「ピエルカルロ・ギンザーニ」の版間の差分

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| 最終戦 = [[1989年オーストラリアグランプリ|1989年オーストラリアGP]]
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'''ピエルカルロ・ギンザーニ'''('''Piercarlo Ghinzani''', [[1952年]][[1月16日]])は、[[イタリア]]・リヴィエーラ・ダッダ(現・[[メドラーゴ]])出身の[[レーシングドライバー]]で元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
 
== プロフィール経歴 ==
=== ヨーロッパF3チャンピオン ===
[[フォーミュラ・フォード|FF1600]]などの[[ジュニアフォーミュラ]]を経てイタリア[[フォーミュラ3|F3]]選手権に参戦し、その後[[1977年]]には[[ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|ヨーロッパF3選手権]]のチャンピオンになる。その後[[1979年]]にイタリアF3選手権のチャンピオンも獲得する。
 
=== グループC ===
1980年に[[ル・マン24時間レース]]などで活躍した[[ランチア]]のグループC[[スポーツカー (モータースポーツ)|プロトタイプレーシングカー]]のワークスドライバーとして起用された他、[[ヨースト・レーシング]]の[[ポルシェ・956]]などで参戦した。
 
=== F1 ===
==== 1981年-1984年オゼッラ時代 ====
[[Image:Ghinzani Osella FA1F 1984 Dallas F1.jpg|thumb|240px|right|オゼッラをドライブするギンザーニ。[[1984年アメリカグランプリ|1984年アメリカGP]]]]
その後[[{{f1|1981年]]の}}第5戦[[1981年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]に、イタリアに本拠地を置く小チーム・[[オゼッラ]]・[[フォード]]からF1デビューした。この年は第6戦[[1981年モナコグランプリ|モナコGP]]との2戦のみスポット参戦した。
 
[[1982年]]は耐久レースにワークス参戦するためにF1にエントリーしなかったが、[[1983年]]より再度オゼッラ・フォード(途中より[[アルファロメオ]]・[[エンジン]]を搭載)でフル参戦を果たす。[[1984年]]には戦闘力に欠けるマシンながら巧みなドライビングを見せ、[[1984年アメリカグランプリ|アメリカGP]]で5位初入賞を果たした
 
1984年にもフル参戦をし、[[フェア・パーク|ダラス市街地コース]]で開催された[[1984年アメリカグランプリ|アメリカGP]]では、13台がコースアウトやスピンによりリタイアする中で68周のレースを走り切り5位初入賞を果たした。
==== 1985年-1987年 ====
その後[[1985年]]の後半に下位チームの[[トールマン]]に移籍し、[[1986年]]シーズン終了まで在籍したものの、非力なハート・エンジンを搭載したマシンの戦闘力が低いことから入賞できずに終わった。
 
==== トールマン時代 ====
[[1987年]]には当時の中堅チームであった[[フランス]]の[[リジェ]]チームに移籍し、チームメイトの[[ルネ・アルヌー]]とともに入賞が期待されたが、非力なメガトロン・エンジンを搭載したマシンの戦闘力が低く、一度も入賞は果たせなかった。
[[ファイル:1985 European GP Piercarlo Ghinzani.jpg|thumb|240px|right|トールマンをドライブするギンザーニ。[[1985年ヨーロッパグランプリ|1985年ヨーロッパGP]]]]
{{f1|1985}}もオゼッラから参戦していたが、8月の[[1985年オーストリアグランプリ|第10戦オーストリアGP]]より、[[ベネトン]]がメインスポンサーとなり体制が強化された[[トールマン]]に移籍する。空力を得意とする[[ロリー・バーン]]によって設計された[[トールマン・TG185|TG185]]はチームメイトの[[テオ・ファビ]]がドイツGPにて[[ポールポジション]]を獲得するなど短期的には速さを持っていたが<ref>F1デザインルネッサンス 1985年レギュレーション要旨 F1グランプリ特集 Vol.79 131頁 ソニーマガジンズ 1996年1月16日発行</ref>、決勝レースではマシントラブルの発生が多く、ギンザーニは参戦した7戦で完走なしに終わった。シーズン終了後にチームはベネトンに完全買収され「[[ベネトン・フォーミュラ]]」へと改組。新たにチームマネージャーとなった[[ピーター・コリンズ (F1監督)|ピーター・コリンズ]]はファビのチームメイトとして新たに[[ゲルハルト・ベルガー]]を獲得することを正式発表し<ref>R'on INTERVIEW ゲルハルト・ベルガー「フェラーリへの道」 by James Daly [[Racing On]]1987年2月号 60-65頁 武集書房 1987年2月1日発行</ref>、ギンザーニはシートを半年で失った。
 
