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{{スペイン語圏の姓名|ファンヒオ|デラモ}}
{{F1ドライバー|
{{F1ドライバー
氏名 = ファン・マヌエル・ファンジオ |
| 氏名 = ファン・マヌエル・ファンジオ<br>Juan Manuel Fangio
Image = Fangio.png |
| Image = Juan Manuel Fangio (circa 1952).jpg
image-size = 200px|
| image_size = 220px
説明 = |
フルネーム| 説明 = ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ | (1952年)
| フルネーム = ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ<br>Juan Manuel Fangio Deramo
愛称 = |
| 国籍 = {{ARG}} |
| 出身地 = 同・[[ブエノスアイレス]][[バルカルセ (ブエノスアイレス州)|バルカルセ]]
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1911|6|24|no}}|
| 死没地 = {{ARG}}<br>同・[[ブエノスアイレス]] |
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1911|6|24|1995|7|17}}|
| 年 = 1950-1951,1953-1958
さ 所属チーム = '50-'51 [[アルファロメオ]]<br>'53,'54,'57-'58 [[マセラティ]]<br>'54,'55 [[メルセデスAMG F1|メルセデス]]<br>'56 [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] |
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出走回数 = 52 (51スタート) |
| 出走回数 = 52 (51スタート)
タイトル = 5 (1951,1954,1955,1956,1957) |
| タイトル = 5 ([[1951年のF1世界選手権|1951]],[[1954年のF1世界選手権|1954]],[[1955年のF1世界選手権|1955]],[[1956年のF1世界選手権|1956]],[[1957年のF1世界選手権|1957]])
優勝回数 = 24 |
| 優勝回数 = 24
通算獲得ポイント = 245 (277 {{分数|9|14}}) |
| 表彰台回数 = 35 |わ
| 通算獲得ポイント = 245 (277 {{分数|9|14}})
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| ポールポジション = 29
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| ファステストラップ = 23
| 初戦 = [[1950年イギリスグランプリ|1950年イギリスGP]] |
| 初勝利 = [[1950年モナコグランプリ|1950年モナコGP]] |
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}}
'''ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ'''('''Juan Manuel Fangio Déramo''', [[1911年]][[6月24日]] - [[1995年]][[7月17日]])は、[[アルゼンチン]]のレーシングカー・ドライバーである。[[フォーミュラ1|F1]]において5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは[[2003年]]に[[ミハエル・シューマッハ]]に破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていた。
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== 来歴 ==
=== レースキャリア生い立ち ===
首都ブエノスアイレスから350km離れたバルカルセ{{enlink|Balcarce, Buenos Aires|Balcarce}}で、イタリア系移民二世として生まれる。父親はペンキ職人で、6人きょうだいの四男が[[6月24日]]の「[[洗礼者ヨハネ|聖ヨハネ]] (San Juan Bautista) の日」に生まれたことから「ファン」と名付けた<ref>『ファンジオ自伝』、13頁。</ref>。
ファンジオは11歳の時よりメカニックの仕事に就き、レースにも参戦するようになった。主に南米で行われていた長距離のレースで活躍し、1940年と1941年にはアルゼンチンの国内選手権を制した。戦後時の[[フアン・ペロン|ペロン]]政権の後援で、1947年よりヨーロッパのレースにも進出した。
 
幼い頃から機械いじりが好きで、13歳になると地元の修理工場で整備工として働き始める。また、サッカーが得意で、プレースタイルから「エル・チュエコ(がに股)」というあだ名を付けられた<ref>『ファンジオ自伝』、15頁。</ref>。軍隊で[[兵役]]を務め終えると独立し、自分の修理工場で自動車を改造して、[[1934年]]からレースに出場するようになった。
1950年にF1世界選手権が始まると、[[アルファロメオ]]から参戦するようになる。初年度はチームメイトの[[ジュゼッペ・ファリーナ]]にチャンピオンの座を譲ったが、翌1951年には[[アルベルト・アスカリ]]ら[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]勢の追い上げをかわし、初のワールドチャンピオンを獲得した。
 
=== ヨーロッパ進出 ===
1952年はシーズン前の[[モンツァ・サーキット|モンツァ]]のレースでクラッシュし、頸部を骨折し1年間欠場する。一時は心臓も停止し再起不能とも言われたが、1953年には[[マセラティ]]から復帰を果たす。最終戦[[イタリアグランプリ]]では、2年間無敗を続けたフェラーリを止める復活勝利を挙げた。
主に南米で行われていた長距離ロードレースで活躍し、1940年にはブエノスアイレスと[[ペルー]]の[[リマ]]を往復する約9,500kmのグランプレミオ・デル・ノルテで優勝。1940年と1941年にはアルゼンチンの国内選手権を制した。当時のライバルはガルベス兄弟([[オスカル・ガルベス|オスカル]]とフアン)で、ファンジオ派とガルベス派のファンが対立するほど人気は高かった。しかし、[[第二次世界大戦]]の余波は南米にも及び、1942年以降のレースは中止された。
 
