[オランジュ|オラニエ]]公[[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]]は、アルバ公がネーデルラント入りする前の4月にドイツに逃亡していたが、アルバ公はオラニエ公およびそれに付き従った貴族たちの財産と所領を没収するという強硬策を採った<ref>[[#森田編 1998|森田編 1998]], pp. 243-247.</ref>。
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== ネーデルラント連邦共和国 ==
{{main|南ネーデルラント|ネーデルラント連邦共和国}}
1585年にホラント州およびゼーラント州の総督に任命された[[マウリッツ (オラニエ公)|マウリッツ・ファン・ナッサウ]]は、1591年までに更に[[ユトレヒト州]]、[[ヘルダーラント州]]、[[オーファーアイセル州]]総督にも就任し、反乱側の指導者としての地位を確立する。1596年にはフランスとイングランドが北部7州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約)を締結し、うやむやのうちにネーデルラント連邦共和国が成立していたことになった{{refnest|group="注"|ネーデルラント連邦共和国は独立宣言を行っていないため、その成立の時期を特定することは出来ない<ref>[[#森田編 1998|森田編 1998]], pp. 251.</ref>。}}。
 
共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント諸州は1602年、[[アムステルダム証券取引所]]とともに連合東インド会社([[オランダ東インド会社]])を設立してアジアに進出し、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]から香料貿易を奪取し、世界の海に覇権を称えた。このため貿易の富が[[アムステルダム]]に流入して、[[17世紀]]の共和国は[[オランダ黄金時代|黄金時代]]を迎えることとなる([[オランダ海上帝国]])。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれたが、1621年に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ[[三十年戦争]]にもつれ込んだ。1648年、三十年戦争を終結させた[[ヴェストファーレン条約]]の一部であるミュンスター条約で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、80年にわたる戦争([[八十年戦争]])は終結した。
 
[[ファイル:VOC Amsterdam.jpg|thumb|left|VOCアムステルダム号(復元)]]
オランダ東インド会社は、アジアだけでなく南北アメリカにも植民地を築いた。しかし各地の植民地で[[イギリス東インド会社]]と衝突し、ついには3次にわたる[[英蘭戦争]]となった。オランダ政府は1656年次第のちイギ{{仮ンク|ライクより劣勢に立つこヴェルフ|en|Rijkswerf (Amsterdam)|preserve=1}}る兵器製造所・戦艦造船所を創設した{{efn2|ライクスヴェルフは1915年まで存在し。}}
 
1672年、イングランドがオランダに宣戦布告し(第三次英蘭戦争)、続いてフランス王国も宣戦を布告した([[オランダ侵略戦争]])。この国家的危機のため、1672年は「{{仮リンク|災厄の年|en|Rampjaar}}」と呼ばれる。{{仮リンク|オラニエ派|en|Orangism (Netherlands)}}と共和派の対立も深まり、ついには1653年以来共和制の指導者であった[[ヨハン・デ・ウィット]]兄弟が倒され、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]が[[オランダ総督|総督]]職に就いた。
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1688年、ウィレム3世はイングランドへ侵攻し、[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]は国外へ逃れた([[名誉革命]])。ウィレム3世は妻[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]とともにイングランドの共同統治者(ウィリアム3世)となり、イングランド(および[[スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]])とネーデルラントは1702年までの20年余、ともに同じ元首を頂くことになった。18世紀始めに勃発した[[スペイン継承戦争]]ではネーデルラントは[[フランス]]・スペインを相手にイギリスとともに戦った。1747年、[[オーストリア継承戦争]]の最中、フランスに侵攻されたが、なんとか撃退した。
 
18世紀末葉になるとフランスの[[啓蒙思想]]が共和国にも流入したが、オランダ総督の[[ウィレム5世 (オラニエ公)|ウィレム5世]]が優柔不断な態度を取っていたため、統領職を代々世襲する[[オラニエ=ナッサウ家]]に対する反感が高まった。さらに[[アメリカ独立戦争]]でイギリスと対立し、[[第四次英蘭戦争]]を起こして敗北(ただし、アメリカ独立戦争ではイギリスが敗北したため、オランダの損失は植民地の[[ナーガパッティナム]]のみ)、1785年に愛国派(パトリオッテンが蜂起する結果になった。
 