==== 1988年-1989年オゼッラ(2期目) ====
{{f1|1986}}は古巣オゼッラに復帰。しかしチームは依然マシンの戦闘力を高められておらず、全16戦で完走は[[1986年オーストリアグランプリ|第12戦オーストリアGP]]での11位完走の1度のみであった。
翌[[1988年]]には、[[ドイツ]]の弱小チームである[[ザクスピード]]に移籍し1シーズンを過ごすが、安定したドライビングを見せ信頼性に欠けるマシンながら確実に完走に持ち込むベテランらしいドライビングを見せた。
 
==== リジェ時代 ====
[[1989年]]には再び古巣のオゼッラに戻り、非力なコスワースDFRエンジンのために戦闘力が低いマシンながら、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]F1中継の[[アナウンサー]]の[[古舘伊知郎]]から「いぶし銀」と評されたような手堅い走りを見せ、この年を最後に引退した。
[[File:Ligier JS 29 1.jpg|thumb|240px|right|リジェJS29・メガトロン([[ルネ・アルヌー]]車)]]
{{f1|1987}}、フランスの[[リジェ]]に移籍。これはリジェへエンジン供給することになっていた[[アルファロメオ]]がギンザーニ起用を支援したことにより得たシートだったが<ref>[https://www.unracedf1.com/unraced-projects-of-the-1987-season/ 1987 Ligier JS29 AlfaRomeo] UnracedF1 2020年11月21日</ref>、開幕戦を前にアルファロメオとリジェの契約が破棄されてしまった<ref name="87franch_gpx">LIGIER LOTO フレンチブルーに栄光あれ [[GPX (雑誌)|グランプリ・エクスプレス]] '87フランスGP号 20-21頁 1987年7月20日発行</ref>。しかし、ギンザーニの後ろ盾であったアルファロメオがチームから撤退しても、ギンザーニはリジェのマシンで参戦継続できることになった。シーズン中に幾度も大規模な変更が加えられた[[リジェ・JS29|JS29]]は戦闘力を持たず、前年でF1撤退した[[BMW]]からエンジンを買い取ってF1に乗り出していたアメリカ資本の[[BMW・M12/13エンジン|メガトロン]]・ターボエンジンの信頼性も低かった。ギンザーニの決勝最高位は[[1987年ベルギーグランプリ|第3戦ベルギーGP]]での7位で、一度も入賞は無かった。[[1987年イギリスグランプリ|第7戦イギリスGP]]では、予選中にガス欠でストップしてしまいコース上での給油行為をしたが、これがレギュレーションで禁止行為であり失格処分を受け、罰金と執行猶予付き1戦出場停止のペナルティを受けた。
 
==== グルザクスピプCド時代 ====
{{f1|1988}}、ドイツの[[ザクスピード]]に移籍。チームメイトは前年ドイツF3でチャンピオンを獲得した新人[[ベルント・シュナイダー]]となった。自製の直4ターボエンジンを搭載する[[ザクスピード・881]]は信頼性に欠けるエンジンで、ドライバーは2名とも予選落ちの山を築いたが(ギンザーニ7回、シュナイダー10回の予選落ち)、ギンザーニはシュナイダーより多い3回の決勝レース完走を果たした。最高位は14位。
[[1980年代]]に[[ル・マン24時間レース]]などで活躍した[[ランチア]]のグループC[[プロトタイプレーシングカー]]のワークスドライバーとして活動した他、その経験を生かしてイエスト・[[ポルシェ]]などの有力チームでも数々の優勝経験を持つ。
 