1947年から国内でレース活動を再開すると、ヨーロッパからゲスト参戦した[[アキーレ・ヴァルツィ]]、[[ジャン=ピエール・ウィミィーユ]]らと競い合い、本場ヨーロッパで実力を試す希望を持つようになる。
 
1948年10月、ブエノスアイレスからベネズエラのカラカスを目指す[[ツーリスモ・カレテラ]]のレースに出走していたファンジオは、内乱の影響で急遽夜間のスタートとなったリマ~[[トゥンベス]](ペルー)のステージにおいて、濃霧の中でオーバースピードでコーナーに進入したことが原因で転落。ファンジオは首を負傷した上、コ・ドライバーを務めていた2歳下の同郷の友人、ダニエル・ウルティアが車外に投げ出されて死亡する事故となり<ref>{{Cite web |url=http://www.motorsportmemorial.org/focus.php?db=ct&n=1340 |title=Motorsport Memorial - Daniel Urrutia |access-date=2022-08-09 |publisher=Motorsport Memorial}}</ref>、大きなショックを受けたファンジオは一時は引退も考えた。その後立ち直ったファンジオは[[フアン・ペロン|ペロン]]政権の後援を受けて自動車クラブのメンバーとしてオスカルらとヨーロッパへ渡り、1949年はサンレモGP、ポーGP、マルセイユGP、モンツァGPなどで連勝を重ね、国際的な一流ドライバーと見なされるようになった。
 
=== 5度のF1ワールドチャンピオン ===
{{f1|1950}}は[[アルファロメオ]]と契約し、新たに開幕したF1世界選手権に参戦する。第2戦[[1950年モナコグランプリ|モナコGP]]で初優勝し、[[1950年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]と[[1950年フランスグランプリ|フランスGP]]を連勝してポイントをリードしたが、最終戦[[1950年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でリタイアしてチームメイトの[[ジュゼッペ・ファリーナ]]に初代チャンピオンの座を譲った。
 
{{f1|1951}}は後半戦調子を上げてきた[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]勢との争いになった。フェラーリのエース、[[アルベルト・アスカリ]]との一騎打ちで迎えた最終戦[[1951年スペイングランプリ|スペインGP]]は、フェラーリのタイヤ選択ミスにも助けられ、見事にワールドチャンピオンを獲得した。
 
{{f1|1952}}は、アルファロメオが撤退してシートを失った上に、非選手権レースで大事故に遭遇する。[[アイルランド]]でレースをした翌日モンツァGPに出場するため、[[パリ]]から[[ミラノ]]まで夜通し運転してレースに強行出場した結果、クラッシュして頸部を骨折し半年間の療養生活を送る。引退も噂されたが、1953年には[[マセラティ]]から復帰を果たし、最終戦[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]では、2年間無敗を続けたフェラーリを止める復活勝利を挙げた。
 
[[ファイル:Großer Preis von Europa -1954 Nürburgring, Juan Manuel Fangio, Mercedes (3)x.JPG|thumb|left|240px|1954年、[[メルセデス・ベンツ・W196]]に乗り[[ニュルブルクリンク]]を走行するファンジオ]]
{{f1|1954}}は、マセラティで開幕2連勝した後、[[1954年フランスグランプリ|フランスGP]]より参戦を開始した[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]へ移籍。デビュー戦をポール・トゥ・ウィンで飾ると、シーズン9戦中6勝<ref name="indy">当時F1世界選手権にカウントされていた[[インディ500]]には参加していない。</ref>を記録して2度目のワールドチャンピオンを獲得した。しかし、[[1954年ドイツグランプリ|ドイツGP]]では可愛がっていた後輩の[[オノフレ・マリモン]]が事故死し、大きな精神的ショックを受けた。
1954年のフランスグランプリより[[メルセデス・ベンツ]]が参戦を開始すると、ファンジオもマセラティから移籍するが、このコンビネーションは凄まじい勢いでグランプリ界を席巻することとなる。[[1955年のル・マン24時間レース]]での大事故を受けてメルセデスがわずか2シーズンで撤退するまでの12レース中、ファンジオは8勝を獲得し、2年連続ワールドチャンピオンとなった。
 
1954年には可愛がっ{{F1|1955}}も7戦中4勝<ref name="indy"/>を挙げいた後輩、自身3度目タイトルを獲得した。[[オノフレ・マ1955年イギスグラプリ|イギリスGP]]が事故死し、大きな精神的ショックでは[[スターリング・モス]]の地元初優勝受け祝う余裕も見せた。一方、[[1955年のル・マン24時間レース|ル・マン24時間レース]]では観客80名以上が死亡するモータースポーツ史上最悪のクラッシュに遭遇し、事故死した[[ピエール・ルヴェー]]のを走行しており、巻き添えを方で間一髪危機をまぬがれた。メルセデス・ベンツチームがそのレースから撤退を決めた直後憔悴したファンジオ自身の姿を捉えた写真が残されている。彼はそれ以降一切ル・マン24時間レースに姿を見せなかった
 
