「アルフォンソ1世 (アストゥリアス王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
{{出典の明記|date=2011年10月12日 (水) 09:10 (UTC)|ソートキー=人0757年没}}
[[file:Alfonso| I人名 of= Asturias.jpg|right|thumb|200px|アルフォンソ1世像]]
| 各国語表記 = Alfonso I
'''アルフォンソ1世'''(Alfonso I de Asturias, [[693年]] - [[757年]])は、[[アストゥリアス王国|アストゥリアス]][[アストゥリアス王の一覧|王]]。
{{先代次代| 君主号 = [[アストゥリアス王の一覧|アストゥリアス王]]|739年 - 757年|[[ファビラ]]|[[フルエーラ1世]]}}
| 画像 = Alfonso I of Asturias.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[739年]] - [[757年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 姓名 =
| 出生日 = [[693年]]
| 生地 = {{KAS718}}、[[カンタブリア]]
| 死亡日 = [[757年]]
| 没地 = {{KAS718}}、[[カンガス・デ・オニス]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{KAS718}}、[[コバドンガ|サンタ・クエバ・デ・コバドンガ]]
| 配偶者1 = [[エルメシンダ|エルメシンダ・デ・アストゥリアス]]
| 配偶者2 =
| 子女 = [[フルエーラ1世]]<br>[[ビマラーノ]]<br>アドシンダ<br>(庶子)[[マウレガート]]
| 王家 = [[アストゥリアス家]]
| 王朝 = [[アストゥリアス家|ペレス朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[カンタブリア]]公ペドロ
| 母親 =
}}
[[File:Afonso I das Astúrias.png|thumb|アルフォンソ1世]]
'''アルフォンソ1世'''(Alfonso I de Asturias, [[693年]] - [[757年]])は、[[アストゥリアス王国|アストゥリアス]][[アストゥリアス王の一覧|王]](在位:[[739年]] - 757年)
 
== 生涯 ==
アルフォンソ1世は[[カンタブリア]]公ペドロの息子として生まれ、その領地を相続していた。また[[バスク人]]の首領としての地位を相続していたという説もある。
アルフォンソ1世は[[カンタブリア]]公ペドロの息子として生まれ<ref name=S137>関 他、p. 137</ref>、その領地を相続していた。また[[バスク人]]の首領としての地位を相続していたという説もある。父ペドロとアルフォンソ1世は[[579年]]から[[584年]]まで続いた[[西ゴート王国]]での内戦(宗教戦争)に敗れた[[ヘルメネギルド]]の子孫だった<ref>ヘルマン・シュライバー 『ゴート族 ゲルマン民族大移動の原点』</ref>(ペドロは玄孫(もしくは曾孫)、アルフォンソ1世は来孫(もしくは玄孫)にあたると言われている{{efn|ヘルメネギルド - アタナギルド - [[アルデバルト]](アルダバスト)- エルウィグ(西ゴート王) - ペドロ - アルフォンソ1世の6代直系とされる。或いはペドロをアルデバルトの子でエルウィグの兄弟とし、5代直系という説もある。何れの説でもヘルメネギルドの直系子孫としている点では一致している。}})。
 
アルフォンソ1世はアストゥリアス王国を建てた[[ペラーヨ]]王の娘[[エルメシンダ]]と結婚していたとされおり、そのためペラーヨの死後に国を継いだ長男[[ファビラ]]が739年に没した後に王国を相続した<ref name=S137/><ref>ローマックス、p. 37</ref>
 
ペラーヨとファビラの実在については今なお議論の余地があるが、アルフォンソ1世については存在が確実視されている。彼もまたペラーヨ王のように[[ムーア人]]に対する[[レコンキスタ]]に明け暮れた。740年に[[ガリシア州|ガリシア地方]]を、754年に[[{{仮リンク|レオン地方]]|en|Region of León}}を取り戻す。
 
その後[[イスラーム]]との緩衝地帯を設けるため、[[ドゥエロ川]]からアストゥリアス山脈までの居住者を多く、山脈北側へ移住させたようである<ref>ローマックス、pp. 37 - 38</ref>。このため、移住者が元いた一帯は人口が激減し、ドウロの砂漠と呼ばれるようになった。
 
イスラム側ではこのアストゥリアス王国やその後継である[[レオン王国]]などを「アルフォンソの一族」([[:en:Beni Alfons|بنو إذفونش‎إذفونش, Banu Iḍfunš]])などと呼んでおり、これら王権がアルフォンソ1世からはじまったと解釈していたようである。
 
== 子女 ==
{{先代次代|[[アストゥリアス王の一覧|アストゥリアス王]]|739年 - 757年|[[ファビラ]]|[[フルエーラ1世]]}}
[[ペラーヨ]]王の娘[[エルメシンダ]]との間に以下の子女がいる。
* [[フルエーラ1世]] - アストゥリアス王(757年 - 768年)
* [[ビマラーノ]] - 765年に兄フルエーラ1世に殺害された。
* アドシンダ - 後のアストゥリアス王[[シロ (アストゥリアス王)|シロ]]と結婚<ref name=S159>鈴木、p. 159</ref>
 
また、奴隷女との間に庶子をもうけた<ref name=S159/>。
* [[マウレガート]] - アストゥリアス王(783年 - 789年)
 
== 注釈 ==
{{notelist}}
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 関哲行 他 『世界歴史大系 スペイン史 1』 山川出版社、2008年
* 鈴木康久 『西ゴート王国の遺産』 中央公論社、1996年
* D.W.ローマックス 『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』 刀水書房、1996年
* ヘルマン・シュライバー 『ゴート族 ゲルマン民族大移動の原点』 佑学社、1979年
 
== 関連項目 ==
*[[アストゥリアス王の一覧]]
 
{{アストゥリアス王}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あるふおんそ1}}
[[Category:アストゥリアス王]]