削除された内容 追加された内容
Dojuzi (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
m →‎景聰禅師の主な語録等: 内部リンク追加
 
(20人の利用者による、間の44版が非表示)
1行目:
{{日本の寺院
{{wikify|date=2011年2月}}
|名称 = {{ruby|道樹寺|どうじゅじ}}
|画像 = [[File:Dojuzi002.jpg|300px]]
|所在地 = [[岐阜県]][[美濃市]]大矢田870-1
| 緯度度 = 35|緯度分 = 32|緯度秒 = 20
| 経度度 = 136|経度分 = 52|経度秒 = 23
|山号 = 大仙山
|宗旨 = 直指人心 見性成仏 不立文字 教外別伝
|宗派 = [[臨済宗妙心寺派]]
|寺格 = 別格地
|本尊 = [[宝冠釈迦如来]]
|創建年 = [[永正]]年間(後柏原天皇代)
|開山 = 景聰興勗 大鑑普應禅師
|中興年 =
|中興 = 泰傳和尚
|正式名 =
|別称 =
|札所等 =
|文化財 =
|地図 = Japan Gifu
}}
 
[[File:Dojuzi003.jpg|thumb|山門を望む]]
[[File:Dojuzi004.jpg|thumb|[[阿弥陀如来|阿弥陀如来立像]]]]
{{出典の明記|date=2011年2月}}
 
'''道樹寺'''(どうじゅじ)は[[岐阜県]][[美濃市]]にある[[臨済宗]]妙心寺派]]に属する別格地の[[寺院]]である。[[山号]]は大仙山。本尊は聖観世音菩薩[[宝冠釈迦如来]]<br />
境内は地方の寺院には珍しく、約1万坪ほどの平地にあり、約3000本の[[ヤマモミジ]]の原生林がある「もみじ谷」のある天王山を背景に散策地として特に春秋の[[大矢田神社]]の「ひんここ祭り」の頃はにぎわう。
 
== 沿革 ==
開山は景聰興勗(けいそうこうきょく)禅師。<br />
開山の勅賜号は大鑑普應禅師。開基は斉藤新四郎利良(美濃國最後の守護代、後に斉藤道三が斉藤を名乗るが美濃の斉藤ではない)が当寺を建立。
永正年間(後柏原天皇代)に創建され、開祖の景聰禅師は出生等不祥。岐阜市大智寺開祖の玉浦和尚に投じて剃度(出家)。その後瑞龍寺(岐阜市)の「悟渓和尚に随侍すること一寒暑余なり」と、寺史にあり。
和尚滅後、大智寺に帰り専ら玉浦和尚の室に入り宗旨の大事を究明し遂に師の證明を得たり。郡主斉藤利良公は殊に景聰和尚を崇信し、大矢田郷に寺領として五町八反余の地を与え一宇を建立し師を聘請して開祖とす。
師は手ら寺内に道の樹(菩提樹)四株を栽えて道樹寺と号す。師の下に参集修行せし者常に百余人なりと伝う。次第にその会下は近隣寺院の開祖となり大いに禅風を振う。
 
開山の勅賜号は大鑑普應禅師。開基は斎藤新四郎利良([[美濃国]]最後の[[守護代]]、後に[[斎藤道三]]が斎藤を名乗るが美濃の斎藤ではない)が当寺を建立。[[永正]]年間([[1504年|1504]]-[[1520年|1520]])に創建され、開祖の景聰禅師は出生等不詳。岐阜市[[大智寺 (岐阜市)|大智寺]]開祖の玉浦和尚に投じて剃度(出家)。その後[[瑞龍寺 (岐阜市)|瑞龍寺]](岐阜市)の「悟渓和尚に随侍すること一寒暑余なり」と、寺史にあり。和尚滅後、大智寺に帰り専ら玉浦和尚の室に入り宗旨の大事を究明し遂に師の證明を得たり。郡主[[斎藤利良]]公(戒名:持是院法印権大僧都岱嵩妙全大和尚)は殊に景聰和尚を崇信し、大矢田郷に寺領として五町八反余の地を与え一宇を建立し師を聘請して開祖とす。師は手ら寺内に道の樹[[(菩提樹)]]四株を栽えて道樹寺と号す。師の下に参集修行せし者常に百余人なりと伝う。次第にその会下は近隣寺院の開祖となり大いに禅風を振う。
==景聰禅師の主な語録等==
 
虚堂録景聰臆断 <br />
[[延宝伝燈録|延宝伝灯録]]<br />
碧巌集景聰臆断 <br />
濃州汾陽景總興勗禅師。由妙心第一座。出住濃之乾徳山。海衆盍簪。一夏為衆講碧巌集。快川喜公寄偈曰。汾陽雪竇老圜悟。一串穿過列祖機。今日西河獅子々。碧巌吼破瀑泉飛。師和偈曰。開虚空口漫論説。昧卻夾山評唱機。五百年来無此作。優曇華現鳳凰飛。師開濃之道樹寺為第一世。師錯綜諸録。著註鈔若干巻。
禅儀外文臆断 <br />
<br />(大日本仏教全書 延宝伝灯録巻第31から引用)
 