メルセデスの撤退レース活動休止により、{{f1|1956}}にはフェラーリへ移籍。最終戦[[1956年イタリアグランプリ|イタリアGP]]で、チームメイトの[[ピーター・コリンズ]]からチャンスを譲られる形で、自身4度目のチャンピオンを獲得する(後述)。しかしワンマンオーナーの[[エンツォ・フェラーリ]]との関係は上手くいかずギクシャクし、1年限りでチームを去ることになるった
 
{{f1|1957}}はマセラティに復帰し、4年連続のチャンピオンに輝くこととなった。この年はドイツグランプリGPの伝説的勝利(後述)を含め圧倒的な強さをみせ、出場したレースではリタイア1回を除くと、全てが優勝または2位でフィニッシュした。未だ実力はトップレベルだったが、全てやり遂げたという達成感からレース出場回数を減らしていく
 
{{f1|1958}}は[[インディ500]]に初挑戦し、練習走行でルーキーテストを通過したが、公式予選には出走しなかった。F1はマセラティがワークス活動を休止し、ファンジオはたマセラティから2戦のみに出場スポット参戦。フランスグランプリGP4位で終えた後、47歳でF1からの引退を表明した。
 
=== 引退後 ===
[[ファイル:Fangio-MB-W196-3lMotor-1986.jpg|thumb|220px|1986年[[ニュルブルクリンク]]で[[メルセデス・ベンツ・W196]]を運転するファンジオ]]
晩年は[[パガーニ・アウトモビリ]]のオーナーであり、デザイナーでもあるオラツィオ・パガーニに「君の作る車には是非ともメルセデス・ベンツのエンジンを使用するべきだ」と進言し、エンジンの供給に対してメルセデス・ベンツに対して交渉面などに於いて便宜を図るなどの協力をアドバイザーという役職として行っている。[[パガーニ・ゾンダ]]の限定モデル"Roadster F"に付けられた"F"は、ファンジオの名から敬意を表して名付けられたものである。
 
引退後は母国でメルセデス・ベンツ車のディーラーを経営し、メルセデスとの深い関係は生涯続いた。晩年は[[パガーニ・アウトモビリ|パガーニ]]のアドバイザーとして、オーナー兼デザイナーのオラツィオ・パガーニにメルセデス・ベンツ製エンジンの搭載を進言し、交渉面での便宜を図った。[[パガーニ・ゾンダ]]の限定モデル"Roadster F"に付けられた"F"は、ファンジオの名から敬意を表して名付けられたものである。
「アルゼンチンの英雄」として多大なる敬愛を受けていたファンジオは、[[国葬]]という形で手厚く葬られた。
 
1990年、[[国際モータースポーツ殿堂]]に殿堂入り。1995年7月17日、居住地ブエノスアイレスで84歳で死去。「アルゼンチンの英雄」として多大なる敬愛を受けていたこともあり、[[国葬]]という形で手厚く葬られた。
 
彼のレースにおける輝かしい軌跡は、"[[Fangio]](Fangio(邦題名『[[グレート・ドライバー]]』)"と題してドキュメンタリー映画化されている。自身が出場した数々のレースやインタビュー映像の他、1970年代後半までのF1名勝負や悲惨なアクシデントシーン<ref>[[1967年モナコグランプリ]]での[[ロレンツォ・バンディーニ]]死亡事故や、[[1977年南アフリカグランプリ]]での[[トム・プライス]]死亡事故など。また本文中にもある1955年のル・マン24時間レースで発生した大事故では、その映像に加え本人による模型を用いた解説シーンがある。</ref>等も収められなど、当時の貴重な映像も収資料としされも大変貴重で非常に価値の高[[ドキュメンタリー]]作品である。
 
なお、甥にあたる同姓同名のファン・マヌエル・ファンジオもレーサーとなり、1980年代から1990年代に[[オール・アメリカン・レーサーズ]]の主力として[[国際モータースポーツ協会|IMSA]]や[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]で活躍した。彼は実子ではないが「[[ファン・マヌエル・ファンジオ2世]]([[:en:Juan Manuel Fangio II|''Juan Manuel Fangio II'']] ) 」というレーシングネームを使用した。
 
== 業績 ==
[[ファイル:Juan Manuel Fangio statue Mercedes-Benz Museum.jpg|thumb|right|180px|[[シュトゥットガルト]]のメルセデス・ベンツ博物館にあるファンジオ像]]
F1通算24勝は[[1968年]]に[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]が更新するまで個人最多勝記録であった。不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回もミハエル・シューマッハに抜かれたが、46歳での最年長チャンピオンという記録は残っている(最年長優勝は[[ルイジ・ファジオーリ]]の53歳)。[[第二次世界大戦]]前のドライバー中心で始まった草創期のF1ではこの年齢は珍しくなかったが、ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代だけに、47歳まで現役のトップで戦ったファンジオの価値を損ねるものではない。
F1通算24勝は[[1968年]]に[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]が更新するまで個人最多勝記録であった。不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回もミハエル・シューマッハに抜かれたが、46歳での最年長チャンピオンという記録は未だ破られていない(最年長優勝は[[ルイジ・ファジオーリ]]の53歳)。[[第二次世界大戦]]前のドライバー中心で始まった草創期のF1ではこの年齢は珍しくなかったが、ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代でもあった。
 