{{main|南ネーデルラント|ネーデルラント連邦共和国}}
 
== バタヴィア共和国とホラント王国 ==
[[ファイル:Jacques-Louis David 017.jpg|thumb|right|150px|ナポレオン・ボナパルト]]
[[フランス革命]]が起こると、[[フランス革命戦争|フランス革命軍]]は1793年にネーデルラント一帯を占領し、フランスへ亡命していた革命派やその同調者に[[バタヴィア共和国]]を樹立させたが、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が皇帝に即位すると、1806年に弟[[ルイ・ボナパルト]]を国王とする[[ホラント王国]]に移行した。しかしルイはネーデルラント人の利益を優先してナポレオンの命令に忠実でなかったため、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、総督[[シャルル=フランソワ・ルブラン|ルブラン]]がアムステルダムに駐在した。この混乱のなかで東インド会社は解散し、東インド植民地([[オランダ領東インド]])はフランスと敵対するイギリスが一時占領(1811年 - 1816年)した。この影響は遠く離れた日本の[[出島]]まで及び、オランダ国旗を掲げ(この時期、オランダ国旗を掲げている場所は、世界中で長崎の出島とアフリカ西海岸のエルミナ要塞しかなかった)オランダ船を装ったイギリス船フェートン号による侵犯事件も起こった([[フェートン号事件]])。
 
{{main|バタヴィア共和国|ホラント王国}}
[[ファイル:Jacques-Louis David 017.jpg|thumb|right|150px|[[ナポレオン・ボナパルト]]]]
[[フランス革命]]が起こると、[[フランス革命戦争|フランス革命軍]]は1793年にネーデルラント一帯を占領し、フランスへ亡命していた革命派やその同調者に[[バタヴィア共和国]]を樹立させたが、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が皇帝に即位すると、1806年に弟[[ルイ・ボナパルト]]を国王とする[[ホラント王国]]に移行した。しかしルイはネーデルラント人の利益を優先してナポレオンの命令に忠実でなかったため、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、総督[[シャルル=フランソワ・ルブラン|ルブラン]]がアムステルダムに駐在した。この混乱のなかで東インド会社は解散し、東インド植民地([[オランダ領東インド]])はフランスと敵対するイギリスが一時占領(1811年 - 1816年)した。この影響は遠く離れた日本の[[出島]]まで及び、オランダ国旗を掲げオランダ船に偽装したイギリス船フェートン号による侵犯事件も起こった[[フェートン号事件]])。この時期、オランダ国旗を掲げている場所は、世界中で長崎の出島とアフリカ西海岸のエルミナ要塞しかなかった)オランダ船を装ったイギリス船フェートン号による侵犯事件も起こった([[フェートン号事件]])
 
== ネーデルラント王国 ==
{{seealso|オランダ語連合}}
[[ファイル:VereinigteskoenigreichVerenigd Koninkrijk der Nederlanden (tot 1830).png|thumb|right|200px|ネーデルラント連合王国(1~5)<br/>ネーデルラント王国(1,2)]]
1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していた[[オラニエ=ナッサウ家]]の一族が帰国し、[[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]が即位して[[南ネーデルラント]]([[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])を含む[[ネーデルラント連合王国]]を樹立した。これが現在まで続く[[オランダ|ネーデルラント王国]](オランダ王国)の始まりである。しかしベルギーは[[ベルギー独立革命|独立戦争]]の後、1830年に分離独立した。1890年[[ウィレム3世 (オランダ王)|ウィレム3世]]が死去崩御すると、王位を継承した[[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ女王]]が幼少のため母后[[エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント|エンマ]]が摂政となっに就任したが、その際には[[ルクセンブルク|ルクセンブルク大公国]]が[[同君連合]]を解消して完全独立した。ウィルヘルミナ女王は1898年に18歳で親政を開始し、女王の統治時代は50年にわたって続くことになる。
 
=== 二度の世界大戦 ===
[[第一次世界大戦]]ではネーデルラント王国は中立を維持したが、[[第二次世界大戦]]では中立宣言にもかかわらず、他のベネルクスの国ともども[[1940年]][[5月10日]]未明に[[オランダにおける戦い (1940年)|ナチス・ドイツの侵攻]]を許した<ref>オランダ各地に独落下傘部隊降下(『東京日日新聞』昭和15年5月11日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p367 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。オランダは空挺兵などによる急襲を受け、3日後の5月13日には政府をロンドンへ移転<ref>オランダ政府、ロンドンへ移転(『東京朝日新聞』昭和15年5月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368</ref>、さらに翌5月14日に降伏してドイツに占領された<ref>ロッテルダム陥落、オランダ軍降伏(『東京朝日新聞』昭和15年5月16日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368</ref>。
 