==== オゼッラ時代(3期目) ====
1989年には三たび古巣のオゼッラに戻った<ref>ギンザーニはオゼッラに決定 [[GPX (雑誌)|グランプリ・エクスプレス]] '89NA回帰元年号 31頁 [[山海堂 (出版社)|山海堂]] 1989年2月8日発行</ref>。非力なコスワースDFRエンジンのためにパワーが低かったが、[[オゼッラ・FA1M]]シャシーの素性は良く、チームメイトの[[ニコラ・ラリーニ]]が予選で10位や11位の好グリッドを獲得するポテンシャルがあった。ギンザーニは全16戦中13回の[[予備予選 (F1)|予備予選]]落ちを喫した。[[1990年イタリアグランプリ|第12戦イタリアGP]]の期間中に会見を開き、「私のレース以外のビジネスが多忙になったのも理由の一つだが、決断した最大の理由は予備予選制度にある。今の予備予選はF1が本来あるべき姿に反していると思う。これさえ無ければまだ走っていたかったんだが。」と同年限りでの引退声明を発表した。そして「この不公平な予備予選を受けることなく、公式予選に出走できる制度に戻ったならF1復帰を考えても良い」と付け加えた<ref>ギンザーニが引退を表明 グランプリ・エクスプレス '90イタリアGP号 37頁 1990年9月28日発行</ref>。[[1989年オーストラリアグランプリ|最終戦オーストラリアGP]]では予選突破を果たしたが、豪雨での強行開催となった決勝レースではストレートエンドで水煙により前を走るギンザーニに気付くのが遅れた[[ネルソン・ピケ]]に追突されるクラッシュに巻き込まれ走行不能となった。このリタイヤを最後にギンザーニはレーシングドライバーを引退した。
 
=== チーム・ギンザーニ ===
引退後の[[1992年]]はF3チーム「チーム・ギンザーニ」を結成し、イタリアF3選手権に参戦した後は[[ドイツ]]F3選手権へ参戦している。同チームはF1ドライバーの[[ロバート・ドーA1グラボスプリ]]を輩出するなど、名門チームとへ参戦ての評価いずれも優勝含む活躍をしている。
 
同チームはF1ドライバーの[[ロバート・ドーンボス]]を輩出する他、有力チームとしてそのドライバーラインナップが紙面を賑わすなど、有力かつ名門チームとしての評価を得ている。
=== その他 ===
F1参戦と並行して他のレースにも出場。好成績をおさめていたという。
性格はひょうきんで楽天家であったという。またインタビュー前には、必ず髪をセットしてから臨んでいたという非常に御洒落な部分もあったらしい。
 
== その他 ==
F1参戦と並行して他のレースにも出場。[[ランチア]]のワークスで[[ル・マン24時間レース|ル・マン24時間]]や[[富士スピードウェイ]]に参戦し好成績をおさめていた。性格はひょうきんで楽天家であり、服装には気を使い、インタビュー前には髪をセットしてから臨んでいたという非常に御洒落な部分もあった。
 