参戦51戦中24勝で勝率47.1%という記録は、極端に参戦数の少ないドライバーを除くと、圧倒的な数字である。数々のF1の記録を更新してきたミハエル・シューマッハをもってしても、最後までチャンピオン争いをした一度目の引退時における勝率が36.7%であり、シューマッハに次ぐ勝利数の[[アラン・プロスト|プロスト]]と[[アイルトン・セナ|セナ]]はともに25.5%であることから見ても、ファンジオの勝率は、F1草創期であるとは言え、想像絶する記録であることが分か抜いている。これら続のドライバーたちが安定した体制(フェラーリや[[マクラーレン]]など)で数字を伸ばしたのに対し、ファンジオは8年間に4チームを渡り歩いたのが特色である。その都度強マシンに乗り合わせ強運もあるが、当代一の名手として各チームから引く手あまただったという点は重要である
 
また、その紳士的な人柄でライバルや後輩から尊敬を集めていた。F1引退レースとなった1958年フランスグランプリでは、優勝した[[マイク・ホーソーン]]が敬意を評してファンジオを周回遅れにせず、ゴールまで後方に従ったというエピソードもあった偉大没後も記録が更新されても、ドライバーの規範としてファンジオは根強く支持されており、F1の'''歴代ベストドライバー'''という評価もなされている。
 
== 特筆されるレース ==
予測危機回避能力が極めて高いことで有名で知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故から一人だけ事態を見抜いてたびたび危機を回避している<ref name="newhighspeeddriving-140">『新ハイスピード・ドライビング』p.140。</ref>。
;1950年[[1950年モナコグランプリ]]
:1周目にタバココーナーで多重接触事故が発生し、リタイアしたマシン10台がコースを塞いだ。先頭のファンジオはその状況を知らないまま2周目に入ったが、事故現場のブラインドコーナー手前で減速し、もらい事故を回避した。ファンジオは観客の視線が自分ではなくコースの方を向いていることに気付き、瞬間的咄嗟コース上の危険な状況を察知したという<ref>『F1倶楽部 vol.6 モナコグランプリ物語』 双葉社、1994年、43 - 44頁。</ref>。
;1953年[[1953年イタリアグランプリ]]
:[[モンツァ・サーキット]]にて最終周回の直線で先行していた[[アルベルト・アスカリ]]と[[ジュゼッペ・ファリーナ]]は遅い車に邪魔されて2台ともクラッシュしたが、そのすぐ後ろを入っていたファンジオは一瞬で事態を見抜き、衝突を避けて優勝した<ref name="newhighspeeddriving-140" />。
;[[1955年のル・マン24時間レース]]
:[[ピエール・ルヴェー]]の[[メルセデス・ベンツ]]がランス・マックリンのヒーレーに追突してコースを飛び出し観客80人を死亡させる大混乱の中、そのすぐ後ろを走っていた<ref name="newhighspeeddriving-140" />にもかかわらず、ルヴェーが手を挙げたのを見て危険を察知<ref name="deathrace-167">『死のレース 1955年 ルマン』p.167。</ref>、マックリンのヒーレーとホーソーンの[[ジャガー・Dタイプ]]の間に僅かな空間を見つけ<ref name="deathrace-167" />その隙間を縫って安全に通過間一髪でもらい事故を回避した<ref name="newhighspeeddriving-140" />。ファンジオのメルセデス・ベンツには[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]の緑色のペイントが付着していた<ref name="deathrace-167" />。この大惨事によって精神的に大きなショックを受けたファンジオは、これ以後生涯一度たりともル・マン24時間レースに出走する事が無くった。
;1955年[[1955年イギリスグランプリ]]
:[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]時代、ファンジオと若き[[スターリング・モス]]は理想的な師弟関係を築いた。モスはファンジオの後衛を務め、ファンジオ-モスの順でワンツーフィニッシュを重ねたが、モスの地元イギリスグランプリだけは逆になった。レース中、モスは手で追い抜くよう合図したが、ファンジオは抜こうとせず、モスがF1初優勝を達成した。レース後、モスが譲ってくれたことに礼を述べると、ファンジオは「違うよ、君が速かったんだ」とだけ答えた。
;1956年[[1956年イタリアグランプリ]]
:チャンピオン決定戦となった最終戦イタリアグランプリで、ファンジオはマシントラブルに見舞われピットに戻った。当時のルールではマシンの乗換えが認められたが、[[ルイジ・ムッソ]]は[[チームオーダー]]を無視した。しかしフェラーリの同僚[[ピーター・コリンズ]]は自らのタイトルの権利を捨ててファンジオにマシンを譲り、ファンジオが3連覇を達成するという美談があった(当時の規定では、1台を2人のドライバーが乗り継いでゴールした場合、得点が半分ずつ得られたため)。
;1957年[[1957年モナコグランプリ]]
:2周目、まだスタート直後で全車が一団となって走っている中で先頭のスターリング・モスが障壁に衝突し、続いていた[[マイク・ホーソーン]]とピーター・コリンズが避けきれずに多重衝突となり3台の車でほとんどコースが塞がった中、すぐ後ろを走っていたにもかかわらず[[マセラティ]]を巧みに操り危機を切り抜け優勝した<ref name="newhighspeeddriving-140" />。
;1957年[[1957年ドイツグランプリ]]
:[[ファイル:Juan Manuel Fangio Nurburgring 1957.jpg|thumb|right|160px|ニュルブルクリンクで優勝したファンジオ]]
:ファンジオのレースキャリアの中でも、この年の[[ニュルブルクリンク]]でのドイツグランプリはベストレースと評される。
:マセラティチームは燃料再給油・タイヤ交換作戦を計画し、ファンジオは充分なリードを築いてからピットインしたが、ピット作業に手間取って首位から3位に転落した。コース復帰後もペースが上がらないのを見たフェラーリチームは、1、2位のドライバーに安全に順位をキープするためペースダウンの指示を送った。
:しかし、これは逆転を狙うファンジオが仕掛けた「罠」であった。ファンジオは猛烈なペースアップを開始し、40秒近くあったフェラーリ勢との差をみるみる縮めた。全長が23km近くあるニュルブルクリンクでは1周の間に先行車との差を大きく詰めることが可能であり、かつオンボード無線機が存在しない当時、フェラーリ陣営のドライバーがファンジオの猛烈な追い上げを知る術はピットから示されるサインボードしかなかった。慌てたフェラーリチーム陣営は再度のペースアップを指示するも、集中力を極限まで高めたファンジオは残り2周で2台をかわし、奇跡的な逆転勝利を挙げた。
:ファンジオは予選で前年の[[ポールポジション]]タイムを26秒短縮していたが、レース中の[[ファステストラップ]]はそれよりも8秒早かった。名うてのだたる難コースでの追走は神懸り的とも伝えられ、後に自身も「あのレースではかなりの危険を冒した」と述懐している。
 