[[第一次世界大戦]]ではネーデルラント王国は中立を維持したが、[[第二次世界大戦]]では中立宣言にもかかわらず[[ナチス・ドイツ]]に占領された。このためウィルヘルミナ女王政府とともに[[イギリス]]に亡命している。また[[1941年]]に[[太平洋戦争]]が勃発すると、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一員として[[12月8日]]に[[大日本帝国|日本]]に対して宣戦を布告した<ref>{{cite web|url=http://www.ibiblio.org/pha/policy/1941/411208c.html|title=THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS DECLARES WAR WITH JAPAN| publisher=ibiblio|accessdate=2011-04-23}}</ref>。東インド植民地([[オランダ領東インド]])は[[日本軍]]に占領された。南方軍司令官の[[今村均]]大将はオランダ側からの現地住民から身を守るための武装許可の要請を受け入れ、オランダ人の拳銃携帯を許可している。1945年の日本降伏後、オランダ軍は日本軍人を[[BC級戦犯]]として逮捕、拷問・処刑を行った([[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]中で最も多い226人の日本人を処刑、数千人を無期・有期刑で服役させた)。中には無実の者も含まれており、オランダの単なる報復行為の側面もあった
 
=== 世界大戦後から21世紀へ ===
[[ファイル:Willem-Alexander Wiesbaden Kurhaus portrait.jpg|thumb|right|150px|現在のオランダ君主<br>[[ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)|ウィレム=アレクサンダー国王]]<br>(在位:2013年4月30日 - )]]
[[File:Mark Rutte, 2017.jpg|thumb|right|150px|現在のオランダ首相<br>[[マルク・ルッテ]]<br>(在任:2010年10月14日 - )]]
[[1945年]]の[[日本の降伏|日本降伏]]後、[[オランダ軍]]は日本軍人を[[BC級戦犯]]として逮捕、拷問・処刑を行った([[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]中で最も多い226人の日本人を処刑、数千人を無期・有期刑で服役させた)。中には無実の者も含まれており、オランダの単なる報復行為の側面もあった。
 
日本降伏後、[[スカルノ]]ら現地の独立派は独立を宣言し、オランダは[[インドネシア]]の独立を認めることなく再征服を目指したことにより[[インドネシア独立戦争]](1945年 - 1949年)が勃発したが、結局インドネシアの独立を承認せざるを得なくなった。本国では1948年にウィルヘルミナ女王が退位して[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ女王]]が即位し、1980年にはユリアナ女王の譲位を受けて[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]が即位している
 
[[オランダ領東インド|オランダは東南アジアを長期にわたって植民地支配してきた]]が、その[[違法性]]を糺す動きはほとんど見られず、植民地支配は当時の政治体制の一部として容認されていたという認識が一般的である<ref name="東洋経済新報社55">{{Cite book|和書|author1=前川一郎|authorlink1=前川一郎|author2=倉橋耕平|authorlink2=倉橋耕平|author3=呉座勇一|authorlink3=呉座勇一|author4=辻田真佐憲|authorlink4=辻田真佐憲|authorlink=|date=2020-08-07 |title=教養としての歴史問題 |series=|publisher=[[東洋経済新報社]] |isbn=978-4492062135 |page=55 |url=https://books.google.co.jp/books?id=1i_1DwAAQBAJ&pg=PT55#v=onepage&q&f=false }}</ref>。[[1995年]]に[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス]]は[[インドネシア]]を訪問し、「[[オランダ領東インド|植民地支配]]はお互いに恵みを与えた」とスピーチして、[[インドネシア#国民|インドネシア人]]を憤慨させた。[[オランダ領東インド|植民地支配]]への謝罪はなかったが、オランダ国内で批判されることはなかった<ref name="東洋経済新報社55"/>。[[ウィム・コック]][[オランダの首相|首相]]は、[[2000年]][[12月]]に、[[インドネシア]]に対して、[[オランダ領東インド|植民地時代のオランダの行為]]に関して謝罪する用意があると表明したが、国内で嵐のような[[世論]]の反発に遭い、謝罪は立ち消えとなり、元軍人団体は「謝罪は[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]の犠牲になったオランダ兵に対する侮辱である」と猛反発した<ref name="東洋経済新報社56">{{Cite book|和書|author1=前川一郎|authorlink1=前川一郎|author2=倉橋耕平|authorlink2=倉橋耕平|author3=呉座勇一|authorlink3=呉座勇一|author4=辻田真佐憲|authorlink4=辻田真佐憲|authorlink=|date=2020-08-07 |title=教養としての歴史問題 |series=|publisher=[[東洋経済新報社]] |isbn=978-4492062135 |page=56 |url=https://books.google.co.jp/books?id=1i_1DwAAQBAJ&pg=PT56&lpg=PT56#v=onepage&q&f=false }}</ref>。オランダは[[奴隷制]]に深く関与した国であるが、[[2001年]]の{{仮リンク|ダーバン会議|en|World Conference against Racism}}で、[[人種差別]]と[[アフリカ]]の貧困の淵源には奴隷制と[[植民地主義]]があるとして、「遺憾の念」を表明したが、[[損害賠償|賠償]]・[[補償]]の実施には至らず、奴隷制や植民地主義に対する責任として[[貨幣|金銭]]を拠出するのはふさわしくないという立場を堅持し、代替として、経済支援を通じて、アフリカの[[雇用]]、[[健康]]、[[経済]]を支援することを主張した<ref name="東洋経済新報社56"/>。ただし、オランダの対応は近年変化しているとも指摘され、[[2005年]][[8月]]、インドネシア建国60周年記念に[[ジャカルタ]]を訪れた{{仮リンク|ベン・ボット|en|Ben Bot}}{{仮リンク|外務大臣 (オランダ)|en|Minister of Foreign Affairs of the Netherlands}}は、[[日本の降伏|日本軍降伏後]]に[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]に攻撃を加えたことに「遺憾の念」を表明したが、それ以上の植民地支配の違法性に踏み込み、法的責任として対処することは躊躇しており、[[国家賠償請求権|国家賠償]]はしないけれども、未来志向の経済支援で事態を収めようとするやり方を堅持している<ref name="東洋経済新報社56"/>。
 