== F1での年度別成レース戦績 ==
=== ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! エントラント
! シャシー
! エンジン
! 1
! 2
! 3
! 4
! 5
! 6
! 7
! 8
! 9
! 10
! 11
! 12
! 13
! 14
! 順位
! ポイント
! 参照
|-
![[1975年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|1975年]]
!rowspan="2"| スクーデリア・アレグリニ
! CRS・001
!rowspan="3"| [[トヨタ・T型エンジン#2T-G|トヨタ 2T-G]]
|{{MsStatsC|ret}}|[[モンテカルロ市街地コース|MON]]<br />{{small|Ret}}
|[[ニュルブルクリンク|NÜR]]
|[[アンデルストープ・サーキット|AND]]
|{{MsStatsC|pt}}|[[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br />{{small|5}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[クロワ=アン=テルノワ・サーキット|CET]]<br />{{small|Ret}}
|[[リンク・デューアスラン|DJU]]
|
|
|
|
|
|
|
|
!20位
!2
|
|-
![[1976年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|1976年]]
! [[マーチ・エンジニアリング|マーチ・763]]
|{{MsStatsC|dns}}|[[ニュルブルクリンク|NÜR]]<br />{{small|DNS}}
|{{MsStatsC|1st}}|[[ザントフォールト・サーキット|ZAN]]<br />{{small|1}}
|[[マントープ・パーク|MAN]]
|[[アヴス・サーキット|AVU]]
|{{MsStatsC|3rd}}|[[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br />{{small|3}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br />{{small|Ret}}
|[[クロワ=アン=テルノワ・サーキット|CET]]
|{{MsStatsC|pt}}|[[レッドブル・リンク|ÖST]]<br />{{small|4}}
|{{MsStatsC|pt}}|[[カッセル空港|KAS]]<br />{{small|4}}
|[[リンク・クヌーツトープ|KNU]]
|{{MsStatsC|3rd}}|[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br />{{Small|3}}
|
|
|
! 6位
! 11
|
|-
![[1977年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|1977年]]
! [[ユーロブルン|AFMP・ユーロレーシング With マーチ]]
! マーチ・773
|bgcolor="#FFDF9F"|[[ポール・リカール・サーキット|LEC]]<br /><small>3</small>
|bgcolor="#FFFFBF"|[[ニュルブルクリンク|NÜR]]<br /><small>1</small>
|bgcolor="#FFDF9F"|[[ザントフォールト・サーキット|ZAN]]<br /><small>3</small>
|bgcolor="#FFFFBF"|[[ゾルダー・サーキット|ZOL]]<br /><small>1</small>
|bgcolor="#DFDFDF"|[[レッドブル・リンク|ÖST]]<br /><small>2</small>
|bgcolor="#FFFFBF"|[[イモラ・サーキット|IMO]]<br /><small>1</small>
|bgcolor="#DFDFDF"|[[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br /><small>2</small>
|bgcolor="#DFFFDF"|[[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>4</small>
|bgcolor="#FFCFCF"|[[クロワ=アン=テルノワ・サーキット|CET]]<br /><small>DNQ</small>
|bgcolor="#CFCFFF"|[[リング・クヌツトープ|KUN]]<br /><small>7</small>
|bgcolor="#EFCFFF"|[[カッセル空港|KAS]]<br /><small>Ret</small>
|bgcolor="#DFFFDF"|[[ドニントン・パーク|DON]]<br /><small>4</small>
|bgcolor="#FFDF9F"|[[ハラマ・サーキット|JAR]]<br /><small>3</small>
|bgcolor="#FFDF9F"|[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br /><small>3</small>
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''
|bgcolor="#FFFFBF"|'''58'''
|<ref>{{Cite web|title=Formula 3 1977 - Race Index|url=http://www.the-fastlane.co.uk/formula2/F377_Index.htm|website=www.the-fastlane.co.uk|accessdate=2021-02-10}}</ref>
|-
! [[1979年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|1979年]]
! ユーロレーシング
! [[マーチ・792#マーチ・792をベースとしたマシン|マーチ・793]]
! アルファロメオ
|{{MsStatsC|1st}}|''[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]''<br />{{small|1}}
|{{MsStatsC|2nd}}|[[レッドブル・リンク|ÖST]]<br />{{small|2}}
|{{MsStatsC|Ret}}|[[ゾルダー・サーキット|ZOL]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|3rd}}|[[マニクール・サーキット|MAG]]<br />{{small|3}}
|[[ドニントン・パーク|DON]]
|{{MsStatsC|3rd}}|[[ザントフォールト・サーキット|ZAN]]<br />{{small|3}}
|{{MsStatsC|1st}}|[[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br />{{small|1}}
|{{MsStatsC|pt}}|'''[[モンツァ・サーキット|MNZ]]'''<br />{{small|4}}
|[[リング・クヌツトープ|KNU]]
|[[キネクレー・リンク|KIN]]
|[[ハラマ・サーキット|JAR]]
|[[カッセル空港|KAS]]
|
|
! -
! -
|
|}
*[[1978年のヨーロッパF2選手権]]でギンザーニが6位以内入賞歴を得たため、[[グレーデッド・ドライバー]]の対象となり下位カテゴリに相当するヨーロッパフォーミュラ3選手権では1979年選手権ポイント対象外となった。
 
=== 全日本フォーミュラ2選手権 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! 所属チーム
! マシン
! タイヤ
! 1
! 2
! 3
! 4
! 5
! 6
! 7
! 順位
! ポイント
|-
! [[1978年の全日本F2選手権|1978年]]
! シェブロンカーズ
! シェブロン・B40/42 BMW
! {{Bridgestone}}
| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]
| [[富士スピードウェイ|FSW]]
|{{MsStatsC|pt}}| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>5</small>
| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]
| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]
| [[MINEサーキット|NIS]]
| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]
! -<ref name="jaf">JAF([[日本自動車連盟]])ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。</ref>
! -<ref name="jaf" />
|}
=== ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! チーム
! シャシー
! エンジン
! 1
! 2
! 3
! 4
! 5
! 6
! 7
! 8
! 9
! 10
! 11
! 12
! 13
!{{Tooltip|Pos.|Championship position}}
!Pts
|-
! [[1977年のヨーロッパF2選手権|1977年]]
! Sarea Euroracing
![[マーチ・エンジニアリング|マーチ・772]]
!rowspan="2"| [[BMW・M12/13エンジン#M12/7|BMW M12/7]]
|[[シルバーストン・サーキット|SIL]]
|[[スラクストン・サーキット|THR]]
|[[ホッケンハイム|HOC]]
|[[ニュルブルクリンク|NÜR]]
|[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]
|[[ポー・グランプリ|PAU]]<br />
|[[ムジェロ・サーキット|MUG]]
|[[ルーアン・レゼサール|ROU]]
|[[ノガロ・サーキット|NOG]]
|[[エンナ・ペルグーサ|PER]]
|[[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]]
|[[エストリル・サーキット|EST]]
|{{MsStatsC|f}}|[[ドニントン・パーク|DON]]<br />{{small|11}}
! NC
! 0
|-
! [[1978年のヨーロッパF2選手権|1978年]]
! ユーロレーシング
! マーチ・782
|{{MsStatsC|f}}|[[スラクストン・サーキット|THR]]<br />{{small|10}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[ホッケンハイムリンク|HOC]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[ニュルブルクリンク|NÜR]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[ポー・グランプリ|PAU]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|f}}|[[ムジェロ・サーキット|MUG]]<br />{{small|8}}
|{{MsStatsC|f}}|[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br />{{small|7}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[ルーアン・レゼサール|ROU]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[ドニントン・パーク|DON]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|f}}|[[ノガロ・サーキット|NOG]]<br />{{small|8}}
|{{MsStatsC|pt}}|[[エンナ・ペルグーサ|PER]]<br />{{small|4}}
|{{MsStatsC|ret}}|[[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]]<br />{{small|Ret}}
|{{MsStatsC|f}}| [[ホッケンハイムリンク|HOC]]<br />{{small|10}}
|
! 16位
! 3
|}
=== F1 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
389 ⟶ 601行目:
! NC<br>(37位)
! 0
|-
|}
([[Template:F1 driver results legend 2|key]])
 