== 誘拐事件 ==
[[1958年]]2月、ファンジオはノンタイトル戦のキューバグランプリに出場するため[[キューバ]]の首都[[ハバナ]]を訪れたが、[[フィデル・カストロ]]指揮下の「7月26日運動」のメンバーにより、宿泊先のホテルでピストルを突きつけられ、車で連れ去られた<ref>[http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/43519.html 特集:1958年キューバGP] - ESPN F1(2011年3月18日)</ref>。組織の目的はキューバグランプリを開催する[[フルヘンシオ・バティスタ|バティスタ]]政権の面目を潰すことにあり、ファンジオは隠れ家で手厚くもてなされた末に無事解放された。
 
隠れ家での滞在中、実行犯たちはファンジオの人柄に魅了され、ファンジオの方も[[ストックホルム症候群]]のような連帯感を抱くことになった。[[キューバ革命]]の樹立成就を経て、ファンジオが亡くなこの世を去るまで両者の親交は続いたという。
 
== F1での年度別成レース戦績 ==
=== 第2次世界大戦後のグランプリ・シーズン ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! エントラント
! 所属チーム
! シャシー
! エンジン
! 1
! 2
! 3
! 4
! 5
|-
! [[1948年のグランプリ・シーズン|1948年]]
! [[ゴルディーニ|エキップ・ゴルディーニ]]
! [[ゴルディーニ|シムカ・ゴルディーニ]] [[シムカ・ゴルディーニ Type 11|T11]]
! [[ゴルディーニ|シムカ・ゴルディーニ]] 1.4 [[直列4気筒|L4]]
 
| [[1948年モナコグランプリ|MON]]
| [[1948年スイスグランプリ|SUI]]
|bgcolor="#EFCFFF"| [[1948年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small>
| [[1948年イタリアグランプリ|ITA]]
| [[1948年イギリスグランプリ|GBR]]
|-
! [[1949年のグランプリ・シーズン|1949年]]
! [[アルゼンチン自動車クラブ|アウトモヴィリ・クラブ・アルヘンティーノ]]
! [[マセラティ]] [[マセラティ・4CLT|4CLT/48]]
! [[マセラティ]] 4CLT 1.5 [[直列4気筒|L4]][[スーパーチャージャー|s]]
 
| [[1949年イギリスグランプリ|GBR]]
|bgcolor="#EFCFFF"| [[1949年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small>
| [[1949年スイスグランプリ|SUI]]
|bgcolor="#EFCFFF"| [[1949年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small>
| [[1949年イタリアグランプリ|ITA]]
|-
|}
* '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:Motorsport driver results legend|key]])
 
