「オランダの歴史」の版間の差分

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[[ファイル:VOC Amsterdam.jpg|thumb|left|VOCアムステルダム号(復元)]]
オランダ東インド会社は、アジアだけでなく南北アメリカにも植民地を築いた。しかし各地の植民地で[[イギリス東インド会社]]と衝突し、ついには3次にわたる[[英蘭戦争]]となった。オランダ政府は1656年、のちに{{仮リンク|ライクスヴェルフ|en|Rijkswerf (Amsterdam)|preserve=1}}となる兵器製造所・戦艦造船所を創設した{{efnefn2|ライクスヴェルフは1915年まで存在した。}}。
 
1672年、イングランドがオランダに宣戦布告し(第三次英蘭戦争)、続いてフランス王国も宣戦を布告した([[オランダ侵略戦争]])。この国家的危機のため、1672年は「{{仮リンク|災厄の年|en|Rampjaar}}」と呼ばれる。{{仮リンク|オラニエ派|en|Orangism (Netherlands)}}と共和派の対立も深まり、ついには1653年以来共和制の指導者であった[[ヨハン・デ・ウィット]]兄弟が倒され、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]が[[オランダ総督|総督]]職に就いた。
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== バタヴィア共和国とホラント王国 ==
{{main|バタヴィア共和国|ホラント王国}}
[[ファイル:Jacques-Louis David 017.jpg|thumb|right|150px|[[ナポレオン・ボナパルト]]]]
[[フランス革命]]が起こると、[[フランス革命戦争|フランス革命軍]]は1793年にネーデルラント一帯を占領し、フランスへ亡命していた革命派やその同調者に[[バタヴィア共和国]]を樹立させたが、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が皇帝に即位すると、1806年に弟[[ルイ・ボナパルト]]を国王とする[[ホラント王国]]に移行した。しかしルイはネーデルラント人の利益を優先してナポレオンの命令に忠実でなかったため、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、総督[[シャルル=フランソワ・ルブラン|ルブラン]]がアムステルダムに駐在した。この混乱のなかで東インド会社は解散し、東インド植民地([[オランダ領東インド]])はフランスと敵対するイギリスが一時占領(1811年 - 1816年)した。この影響は遠く離れた日本の[[出島]]まで及び、オランダ国旗を掲げオランダ船に偽装したイギリス船フェートン号による侵犯事件も起こった[[フェートン号事件]])。この時期、オランダ国旗を掲げている場所は、世界中で長崎の出島とアフリカ西海岸のエルミナ要塞しかなかった)オランダ船を装ったイギリス船フェートン号による侵犯事件も起こった([[フェートン号事件]])
 
== ネーデルラント王国 ==
{{seealso|オランダ語連合}}
[[ファイル:VereinigteskoenigreichVerenigd Koninkrijk der Nederlanden (tot 1830).png|thumb|right|200px|ネーデルラント連合王国(1~5)<br/>ネーデルラント王国(1,2)]]
1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していた[[オラニエ=ナッサウ家]]の一族が帰国し、[[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]が即位して[[南ネーデルラント]]([[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])を含む[[ネーデルラント連合王国]]を樹立した。これが現在まで続く[[オランダ|ネーデルラント王国]](オランダ王国)の始まりである。しかしベルギーは[[ベルギー独立革命|独立戦争]]の後、1830年に分離独立した。1890年[[ウィレム3世 (オランダ王)|ウィレム3世]]が崩御すると、王位を継承した[[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ女王]]が幼少のため母后[[エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント|エンマ]]が摂政に就任したが、その際には[[ルクセンブルク|ルクセンブルク大公国]]が[[同君連合]]を解消して完全独立した。ウィルヘルミナ女王は1898年に18歳で親政を開始し、女王の統治時代は50年にわたって続くことになる。
 
=== 二度の世界大戦 ===
[[第一次世界大戦]]ではネーデルラント王国は中立を維持したが、[[第二次世界大戦]]では中立宣言にもかかわらず、他のベネルクスの国ともども[[1940年]][[5月10日]]未明に[[オランダにおける戦い (1940年)|ナチス・ドイツ]]の侵攻]]を許した<ref>オランダ各地に独落下傘部隊降下(『東京日日新聞』昭和15年5月11日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p367 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。オランダは空挺兵などによる急襲を受け、3日後の5月13日には政府をロンドンへ移転<ref>オランダ政府、ロンドンへ移転(『東京朝日新聞』昭和15年5月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368</ref>、さらに翌5月14日に降伏してドイツに占領された<ref>ロッテルダム陥落、オランダ軍降伏(『東京朝日新聞』昭和15年5月16日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p368</ref>。
 