== 景聰禅師の主な語録等 ==
* 虚堂録景聰臆断
* 碧巌集景聰臆断
* 禅儀外文臆断 <br />
駒沢大学図書館所蔵<br />
 
景聡興勗 (1508−1592) 撰
 『禪儀外文集』は臨済宗[[聖一派]]の虎関師錬(海蔵和尚、1278−1346)が編集したものであり、宋代の禅僧の入院開堂の疏・榜や尊宿入寂の祭文で模範となる作品を収録している。全体は疏・榜・祭文の三つに分かれ、疏には山門・諸山・江湖・雑疏を、榜には茶・湯を、[[祭文 (漢文)|祭文]]には山門・諸山・江湖・雑祭をそれぞれ収めている。<br />
 詳細は既公開資料(二点)の解題をも参照願いたい。本書はその注釈書で、所謂抄物である。抄物には漢文の真名抄と片仮名交じり文を以って筆録した仮名抄がある。本仮名抄の撰述者は景聡興勗である。<br />
 興勗は、臨下の妙心寺派下東海派(悟渓宗頓、1416−1500)玉浦門派に属する学僧。妙心寺に掛錫して、玉浦宗珉(?−1519)の法を嗣ぐ。美濃(岐阜)汾陽寺に住して碧巌録を講じたという。後年、同国道樹寺を開いて、第1世となる。天正20年(1592)8月25日85歳で示寂し、終生黒衣で通したという。<br />
 著作に『虚堂録景聰臆断』、『碧巌集景聰臆断』など宗門七種解と呼ばれる、祖録類の講述を行った。その講案には某々「臆断」という名が付けられた。同じ臨済宗の中でも、系統でその違いが指摘されている。五山派禅僧は、外典の抄が大部分で、字句の解釈注解を主とし、世評や噂話を取り入れたものであった。これに対し、妙心寺派下の抄は講述に脱線が少なく、字句の解釈より、宗旨深奥の体得を目指したものであった(注1)。本書には、書写者、書写年に関わる記載が無い。納入時の慶長年間写は根拠不明である。なお、岩崎文庫の解題に、所蔵の鈔の成立年は天文八年(1539)云々との奥書がある(注2)が、干支の記載から判断して、天文18年(1549)と思われ、本書の成立年は後者のようである。<br /><br />
(注1)玉村竹二著『松ヶ岡文庫所蔵禅籍抄物集解題』書評と紹介(『鈴木学術財団研究年報』14(一九七七)所収<br />
(注2)『岩崎文庫貴重書書誌解題』1(一九九〇)P21<br />
 
== エピソード ==
また景聰和尚は信長に焼き殺された甲斐の[[恵林寺]]住職、[[快川紹喜和尚]]と書状を以て往来した。<br />快川和尚は景聰和尚を称して西河の活獅子又は大仙仏と讃え、偈頌を送った。
 
快川和尚は景聰和尚を称して西河の活獅子又は大仙仏と讃え、偈頌を送った。<br />
汾陽雪竇老圜悟<br />
一串穿過列祖機<br />
今日西河獅子々<br />
碧巌吼破瀑泉飛<br />
 
これに和して景聰和尚も一偈を寄せた。<br />
 
開虚空口漫論説<br />
昧卻夾山評唱機<br />
五百年来無此作<br />
優曇華現鳳凰飛<br />(延宝伝灯録巻第31から引用)
 
(注)乾徳山。汾陽寺の山号。<br />
(注)快川喜公。快川紹喜のこと。美濃土岐氏出身。長良の崇福寺住職であったが、武田信玄に招かれ甲斐恵林寺の住職となる。領国を接する武田氏は美濃情勢に介入しており、斎藤・織田双方と友好的関係を築くため、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧を務めさせた。快川の弟子には[[伊達政宗]]の教育の師として有名な[[虎哉宗乙]]がいる。<br />
(注)夾山は湖南の夾山霊泉院のことで、仏果圜悟禅師の碧巌録を指す<br /><br />
 
== 参考文献 ==
*虚堂録景聰臆断 <br />
*碧巌集景聰臆断 <br />
*禅儀外文臆断 出版年 1539年(天文8年写)
 
== 現在近代 ==
[[慶安]]年間(後光明天皇代)泰伝和尚五世住職となり伽藍を整えたが[[明和]]7(1770)([[1770年]])本堂焼失。6年後[[安永 (元号)|安永]]5(1858)([[1776年]])に再建されこれが現在の本堂となる。総門は[[享保]]年間の建立。開山和尚像は江戸初期の作。[[阿弥陀如来]]坐像は室町時代。阿弥陀如来立像は江戸初期の作。
 
最近(2011年秋)文化庁の奥健夫より阿弥陀如来立像など制作年代が古いことを指摘されている。
== 現在 ==
慶安年間(後光明天皇代)泰伝和尚五世住職となり、伽藍を整え、明和七年(1770)本堂焼失六年後、安永五年(1858)再建されこれが現在の本堂となる。総門は享保年間の建立。開山和尚像は江戸初期の作。阿弥陀如来坐像は室町時代。阿弥陀如来立像は江戸初期の作。
 
== 関連項目 外部リンク==
*[http://www.t3create.com/minoshi-bukkyokai/doujuji/index.html 道樹寺]
[[臨済宗妙心寺派]]
[[岐阜県の寺]]
 
{{Buddhism-stub}}
{{DEFAULTSORT:とうしゆし}}
[[Category:臨済宗妙心寺派の寺院]]
[[Category:岐阜県美濃市の寺]]
[[Category:美濃市]]