=== F1 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! エントラント
! シャシー
! エンジン
! 1
! 2
107 ⟶ 160行目:
! 11
! WDC
! [[F1世界選手権ポイントシステム|ポイント]]
|-
!rowspan="2" | [[1950年のF1世界選手権|1950年]]
!rowspan="52" | [[アルファロメオ]]
! [[アルファロメオ・158|158]]
!rowspan="2" | [[アルファロメオ]] 158 1.5 [[直列8気筒|L8]][[スーパーチャージャー|s]]
 
|bgcolor="#EFCFFF"| [[1950年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small>
119 ⟶ 173行目:
|bgcolor="#FFFFBF"| [[1950年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>1</small>
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1950年フランスグランプリ|FRA]]'''''<br /><small>1</small>
|
|
|
|
|
|rowspan="2" bgcolor="#DFDFDF"| '''2位'''
|rowspan="2" bgcolor="#DFDFDF"| '''27'''
|-
! [[アルファロメオ・158|158/159]]
 
|
|
|
|
|
|
|bgcolor="#EFCFFF"| '''''[[1950年イタリアグランプリ|ITA]]'''''<br /><small>Ret<sup>*</sup></small>
|
140 ⟶ 178行目:
|
|
|bgcolor="#DFDFDF"| '''2位'''
|bgcolor="#DFDFDF"| '''27'''
|-
!rowspan="3" | [[1951年のF1世界選手権|1951年]]
! [[アルファロメオ・158|159A159]]
 
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1951年スイスグランプリ|SUI]]'''''<br /><small>1</small>
| [[1951年のインディ500|500]]
|bgcolor="#CFCFFF"| '''''[[1951年ベルギーグランプリ|BEL]]'''''<br /><small>9</small>
|
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1951年フランスグランプリ|FRA]]'''''<br /><small>1<sup>*</sup></small>
|
|
|
|
|
|
|
|rowspan="3" bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|rowspan="3" bgcolor="#FFFFBF"| '''31 (37)'''
|-
! [[アルファロメオ・158|159B]]
 
|
|
|bgcolor="#CFCFFF"| '''''[[1951年ベルギーグランプリ|BEL]]'''''<br /><small>9</small>
|
|bgcolor="#DFDFDF"| [[1951年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>2</small>
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[1951年ドイツグランプリ|GER]]''<br /><small>2</small>
|
|
|
|
|
|-
! [[アルファロメオ・158|159M]]
 
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|
|
|
|
|
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[1951年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>Ret</small>
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[1951年スペイングランプリ|ESP]]''<br /><small>1</small>
185 ⟶ 195行目:
|
|
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"| '''31<br>(37)'''
|-
! [[1953年のF1世界選手権|1953年]]
!rowspan="2" | [[マセラティ]]
! [[マセラティ・A6GCM|A6GCM]]
! [[マセラティ]] A6 2.0 [[直列6気筒|L6]]
 
|bgcolor="#EFCFFF"| [[1953年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>Ret</small>
| [[1953年のインディ500|500]]
|bgcolor="#EFCFFF"| [[1953年オランダグランプリ|NED]]<br /><small>Ret</small>
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[1953年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>Ret<sup>*</sup></small>
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[1953年フランスグランプリ|FRA]]''<br /><small>2</small>
|bgcolor="#DFDFDF"| [[1953年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>2</small>
202 ⟶ 215行目:
|
|bgcolor="#DFDFDF"| '''2位'''
|bgcolor="#DFDFDF"| '''28 <br>(29 {{分数|1|2}})'''
|-
!rowspan="2" | [[1954年のF1世界選手権|1954年]]
! [[マセラティ・250F|250F]]
! [[マセラティ]] 250F1 2.5 [[直列6気筒|L6]]
 
|bgcolor="#FFFFBF"| [[1954年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>1</small>
219 ⟶ 233行目:
|
|rowspan="2" bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|rowspan="2" bgcolor="#FFFFBF"| '''42 <br>(57 {{分数|1|7}})'''
|-
!rowspan="2" | [[メルセデスAMG F1|ダイムラー・ベンツ]] ([[メルセデスAMG F1|メルセデス]])
!rowspan="2" | [[メルセデス・ベンツ・W196|W196]]
!rowspan="2" | [[メルセデスAMG F1|メルセデス]] M196 2.5 [[直列8気筒|L8]]
 
|
238 ⟶ 253行目:
! [[1955年のF1世界選手権|1955年]]
 
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[1955年アルゼンチングランプリ|ARG]]''<br /><small>1</small>
|bgcolor="#EFCFFF"| '''''[[1955年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>Ret</small>
| [[1955年のインディ500|500]]
250 ⟶ 265行目:
|
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"| '''40 <br>(41)'''
|-
! [[1956年のF1世界選手権|1956年]]
! [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]
! [[ランチア・D50|D50]]
! [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] DS50 2.5 [[V型8気筒|V8]]
 