ウィルヘルミナ女王も政府とともに[[イギリス]]に亡命した。また[[1941年]]に[[太平洋戦争]]が勃発すると、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一員として[[12月8日]]に[[大日本帝国|日本]]に対して宣戦を布告した<ref>{{cite web|url=http://www.ibiblio.org/pha/policy/1941/411208c.html|title=THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS DECLARES WAR WITH JAPAN| publisher=ibiblio|accessdate=2011-04-23}}</ref>。東インド植民地([[オランダ領東インド]])は[[日本軍]]に占領された。南方軍司令官の[[今村均]]大将はオランダ側からの現地住民から身を守るための武装許可の要請を受け入れ、オランダ人の拳銃携帯を許可している。
 
=== 世界大戦後から21世紀へ ===
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日本降伏後、[[スカルノ]]ら現地の独立派は独立を宣言し、オランダは[[インドネシア]]の独立を認めることなく再征服を目指したことにより[[インドネシア独立戦争]](1945年 - 1949年)が勃発したが、結局インドネシアの独立を承認せざるを得なくなった。
 
[[オランダ領東インド|オランダは東南アジアを長期にわたって植民地支配してきた]]が、その[[違法性]]を糺す動きはほとんど見られず、植民地支配は当時の政治体制の一部として容認されていたという認識が一般的である<ref name="東洋経済新報社55">{{Cite book|和書|authorauthor1=[[前川一郎]]・[[|authorlink1=前川一郎|author2=倉橋耕平]]・[[|authorlink2=倉橋耕平|author3=呉座勇一]]・[[|authorlink3=呉座勇一|author4=辻田真佐憲|authorlink4=辻田真佐憲]]|authorlink=|date=2020-08-07 |title=教養としての歴史問題 |series=|publisher=[[東洋経済新報社]] |isbn=978-4492062135 |page=55 |url=https://books.google.co.jp/books?id=1i_1DwAAQBAJ&pg=PT55#v=onepage&q&f=false }}</ref>。[[1995年]]に[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス]]は[[インドネシア]]を訪問し、「[[オランダ領東インド|植民地支配]]はお互いに恵みを与えた」とスピーチして、[[インドネシア#国民|インドネシア人]]を憤慨させた。[[オランダ領東インド|植民地支配]]への謝罪はなかったが、オランダ国内で批判されることはなかった<ref name="東洋経済新報社55"/>。[[ウィム・コック]][[オランダの首相|首相]]は、[[2000年]][[12月]]に、[[インドネシア]]に対して、[[オランダ領東インド|植民地時代のオランダの行為]]に関して謝罪する用意があると表明したが、国内で嵐のような[[世論]]の反発に遭い、謝罪は立ち消えとなり、元軍人団体は「謝罪は[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]の犠牲になったオランダ兵に対する侮辱である」と猛反発した<ref name="東洋経済新報社56">{{Cite book|和書|authorauthor1=[[前川一郎]]・[[|authorlink1=前川一郎|author2=倉橋耕平]]・[[|authorlink2=倉橋耕平|author3=呉座勇一]]・[[|authorlink3=呉座勇一|author4=辻田真佐憲|authorlink4=辻田真佐憲]]|authorlink=|date=2020-08-07 |title=教養としての歴史問題 |series=|publisher=[[東洋経済新報社]] |isbn=978-4492062135 |page=56 |url=https://books.google.co.jp/books?id=1i_1DwAAQBAJ&pg=PT56&lpg=PT56#v=onepage&q&f=false }}</ref>。オランダは[[奴隷制]]に深く関与した国であるが、[[2001年]]の{{仮リンク|ダーバン会議|en|World Conference against Racism}}で、[[人種差別]]と[[アフリカ]]の貧困の淵源には奴隷制と[[植民地主義]]があるとして、「遺憾の念」を表明したが、[[損害賠償|賠償]]・[[補償]]の実施には至らず、奴隷制や植民地主義に対する責任として[[貨幣|金銭]]を拠出するのはふさわしくないという立場を堅持し、代替として、経済支援を通じて、アフリカの[[雇用]]、[[健康]]、[[経済]]を支援することを主張した<ref name="東洋経済新報社56"/>。ただし、オランダの対応は近年変化しているとも指摘され、[[2005年]][[8月]]、インドネシア建国60周年記念に[[ジャカルタ]]を訪れた{{仮リンク|ベン・ボット|en|Ben Bot}}{{仮リンク|外務大臣 (オランダ)|en|Minister of Foreign Affairs of the Netherlands}}は、[[日本の降伏|日本軍降伏後]]に[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]に攻撃を加えたことに「遺憾の念」を表明したが、それ以上の植民地支配の違法性に踏み込み、法的責任として対処することは躊躇しており、[[国家賠償請求権|国家賠償]]はしないけれども、未来志向の経済支援で事態を収めようとするやり方を堅持している<ref name="東洋経済新報社56"/>。
 
本国では[[1948年]]にウィルヘルミナ女王が退位して[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ女王]]が即位し、[[1980年]]にはユリアナ女王の譲位を受けて[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]が即位した。