=== ル・マン24時間レース ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"
! 年
! チーム
! コ・ドライバー
! 使用車両
! クラス
! 周回
! 総合<br>順位
! クラス<br>順位
|-
! [[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]
|align="left"| {{flagicon|ITA}} [[ランチア|ランチア コルセ]]
|align="left"| {{flagicon|ITA}} [[ジャンフランコ・ブランカテリ]]<br>{{flagicon|FIN}} [[マルク・アレン]]
|rowspan="2" align="left"| [[ランチア・ベータ・モンテカルロ]]
| Gr.5
| 26
| DNF
| DNF
|-
! [[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]
|rowspan="2" align="left"| {{flagicon|ITA}} [[マルティニ レーシング]]
|align="left"| {{flagicon|ITA}} [[リカルド・パトレーゼ]]<br>{{flagicon|DEU}} [[ハンス・ヘイヤー]]
| Gr.5
| 186
| DNF
| DNF
|-
! [[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]
|align="left"| {{flagicon|ITA}} リカルド・パトレーゼ<br>{{flagicon|DEU}} ハンス・ヘイヤー
|align="left"| [[ランチア・LC1]]
| Gr.6
| 152
| DNF
| DNF
|-
! [[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]
|align="left"| {{flagicon|ITA}} [[マルティニ レーシング|マルティニ]] [[ランチア]]
|align="left"| {{flagicon|ITA}} [[ミケーレ・アルボレート]]<br>{{flagicon|DEU}} ハンス・ヘイヤー
|align="left"| [[ランチア・LC2]]
| C
| 121
| DNF
| DNF
|}
 
== 関連項目 ==
397 ⟶ 654行目:
* [[ドライバー一覧]]
* [[F1ドライバーの一覧]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
* [https://www.teamghinzani.com/ チームギンザーニ]オフィシャルウェブサイト
*{{Instagram|teamghinzani|Team Ghinzani}}
 
{{start box}}
{{s-sports}}
{{succession box|title=ヨーロッパ[[フォーミュラ3|F3]]選手権 チャンピオン |before=[[リカルド・パトレーゼ]]|after=[[ヤン・ラマース]]|years=1977年}}
{{end box}}
{{オゼッラ}}
{{トールマン}}
{{リジェ}}
{{ザクスピード}}
{{F3選手権歴代チャンピオン}}
{{デフォルトソート:きんさに ひえるかるろ}}
 
{{デフォルトソート:きんさあに ひえるかるろ}}
[[Category:イタリアのF1ドライバー]]
[[Category:オゼッラのF1ドライバー]]
[[Category:トールマンのF1ドライバー]]
[[Category:リジェのF1ドライバー]]
[[Category:ザクスピードのF1ドライバー]]
[[Category:ヨーロッパF2選手権のドライバー]]
[[Category:ヨーロッパF3選手権のドライバー]]
[[Category:全日本F2選手権のドライバー]]
[[Category:スポーツカー世界選手権のドライバー]]
[[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]]
[[Category:レーシングチームのオーナー]]
[[Category:ロンバルディア州出身の人物]]
[[Category:1952年生]]