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1956年アルゼンチングランプリ|ARG]]'''''<br /><small>1<sup>*</sup></small>
268 ⟶ 284行目:
|
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"| '''30 <br>(33)'''
|-
! [[1957年のF1世界選手権|1957年]]
! [[マセラティ]]
!rowspan="2" | [[マセラティ・250F|250F]]
!rowspan="2" | [[マセラティ]] 250F1 2.5 [[直列6気筒|L6]]
 
|bgcolor="#FFFFBF"| [[1957年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>1</small>
278 ⟶ 295行目:
| [[1957年のインディ500|500]]
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[1957年フランスグランプリ|FRA]]'''<br /><small>1</small>
|bgcolor="#DFDFDFEFCFFF"| [[1957年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small>
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1957年ドイツグランプリ|GER]]'''''<br /><small>1</small>
|bgcolor="#DFDFDF"| '''[[1957年ペスカーラグランプリ|PES]]'''<br /><small>2</small>
286 ⟶ 303行目:
|
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"| '''40 <br>(46)'''
|-
!rowspan="3" | [[1958年のF1世界選手権|1958年]]
! [[マセラティ]]/[[スクーデリア・スッド・アメリカーナ|スッド・アメリカーナ ([[マセラティ]]
 
|bgcolor="#DFFFDF"| '''''[[1958年アルゼンチングランプリ|ARG]]'''''<br /><small>4</small>
305 ⟶ 322行目:
!rowspan="3" | 7
|-
! [[ヴィバイ・オート・エアー・コンディショナー]]
! 500F
! [[カーティス・クラフト KK500F|KK500F]]
! [[ノバイ・エンジン|ノバイ]] 3.0 [[直列8気筒|L8]][[スーパーチャージャー|s]]
 
|
320 ⟶ 338行目:
|
|-
! [[マセラティ]]/ファン・マヌエル・ファンジオ ([[マセラティ]])
! [[マセラティ・250F|250F]]
! [[マセラティ]] 250F1 2.5 [[直列6気筒|L6]]
 
|
339 ⟶ 358行目:
* <sup>*</sup> : 同じ車両を使用したドライバーに順位とポイントが配分された。
* <sup>†</sup> : Car ran with streamlined, full-width bodywork.
 
<!--
=== ル・マン24時間レース ===
== 注釈 ==
{| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center"
{{Reflist|group="注釈"}}
! 年
-->
! チーム
! コ・ドライバー
! 車両
! クラス
! 周回数
! 総合<br>順位
! クラス<br>順位
|-
! [[1950年のル・マン24時間レース|1950年]]
|align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ゴルディーニ|オートモビル・ゴルディーニ]]
|align="left" | {{flagicon|ARG}} [[ホセ・フロイラン・ゴンザレス]]
|align="left" | [[ゴルディーニ・T15S]]
| S3.0
| 95
| DNF
| DNF
|-
! [[1951年のル・マン24時間レース|1951年]]
|align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ルイ・ロジェ]]
|align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ルイ・ロジェ]]
|align="left" | [[タルボ (自動車メーカー)|タルボ・ラーゴ T26C]]
|rowspan="2" | S5.0
| 92
| DNF
| DNF
|-
! [[1953年のル・マン24時間レース|1953年]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[アルファコルセ|S.P.A.アルファロメオ]]
|align="left" | {{flagicon|ARG}} [[オノフレ・マリモン]]
|align="left" | [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 3000 CM]]
| 22
| DNF
| DNF
|-
! [[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]
|align="left" | {{flagicon|GER}} [[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー・ベンツAG]]
|align="left" | {{flagicon|GBR}} [[スターリング・モス]]
|align="left" | [[メルセデス・ベンツ・300SLR|メルセデス・ベンツ 300 SLR]]
| S3.0
| 134
| DNF
| DNF
|-
|}
 
=== セブリング12時間レース ===
{| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center"
! 年
! チーム
! コ・ドライバー
! 車両
! クラス
! 周回数
! 総合<br>順位
! クラス<br>順位
|-
! [[1954年のセブリング12時間レース|1954年]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ランチア|スクーデリア・ランチアCo.]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[エウジェニオ・カステロッティ]]
|align="left" | [[ランチア・D24]]
|rowspan="3" | S5.0
| 51
| DNF
| DNF
|-
! [[1956年のセブリング12時間レース|1956年]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[スクーデリア・フェラーリ]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[エウジェニオ・カステロッティ]]
|align="left" | [[フェラーリ・モンツァ|フェラーリ・860 モンツァ]]
| 194
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|-
! [[1957年のセブリング12時間レース|1957年]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[マセラティ|マセラティ・ファクトリー]]
|align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ジャン・ベーラ]]
|align="left" | [[マセラティ・450S]]
| 197
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|-
|}
 