本国では[[1948年]]にウィルヘルミナ女王が退位して[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ女王]]が即位し、[[1980年]]にはユリアナ女王の譲位を受けて[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]が即位した。
 
[[ウィム・コック]]政権([[:en:Second Kok cabinet|第2次コック内閣]])下の[[2000年]][[9月12日]]に[[同性結婚]]の合法化に関する法案が、[[スターテン・ヘネラール]](オランダ議会)の[[第二院 (オランダ)|第二院]](下院)で109票対33票で可決され、同年[[12月19日]]に[[第一院 (オランダ)|第一院]](上院)で49票対26票で可決された。同法律は、[[2000年]][[12月21日]]に[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]から[[:en:Royal assent|王室の同意]]を得て、[[2001年]][[4月1日]]に施行され、オランダは世界で最初に同性結婚を合法化した国になった([[オランダの同性結婚]])。
 
[[2013年]]にはベアトリクス女王の譲位を受けて、[[ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)|ウィレム=アレクサンダー国王]]がオランダ王室史上123年ぶりの男性国王として即位した。
 
現在の[[オランダの首相]]は、[[自由民主国民党]]党首の[[マルク・ルッテ]]([[2010年]][[10月14日]]就任)。
[[第一次世界大戦]]ではネーデルラント王国は中立を維持したが、[[第二次世界大戦]]では中立宣言にもかかわらず[[ナチス・ドイツ]]に占領された。このためウィルヘルミナ女王の政府はイギリスに亡命している。また1941年に[[太平洋戦争]]が勃発すると、[[12月8日]]に日本に対して宣戦を布告した<ref>{{cite web|url=http://www.ibiblio.org/pha/policy/1941/411208c.html|title=THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS DECLARES WAR WITH JAPAN| publisher=ibiblio|accessdate=2011-04-23}}</ref>。東インド植民地([[オランダ領東インド]])は[[日本軍]]に占領された。南方軍司令官の[[今村均]]大将はオランダ側からの現地住民から身を守るための武装許可の要請を受け入れ、オランダ人の拳銃携帯を許可している。1945年の日本降伏後、オランダ軍は日本軍人を[[BC級戦犯]]として逮捕、拷問・処刑を行った([[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]中で最も多い226人の日本人を処刑、数千人を無期・有期刑で服役させた)。中には無実の者も含まれており、オランダの単なる報復行為の側面もあった。
 
内閣は、[[2017年]][[10月26日]]成立の第3次ルッテ内閣([[:en:Third Rutte cabinet|Third Rutte cabinet]])。
日本降伏後、[[スカルノ]]ら現地の独立派は独立を宣言し、オランダはインドネシアの独立を認めることなく再征服を目指したことにより[[インドネシア独立戦争]](1945年 - 1949年)が勃発したが、結局インドネシアの独立を承認せざるを得なくなった。本国では1948年にウィルヘルミナ女王が退位して[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ女王]]が即位し、1980年にはユリアナ女王の譲位を受けて[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]が即位している。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
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{{Commonscat|History of the Netherlands|オランダの歴史}}
* [http://www.history-netherlands.nl/ A Coincise History of the Netherlands](オランダ外務省、英語) {{リンク切れ|date=2015年4月}}
* [{{Wayback|url=http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/dutch/ |title=オランダ史資料館] |date=20040730005509}} {{リンク切れ|date=2015年4月}}
* [{{Wayback|url=http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/abjure.htm |title=『統治権否認令(王権喪失宣言, オランダ「独立宣言」)(1581)』友清理士訳(歴史文書邦訳プロジェクト)] |date=20041011152223}} {{リンク切れ|date=2015年4月}}
 
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