=== スパ24時間レース ===
{| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center"
! 年
! チーム
! コ・ドライバー
! 車両
! クラス
! 周回数
! 総合<br>順位
! クラス<br>順位
|-
! [[1953年のスパ・フランコルシャン24時間レース|1953年]]
| {{flagicon|ITA}} [[アルファコルセ|S.P.A.アルファロメオ]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[コンサルヴォ・サネージ]]
| [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 3000 CM Spider]]
| S
| 5
| DNF
| DNF
|-
|}
 
=== ミッレミリア ===
{| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center"
! 年
! チーム
! コ・ドライバー/ナビゲーター
! 車両
! クラス
! 総合<br>順位
! クラス<br>順位
|-
! [[1950年のミッレミリア|1950年]]
|align="center" | -
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[アウグスト・ザナルディ]]
|align="left" | [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 2500 Competizione]]
| S+2.0
|bgcolor="#FFDF9F"| '''3位'''
|bgcolor="#FFDF9F"| '''3位'''
|-
! [[1952年のミッレミリア|1952年]]
|align="center" | -
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ジュリオ・サラ]]
|align="left" | [[アルファロメオ・1900|アルファロメオ・1900 Sprint]]
| GT2.0
| 22位
| 7位
|-
! [[1953年のミッレミリア|1953年]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[アルファコルセ|S.P.A.アルファロメオ]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ジュリオ・サラ]]
|align="left" | [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 3000 CM]]
|rowspan="3" | S+2.0
|bgcolor="#DFDFDF"| '''2位'''
|bgcolor="#DFDFDF"| '''2位'''
|-
! [[1955年のミッレミリア|1955年]]
|align="left" | {{flagicon|GER}} [[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー・ベンツAG]]
|align="center" | -
|align="left" | [[メルセデス・ベンツ・300SLR|メルセデス・ベンツ 300 SLR]]
|bgcolor="#DFDFDF"| '''2位'''
|bgcolor="#DFDFDF"| '''2位'''
|-
! [[1956年のミッレミリア|1956年]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[スクーデリア・フェラーリ]]
|align="center" | -
|align="left" | [[フェラーリ・290 MM]]
| 4位
| 4位
|-
|}
 
=== カレラ・パナメリカーナ ===
{| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center"
! 年
! チーム
! コ・ドライバー/ナビゲーター
! 車両
! クラス
! 総合<br>順位
! クラス<br>順位
|-
! [[1953年のカレラ・パナメリカーナ|1953年]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ランチア|スクーデリア・ランチア]]
|align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ジーノ・ブロンツォーニ]]
|align="left" | [[ランチア・D24|ランチア・D24 Pinin Farina]]
| S+1.6
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"| '''1位'''
|-
|}
 
=== インディアナポリス500 ===
{| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center"
! 年
! シャシー
! エンジン
! スタート
! フィニッシュ
! チーム
|-
| [[1958年のインディ500|1958年]]
| [[カーティス・クラフト]]
| [[ノバイ・エンジン|ノバイ]]
|colspan="2" bgcolor="#FFCFCF"| DNQ
| [[ノバイ・エンジン|ノバイ・オート・エアー・コンディショナー]]
|-
|}
 
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*ファン・マヌエル・ファンジオ/マルチェロ・ジャンベルトーネ共著、[[高斎正]]訳 『ファンジオ自伝』 [[二玄社]] 1974年(原題:''My Twenty Years of Racing'' )
*[[ポール・フレール]]著、[[小林彰太郎]]・武田秀夫訳『新ハイスピード・ドライビング』[[二玄社]] ISBN 4-544-04044-2
*[[ポフレル]]著、相原俊樹[[小林彰太郎]]・武田秀夫 死のレ新ハイスピス 1955年 ルマド・ドライビ 二玄社 ISBN 4-544-0404304044-42
*マーク・カーン著、相原俊樹訳 『死のレース 1955年 ルマン』 二玄社 ISBN 4-544-04043-4
 
== 関連項目 ==
362 ⟶ 574行目:
* [http://www.formula1.com/teams_and_drivers/hall_of_fame/268/ HALL OF FAME Juan Manuel Fangio] - F1公式サイト(英語)
 
{{S-start}}
{{アルファロメオ_(F1)}}
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{{アルファロメオ (F1)}}
{{マセラティ (F1)}}
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371 ⟶ 589行目:
[[Category:アルゼンチンのF1ドライバー]]
[[Category:アルファロメオのF1ドライバー]]
[[Category:マセラティのF1ドライバー]]
[[Category:メルセデスのF1ドライバー]]
[[Category:フェラーリのF1ドライバー]]
[[Category:グランプリドライバー (1949年以前)]]
[[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]]
[[Category:スポーツカー世界選手権のドライバー]]
[[Category:セブリング12時間勝者]]
[[Category:米国自動車殿堂殿堂者]]
[[Category:イタリア系アルゼンチン人]]
[[Category:ブエノスアイレス出身の人物]]